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読んだ本を「忘れる」こととどう向き合うか?

りなるさんの「読書ノート」に関するnoteを読んだ。

すごく面白かった。というのも、りなるさんは読書嫌い(自称)らしい。僕の身の回りでは、読書をする人は基本的に読書好きであって、読書嫌いの人がわざわざ読んだりすることはない。

そういう意味で、「読書嫌いの読書家」の存在は極めて稀なので、そういう人がどういうことを考えているのか、はあまり知る機会がなかった。なので、自分とは違う感覚も含めて、いろいろと発見があった。

りなるさんは読書をすることにより「他人の思考の影響を受けたくなかった」らしい。いまは違うが、かつてはそうだった、と。つまり、純粋に自分の思考なのか、他人の思考に影響された思考なのか、混ざる感覚が嫌なのだ、と。

こういう感覚の人は以前にも出会ったことがある。自分には全くない感覚なので、面白いな、と思った。自分は発想が他人の思考だろうがなんだろうが、一度自分のなかに吸着してしまえば自分の思考でもあると考えるタイプなので、他人の思考の影響を受けることに抵抗がない。「気持ち悪い」と書かれていたので、生理的な感覚なのだと推察できる。

どの程度影響を受けるのが嫌なのか、という程度問題もあるだろう。厳密にいえば、そもそも日本語でものを考えている時点で、日本語というツールに乗っかっており、純粋に自分の思考とはいえないかも。

自分の場合、もっと具体的に、たとえば中学生ぐらいのときにはじめて書いた小説も、当時読んでいた小説のパクリみたいな内容だったので、がんらいそういった感覚がなかったことは確かだ。

思考に影響を与える点でいうと、いろんな人の本を読んできた。小説もあれば、ノンフィクションもある。村上春樹、村上龍、内田樹、佐藤優、橘玲、小熊英二、瀧本哲史、ジャレド・ダイアモンド、森博嗣……。

そのときどきでマイブームがあり、いろんな作家にかぶれてきたけれど、いまは上記に挙げたどの作家も、それだけに集中して読むことはない。かぶれた結果、そのうち「なんか違うな」と思って離れていくのが普通である。しかし、上記に挙げた作家の思考が自分の思考に影響を与え、人格にまで影響を与えていることは確かだろう、と思う。

むしろどんどん影響は受けたいと思っているのだが、最近は逆に影響を受けまくること自体が減ってしまった。ある程度、自分の思考の基盤ができてきた、ということだろうか。それが喜ばしいことなのか、そうでもないのかは、なんともいえない。

読書ノートの話。りなるさんは読書ノートとして、気になった箇所の切り抜きをやっているらしい。自分も昔はやっていたことがあるのだが、やめてしまった。

理由は、めんどくさいから。それに、自分が気に入った箇所の切り抜きをしても、それだけで本質が抽出できるほど精度が高いわけでもない、と思ったからだ。どちらかというと、気に入った言い回しとか、ちょっとしたtipsが多く、切り抜いたものを並べてみてもその本の本質だとは思えないものが多かったからだ(これは自分の切り抜きの精度が低いだけかもしれないけれど)。

最近は、忘れるものは忘れるべくして忘れたと思うようにして、忘れることを全く厭わなくなっている。どの本を読んだかの記録はつけているけれど、いわゆる読書メモ的なものはほぼ皆無である。

自分にとって読書とは、走ったり、筋トレする感覚に近いかも。内容ではなく、読書行為そのものに価値がある。そこが読書嫌いの人とは一番相入れない部分かもしれないけれど、読書自体が好きなので、読書によって何も得られなかったとしても特に気にならないのかも。

いわゆるデータをドラッグ&ドロップしている感覚ではなく、文字を介して他人の思考や概念を参照し、自分の思考や記憶と照らし合わせて、新しいものを「生成」している感覚である。なので、同じ本でも読むたびに思うことが違う。自分の中に蓄積している記憶が違うからである。1年ぐらいでもわりと違うし、10年も経てば全然違う。

むしろ、読んだ本の内容を忘れてしまうほうが、また読んだときに感動できるのでお得だ、ぐらいに思ってしまう。まあそんな調子で、読んでは忘れて、を繰り返している。前進しているかどうかはよくわからないが、おそらく前進しているのだろう。

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