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「黄泉比良坂にて」 #54

 遠くのほうでサイレンの音が聞こえた。あたりの空間にこだまするその音は、ふわふわして、幻聴のようで、ぜんぜん距離感が掴めなかった。近くで鳴っているようでもあるし、ずいぶん遠くで鳴っているような気もする。
 おれはゆっくりと目を開けようとするが、まぶたが何かで引っ付いているように全く開かない。接着剤で固められているようだ。
 目についているものを手で払いのけようとするが、まったく腕が動かない。そうか、おれの腕はもうないんだっけ、と他人事のように思い出す。西川原、と叫びたかったが、声も出ない。息も吸うことができない。
 おれは長い時間をかけて、少しずつ目を開ける。視界ははじめ、ぼんやりとしていたが、だんだん輪郭がはっきりしてくる。目の前には雑木林があった。ひどい頭痛がして、ものがまともに考えられない。おれは身を起こそうとしたが、当然ながら腹筋にも力は入らなかった。
 あきらめて、目だけで周囲の状況を確認しようとする。ぼやけた雑木林は、あの山のものだろうか。少しだけ、空が明るくなっているような気がする。
 サイレンの音はどこか遠くで鳴り響いている。少しだけ首が動かせるようになって、おれは自分の身体を見た。上半身は何も身にまとっておらず、全身を真っ黒の痣が覆っている。そして、肩からは、自分の腕がそこにあるのが見えた。暗いというのもあるが、少なくとも真っ黒で、感覚が一切通っていないから、動くのかどうかはよくわからない。
 そして、右腕の先には、一本の細い手が重なっていた。西川原だった。だが、真っ白だった西川原の腕も、自分ほどではないが、真っ黒な痣で覆われていた。よく見ると、自分の手と西川原の手は繋がっているが、肩から先の感覚は一切なく、繋いでいるという実感は一切ない。
 西川原は眠っているようだった。あるいは、全く動かないので、死んでいるのかもしれない。西川原、とおれは呼びかけたが、反応は何もない。身体が動かせないので、声だけだ。そして、自分の左には工藤も寝ているのが見えた。三人とも、地面に仰向けになって、寝ているのだ。
 サイレンの音が少しずつ近づいてくる。そのままじっとしていると、複数の足音がこちらに向かってくるのが聞こえた。誰かはわからないが、大人たちのようだ。消防隊員のような制服を着ている。
「おい、生きてるぞ!」そのうちのまだ若い、二十代ぐらいの一人が叫んだ。大人たちが自分たちを取り囲む。
「おい、大丈夫か? 痛いか?」
 おれはとりあえず頷き、西川原に目をやった。別の大人が西川原の腕を手に取り、「なんだ、この痣は」と言いながら、身体に触れるのが見えた。「大丈夫だ、こっちも生きてる」
 さらに周囲に人が増え、おれたちは担架に載せられた。(つづく)


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