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もしもアウトプットに価値がなくなったら、どうしますか?

世間一般ではあまり話題になっていないけれど、個人的に関心のある将棋のニュースがあった。

先日、プロ棋戦の「棋譜」を利用した配信をインターネットで行ったYouTuberが、運営元である囲碁将棋チャンネルから動画の削除を求められたことを不当として裁判を行い、勝訴したというのだ。

少し一般的にはなじみのない話題だと思うが、思うところについて書いてみたい。

そもそも「棋譜」とは何かというと、将棋における指し手を記録した符号のことである。将棋はどの駒をどこに移動させたか(指したか)ということを記録できれば、どんな対局であってもほぼ完全に記録に残すことができる。

たいていの指し手は3~4文字(5六歩など)で表現でき、普通の対局であれば150手もあれば決着がつくので、1000文字以内で対局の内容を表現できる、ということになる。

プロ棋戦の手書きの棋譜
https://www.shogi.or.jp/column/2017/04/5_3.html

これがテレビゲームなどになると、映像などで残さないとわからないわけだが、すごく少ない情報量で記録が可能な点が将棋のすごいところである。

アマチュアの対局であれば基本的に棋譜は残らないが、プロの棋戦になるとこの「棋譜を残す」というのがある種、目的になる。対局をしているのだが、対局者同士で「棋譜を作り上げている」ともいえる。

よくプロ棋士同士だと、反則や凡ミスで負けてしまうと、負けたほうの棋士が勝った棋士に謝ったりする。勝負の世界でこれは奇妙な感じがするが、「棋譜を汚した」という意味で謝るのだろう。

棋士の価値は対局で勝つことによって高められるのだが、よりよい内容の棋譜にしたい、と思うものらしい。それは、「棋譜を残す」のが目的のひとつだからだ。たんに勝てばいい、というものではない。

プロ棋士の棋譜というのがいわば棋士にとってはアウトプットする対象そのものなので、それに価値があるのは当然のことだ。ライターであれば原稿であり、音楽家にとっては楽譜のようなもの。

本屋に行くと、著名な棋士の「全局集」などが販売されていたりする。また、将棋のスポンサーは新聞社であるケースが多いので、新聞の将棋欄に棋譜が掲載されていたりする。

いまは、将棋連盟が運営しているスマホアプリで棋戦速報というのがみられるようになっており、僕はしょっちゅう見ている。無料でも見れるが、僕は課金している。しかし、無料でアクセスできるデータべースなどもあり、リアルタイムにこだわらなければ、そこで見ることもできる。

確かにありがたいのだが、あらゆる情報が一瞬で伝えられる現代においては、棋譜情報を「流通させない」ほうが難しいのかもしれない。

近年、漫画の違法アップロードが問題になっているが、ネット回線の速度が速くなったので、漫画の画像データのやり取りぐらいは造作もなくなったのが要因だろう。それに対して、将棋の棋譜はテキストにしたら1000文字程度、画像にしても1枚の画像で収まってしまうのだから、情報量としては非常に少ない。

アウトプットを「成果物」としてみたとき、あらゆるもののなかで最もデータ量が少ない(コンパクト)のではないか。

もっとも、ただ純粋にプロの棋譜だけを見て、それを楽しい、と思う人はかなり少数派だろう。プロの指し手は非常に難解なので、それだけを見ても理解できる人は少ない。上記の棋戦速報なんかだと、専門記者がいろいろと解説を書いてくれるので、どういう意図でその手を指したのかといったことや、今後の展開などについてわかり、理解が深まる。

タイトル戦などの大きな対局になるとAbemaなどで中継され、棋士がずっと解説をしてくれるので、それを見ても楽しめる。タイトル戦は時間が長いため、あまり進行がないときは解説の棋士が聞き手の女流棋士とずっと雑談していたり。終盤になるまでは、雑談配信みたいになっていることもある。

もっとライトに、藤井聡太が何を食べたのかとか、どこで対局したのか、みたいな情報で楽しんでいる人もいるだろう。その裾野が広がったのがここ数年の大きな変化だと思う。

要は、将棋界も「何で儲ければいいのか?」というのがわかりにくくなっているのではないかと思う。「プロの将棋の価値は何か?」をあらためて考える必要が生じている。従来のように、ただ棋譜を新聞に載せていればそれでいい時代は終わった。

このように見ていくと、今回の裁判で「棋譜は自由に利用可能」で、個人のネット配信も自由となる判決はなかなか衝撃的である。プロ側としては、いったいどうしたらいいのか、と。

将棋AIの登場で大きな衝撃が加わった将棋界だが、まだまだ前途多難である。時代の変化に今後も対応できるか、注目が集まる。

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