言葉は手土産のようなもの
少し前、「エモい」という言葉が流行っていた。いや、今も死語というほどではないのかもしれないけれど。実際にそれを使っている人は見たことがなく、ネットで見かけただけなのだが、いまでも使っている人はいるのだろうか。
某メディアアーティストの人が一時期よく使っていて、ああ、この人は言語感覚が弱い人なんだなと思った。まあそれはさておき。
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新語が生まれることはいいことだと思っている。いや、いいことか悪いことかはさておき、新語は日々生まれ続ける。言語はだれかがコントロールしているのではなく、使っていくうちに自然発生的に変化していくものだからだ。
新しい言葉が生まれるとき、新しい概念が生まれたことを意味する。それは人類の進歩を見ているようで面白い。
新語は生まれるのは結構なことなのだが、使えば使うほど知能を下げる言葉ってあるよな、と思う。つまり、「どういう状況でも使える万能な言葉」ということだ。
どういう状況でも対応できてしまう言葉は便利なのだが、それを使えば使うほど知能を下げる。語彙力が減ってしまうのだ。なぜなら、その言葉を使っていれば、頭を使わなくても会話が成り立ってしまうからである。
たとえば「ヤバい」とか「ムカつく」なんて言葉がそうだろう。「ヤバい」という言葉はかなりヤバくて、本当にどういう状況でも使えるので注意が必要である。気づいたらそれを多用することによって語彙を奪われている可能性がある。
「ムカつく」という言葉はちょっと面白い。要するに怒っていることを表明しているわけだが、「胸がムカムカしている」という意味なので、自分の身体の状態を表明しているだけである。
相手が腹の立つ行動をとって怒っているのかもしれないし、トンカツでも食べて胃もたれしているのかもしれない。要は、具体的に何かを批評したり、指摘したりしているわけではなく、たんに「自分は不快だ」ということを表明しているにすぎない。
ある一定以上の知性をもった人が「ムカつく」なんて言葉遣いをするところは想像できない。自分がむかむかしていることを表明するだけでは、何か具体的な主張をしていることにはならないからだ。頭がいい人ほど、余分なことは言わないものである。
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「エモい」という言葉も、性質からすると「ムカつく」に類似している気がする。切ない、感傷的になる、感情が揺り動かされる、という意味合いがあるらしいが、もっと粋に表現してもいいのでは、と思う。
昔にさかのぼるほど、言語を操るレベルが高くなる気がする。いまの大河ドラマは平安時代が舞台だが、あのころの貴族は心動かされることがあったらそれを歌にしていたわけで。さすがにそのレベルになるとすごい言語感覚だな、と思う。
日常生活で使う分には好きにしたらいいのだけれど、会社などの場でついそういう「万能ワード」を使う人がいるとちょっとな、と。まったくゼロではないのが困るところなのだが。
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「万能語」ということでいうと、実は挨拶も万能語である。おはようございます、こんにちは、といった挨拶は、基本的に誰に対しても使えるし、角は立たない。
もし、もっと言語レベルを引き上げたいのであれば、一般的な挨拶を禁止してみると面白いかもしれない。おはよう、こんにちはといった挨拶を封印する。夜であれば「月がきれいですね」とか。さようならではなく、「また会いましょう」とか。状況と相手次第で、もっと気の利いたことが言えるかもしれない。
言葉とは、手土産のようなものなのかも。「定番の手土産」は間違いがないが、インパクトに欠ける。この人に、このタイミングであげるべき手土産、というクリティカルなものがあるかも。
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