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思考は言語によって行われるのか?

昔から疑問なことのひとつに、「思考は言語によって行われるのか?」というものがある。そういうことについて書かれている本なども多いのだが、少し自分の頭で考えてみたい。
 
まず前提として、すべての思考が言語によって行われるわけではない、というのは明白だ。複雑な文法と単語のある言語をもつのは人間だけとされているが、もちろん人間以外の動物も「思考」はしているからだ。また、言語を獲得する前の人間(幼児)も思考能力自体は、ある。
 
とはいえ、言語が人間の思考を発展させていることは間違いないだろう。言語を使うことによって、非常に抽象的な概念についても考えることができるようになる。

では、なぜ言語が思考の助けになるのか。僕は、「言語化することによって、自由な思考に制約を与えることができる」からだと思っている。頭の中でイメージしている段階では、思考は自由だが、言語化すると、一定のルールで制約が加わるので、頭の中のように自由には思考できなくなる。その制約が、厳密な思考を生むのだ。

しかし、その「制約」が、概念を定義することにつながり、思考を「積み重ねる」ことが可能になるのかな、と。「制約」の階段に乗って上昇していくイメージだ。


 
「思考に制約を与える」というと少しわかりにくいかもしれないが、あらゆる解釈を許さず、制約を加えることによって、論理ロジックの構築はより強固なものになる。

例えば、プログラミング言語で書かれたプログラムは、非常に強い制約が与えられており、決まったルールで、緻密なロジックが組まれていないと、想定している通りには動かない。プログラムが多義的に解釈できると、プログラマが予想しなかった挙動を許容することになり、バグだらけの使いようのないプログラムが出来上がることだろう。

一方、自然言語で書かれている法律や契約書などは、厳密に書かれてはいるものの、どうとでも解釈できる余地が用意されており、その解釈をめぐって法廷で争ったりしている。しかし、その解釈の余地を「あえて残している」のが人類の知恵というものだろう。中世までの世界は、「絶対的な正義」「絶対的な悪」を定義していたから、倫理観も宗教に則っており、発展することはなかった。
 
だが、頭の中の思考と比較すると制約の多い自然言語ですら、多義的な解釈が可能だ。ひとつの言葉が意味するものは単一ではなく、さまざまな意味にとることができる。本来の意味では完全に誤用であっても、文脈を読み取れば判別できるようなものでも、OK、という場面は多々ある。
 
「文脈」という概念は面白い。文脈というものを読み取れるのは、いまのところAIではできず、人間だけだ。

文脈に加え、人間社会には「空気」というものもある。どれだけ空気が読めない人も、全く読めないわけではなく、その人なりに読んでいるのだろう。また、傍若無人にふるまっている人も、別に空気が読めないわけではなく、「あえて読めないフリをしている」ことがだってあると思う。

いずれにしても、言葉はいろんな意味にとれるし、文脈を読み取らねば真意が汲み取れず、さらにそこには「空気」といったものが関係してくる、ということなのだろう。


 
冒頭の主題、「思考は言語によって行われるのか?」に対する問いとしては、「おそらく、そうだ」というのが実際のところだろう。

上述の通り、言葉というのは明確な実体をもたず、フワフワしたものではあるけれど、「自由と制約」のあんばいがちょうどいいのだろう。人間がある程度自由にものを考える際に土台とする道具としては、このぐらいが適しているのかもしれない。

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