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「黄泉比良坂にて」 #49

 おれは、本当に表情を失った人の顔を初めて見たような気がした。おれは工藤の様子を見て、逆に心が落ち着いたところがあった。それと同時に、もうこれ以上落ちるところがない、最下層に来たのだ、という感覚があり、ここが「底」なんだと思うと、精神が安定に向かうのを感じた。おそらく、死刑台に向かう死刑囚がこんな心境だろう。奇跡でも起こらない限り、おれたちが助かる見込みはない。見込みがないということは、これ以上努力をしなくても良い、ということだ。
 少し高い場所から落ちたら、助かる可能性があるので、とてつもない恐怖を感じるだろうが、例えば、飛んでいる飛行機から飛び降りたら、死ぬ以外の未来はないので、逆に心は落ち着くはずだ。選択肢がゼロになった瞬間、それはつまり、リスクも何もかもないという状態だ。あとはただ、安らかな死を受け入れればいい。
 おれがそういうことが考えながら、俯いて川の水面をじっと眺めていると、工藤が急にこちらに向かってくるのがわかった。工藤はものすごい勢いでおれの側まで寄ると、思い切り拳でおれの頬を殴りつけた。
 おれは吹っ飛び、川の浅瀬に吹っ飛んだ。一瞬、何が起きたか理解できず、目の前で花火でも起きたのかと思った。気づいたら、川の中にいた。おれが上半身を起きあげて、呆然としていると、「何考えてんだ、清水!」と工藤が叫んだ。おれはそれでも理解ができない。
「いや、何も言ってないけど」おれが言うと、「お前の考えてることぐらいわかるよ。どうせ、どうやったら楽に死ねるか、みたいなことを考えてたんだろ」工藤は絶叫した。
 おれは、小さな声で、「いや、ちょっと違うけど」と言うと、西川原が少し笑った。「何してんの、二人とも、信じられない、この状況で」
 西川原は楽しそうに笑っていた。おれと工藤は顔を見合わせたが、つられて、少しだけ笑った。三人で、大声で笑いはじめた。張り詰めていた糸が不意にちぎれたような感覚がした。
「考えよう」工藤は真面目な顔をして言った。「確かにおれたちに残された時間はわずかかもしれない。考える材料が不足している、というのもわかってる。でも、考えることしか、おれたちにできることはないと思う」
「考えるって、何を?」おれは言った。「かっこいい戒名でも考えるのか?」
「清水、おれはマジで話してるんだ」
「わかったよ」
 おれは立ち上がり、河原の石に座り直した。「なんかわかることがあるんなら、言ってみろよ」
 工藤は腕組みをして、川を眺めながら、少しずつ話し始めた。「まず、事実として、この世界から戻れた人間は、いない」
「秋川が確かそう言ってたな。十人ぐらい、見送ったと言っていたけれどあれは嘘で、本当は、ここにやってきた十人の人間の身体を乗っ取っていたんだ、と」
「じゃあ、元の身体は、どこに行ったんだ」
「元の身体は、全部、あの秋川たちみたいに、崩れたんじゃないのか。もし、川の中だったら、川下のほうに流れたいっただろうな。佳恵や裕二みたいに」
「じゃあ、魂は?」
「魂は、ここに残るのかもな。でも、たとえ魂だって、ずっとここにはいられないんだろ。ここは通り道だって、言ってたもんな。ここから、さらに奥深いところに、『あの世』があるわけだ」(つづく)


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