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「黄泉比良坂にて」 #53

 気付けばおれは泣いていた。いや、水の中にいるわけだから、自分が泣いているかどうかはわからない。しかし、喉の奥が痙攣し、目を閉じていられない。これから死ぬんだ、と自覚した瞬間、これまで自分が生きてきた世界が、急に温かいものに感じられた。
 境界線を超えつつあるんだ、とおれは思った。
 境界線を超えて、向こう側へ行こうとしているのだ。
 境界線を超えてしまえば、二度とこちら側へは戻って来られない。
 だから、おれは泣いているのだ。
 ゆっくりと目を開けると、身体が少しずつ浮かびあがるのがわかった。力を抜いて、流れに身を任せれば、身体は浮くのだろうか。水面まではあと少しで、水面の向こう側に、人魂がたくさん浮遊しているのが見えた。ただ浮遊しているだけだと思った人魂が、急に言葉をもって、何かを語りかけてくるような感覚がする。身体が少しずつ浮かびあがり、水面が少しずつ近づいてくる。それでもじっとしていると、やがて水面に顔を出すことができた。
 それと同時に、目の前に、蛍のように人魂が浮遊していて、とても綺麗だと思った。清水、と大きな声が聞こえたが、そちらを見ることもできない。工藤だろうか。実は、水中に潜っていたのは、ほんの数秒だったのではないだろうか、と思った。死を意識したことで、時間の感覚が何倍にも引き伸ばされたのだ。
 おれは西川原の父親のことを考えていた。西川原の父親も、いまのおれたちと同じように、この川を遡って、元の世界へ帰ろうとしたのだろうか。だが、彼の場合は、おれとは逆の結末が待っていた。彼は、体は元の世界に戻り、魂だけ入れ替わったのだ。おれの身体を工藤が支えているのが見える。
 おれは、自分の身体を客観的に、別の視点から見ていることに気が付いた。身体が水面から少し浮かび上がり、自分の身体を支えている工藤や、西川原を含め、それらの風景を、少し上の視点から眺めているのだった。きっと、おれは、気を失ったのだろう、とおれは思った。気を失って、これは、生と死の間の、走馬灯のようなものなのだろう。
 境界線の、こちら側に、来ることができた。
 自分の身体をよく見る。
 上半身は焦げたように真っ黒になっていて、腕もやはり、ついていない。
 あれは、たぶん、マネキン人形ではなく、本物だ。
 周りの世界がとても明るいことに気が付いた。
 月明かりのせいではない。
 昼間のように、あたりが明るい風景に包まれていた。
 川の上や、川岸に、たくさんの人の気配がした。
 いったん自分の身体から目をそらし、人の気配のほうに目をやると、川岸をや川の上には隙間もないほど人間が立って、こちらをじっと見ているのがわかった。
 式神だろうか。
 いや、違う、彼らはただ黙ってこちらを見ているだけだ。
 何もしてこない。
 表情はほぼ無表情で、何も読み取ることができない。
 人魂の姿が見えるようになったみたいだ、とおれは思った。
 自分自身が人魂になったのだ、と少し冷静にそう思った。
 西川原の父親はいないのだろうか、とあたりを見渡す。
 だが、もちろん、西川原の父親のことは何も知らないのだから、何もわかるはずがない。
 工藤が水面に飛び込むのが見えた。
 工藤も溺れたのだろうか、とおれは思った。
 しばらくすると、工藤がおれの腕を両方とも持った状態で、水面にあがってくる。
 西川原がおれの身体を支えている。
 工藤は取れたおれの腕、必死で肩のあたりに押し付けている。
 そんなことをしても何も変わらないのに、とおれは苦笑する。
 だが、自分の姿は自分で見ることはできない。
 あくまで、自分が苦笑したような感じがしただけだ。
 いまのおれは、自分の身体を持たないわけだから、何も制御はできない。
 次の瞬間、西川原がおれの身体に覆いかぶさった。
 何が起こったのだろうか。
 おれは自分自身が、自分の身体に引っ張られるように、強制的に、自分の身体の中に押し戻された。
 おれは今度は、自分の本当の目を見開く。
 目の前に、西川原の顔があった。
 おれは思い切り、身体の中にあった水を吐き出した。
 西川原の顔は、苦痛に歪んでいる。
 西川原の口から、赤い液体が出てきているのが見えた。
 血だろうか。
「清水くん、目を閉じて」
 西川原はそう言うと、おれに顔を近づける。
「目を閉じてって、言ってるでしょ」
 西川原がおれに唇を重ねた。
 ざらついた、鉄の味がした。(つづく)


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