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音楽は「気分の芸術」

最近、またちょくちょくと散歩をするようになった。冬のあいだも、運動不足解消のためにたまに歩いていたのだが、ある日、尋常じゃないほど冷え込んだ日があって、外を歩いていたら何をしているのかわからなくなってしまい、早々に引き上げてきたことがある。

その日以降、それに懲りてしばらく中断してしまっていた。また少しずつ暖かくなってきたので、再開することにしたのだ。
 
散歩しているときは手ぶらで、音楽なども聴いていない。しかし、せっかく一時間以上散歩しているのだから、何か音楽を聞くのはどうかと思い、ワイヤレスイヤホンを装着しながら歩いてみたのだが、どうもしっくりこない。

はじめは音楽に集中しているのだが、そのうちうるさくなってきて、無音の状態で歩くことになる。無音とはいっても、街の音を聴きながら歩くので、それなりに刺激的で、それなりに面白い。


 
最近思うのが、音楽というのは「気分の芸術」だということだ。そして、それは諸刃の剣でもある。そのときの雰囲気や気分に合う・合わないがあるためだ。

「合っている」音楽ならば、気分を高揚させてくれるのだが、合わないものだと、むしろ逆効果になる。散歩中なのだから、気分など気にせずになんでも好きなものを聞いたらいいように思うのだが、そのときの気分に合わない音楽を延々と聴き続けるのはなかなか苦痛だ。

せっかくなので、「これまでに聞いたことのない音楽」を聞くようにしているのだが、ギャンブル要素がどうしても強くなる。これは散歩中だからということではなくて、仕事中や文章の執筆中に音楽を聞く場合でも同様だ。そのときの気分に合っていないと、むしろ集中を削ぐ結果となる。

だから、どうしても何かが聴きたい場合は、雨の音や川の音などの自然音を選択することが多い。


 
僕はたまに音楽を作るのだが、このようにあまり他人が作った曲は聞かなくなったな、と思った。自分で音楽をつくる場合は、あまりそういった「インプットの少なさ」は気にならない。

逆にいうと、自分で作る音楽は「音が行きたい方向」を自分で示してくれるので、それを追いかけて、整理整頓しているにすぎない。「そのときの自分の気分を端的に表現している」のが自分のつくる音楽なのかもしれない。
 
そうやって考えていくと、そもそも自分の音楽を支持してくれる人がいること自体、なんだか奇跡のようなものだな、と思う。自分の曲が好きな人は、そのときどきの気分が自分と同じ、ということのような気がするからだ。

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