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ゲームの面白さの本質

勤務時間のうち、会議資料を作っている時間は意外と長い。1時間とか2時間ぐらいかかってるかなと思って時間を計ってみると、意外と3時間とか4時間かかっている、ということがある。

会議資料で一番大事なのは、言うまでもなく、「正確な数字を拾う」ことだ。今がこういう状況なので今後はこうする、ということを考えるのが仕事なので、現状の把握が不正確であればその後の施策も的外れなものになってしまう。

だから、業務時間の少なくない部分が、「数字を把握する作業」に費やされているという面は否めない。分析する作業はそれなりに面白いものの、単なる集計作業はかなり地味で、あまり面白みはない。


 
ほとんどの小さい子はゲームにハマる。20代、30代でもゲーム好きな人は多い。ゲームの何が面白いのかを考えていくと、「数字が増えたり減ったりすること」が面白いんじゃないか、と思った。

どんなゲームでも必ず数字を使って、それを増やすのが目的になっている。ところが、ゲームは仮想空間の中で行われるので、面倒な計算は全部コンピューターがやってくれるため、計算や集計する手間がかからない。

かつ、何かボタンを押せばたちどころに結果が返ってくるので、常に状況を正確に把握することができる。これがゲームの面白さの本質なような気がしている。
 
要するに、現実世界はゲームの世界のように、容易に数字が出てこない。数字を出すには、自分で頑張って集計するか、集計する仕組みを使うしかない。

そもそも数値にできないものも多い。RPGで敵を攻撃するとダメージの数字が表示され、逆にこちらがダメージを食らうとヒットポイントが減っていくのがわかるが、実際の世界では自分のヒットポイントがどれだけあるかなんてわかるわけがないし、ましてや経験値はどのぐらいあって、あと何ポイント溜めたらレベルアップするのか、といったことも全然わからない。

一方、勉強は比較的スコアで表現できるものなので、ゲームの代わりに勉強にハマる子もいる。しかし、それは大部分は「勉強の本質の部分が面白い」わけではなく、数字がよくなっていくことが面白いんじゃないか、というのが僕の観察だ。

公文式はこういう性質をうまく使っているもののひとつだろう。スポーツでもだいたい同じようなことが言える。
 
数字が見えるということは、要するに「正確なフィードバックが受け取れる」ということだ。数字は具体的で、抽象的な要素が少ない。だから本当はあらゆるフィードバックは数字で返すのが一番なのだけれど、数字でフィードバックするのが難しい場合は、なるべく正確な言葉で表現してあげれば良い。

「楽しさ」を感じるためには、フィードバックが不可欠なのだ。例えば「ボタンを押す」ような単純な作業でも、「ボタンを押した結果」が反映されなければ、ボタンを押したという実感がわきにくい。

最近のiPhoneのホームボタンはボタンではなくて、ボタンに該当する箇所が振動するだけなのだが、この「振動を返す」というフィードバックがあるので、「ボタンを押したという実感」が得られる。この辺の設計は、まさに人間工学の極みだと思う。


 
他人が何かをすることに対して、知らんぷりをするのではなくて、ポジティブなものでもネガティブなものでも構わないので、何らかのフィードバックを返してあげることがとても大事なんじゃないかと思った。

ゲームにハマる子供たちを見れば明らかだが、それは子どもだけじゃなくて、大人も含めてみなそうなのではないかと思う。

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