文章力ってなんだ?(定期)
noteをはじめとするブログメディアはものを書く人たちがあつまる場なので、よく「文章力」について持論を述べているひとたちを目にする。
念能力者同士なら、相手のオーラの総量がどの程度あるのかを知るのは大切なことだ(ハンターハンター的な世界観で言うと)。
僕も、たまにではあるが、「筆力がある」と言われることがある。それはありがたいことなのだけれど、それが何を意味するのか、あらためて考えてみることにする。
うまい人の文章というのは、じつは読んでもすぐにはわからないのでは、と思う。
なぜなら、巷間に出回っている文章の大半が「うまい文章」だからだ。
一般的に、本屋で出版されているレベルの書籍は、素人によって書かれ、編纂されているわけではない。仮に著者が素人であったとしても、編集者、校閲者によって、徹底的に「手直し」される。
だから、日常的に触れる文章というのは、うまくて当然なのだ。そのへんのコンビニで売ってるコンビニ飯で、「失敗した料理」がないのと似た状況だといえる。
僕たちは、日々、一流のものを「当たり前」のものとして触れ続けているのだ。
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文章力というのは、下手くそな文章を読んだときに、はじめて強く実感される。
下手な文章は、最初の行を読んだ瞬間に、すぐにわかる。特に小説などだと顕著だ。ひとつの文のなかに、2・3箇所もツッコミどころがあり、少し進むだけでツッコミ疲れてくるので、なかなか前に進まない。
よく「日本語ができていない」というような感想を聞くが、日本語というよりも、論理的に破綻していることが多い。たったひとつの文の中で論理破綻しているというダイナミックなものもある。
うまい文章というのは、引っ掛かりが極端に少ない。流れるように読めてしまう。
心に残るところがあるとなおいいが、僕は、文章が下手な人が最初に目指すべきは「流れるように読める」文章だと思う。文章を読むという作業は、たとえそれがうまい文章であってもたいへん労力をともなうものなので、変なところで引っ掛かってしまう文章を読ませる、というのはあまりよろしい状況ではない。
あと、文章がうまい人というのは、組み立てがうまいな、とよく思う。流れるように語る。
日常のちょっとしたことでも、文章に仕立てあげられてしまう。普通の人だったら見逃してしまうようなことも、独特の着眼点によって、面白い文章にできてしまう人が、本当に「文章がうまい人」だと思う。修行を積んだ禅僧は、新聞記事でも、小説でも、毛沢東語録でも説法に使えるというが、まさにそのとおりだ。
「文章力」というのは、「なんでもないことを、面白く、流れるような文章にできる」能力なのかもしれない。「なんでもないことを、面白く話す」ことができる人と、似ているのかも。
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筆力、文章力、というのは考えすぎるとドツボにハマりますね。シンプルに、「読みやすいかどうか」「面白いかどうか」この2つを評価ポイントにしたらいいのではないでしょうか。
さて、僕の文章、楽しんでいただけているでしょうか?
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