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異端な者と、それを受け入れる者と

ブレイディみかこという人が書いた、「僕はイエローでホワイトで、ちょっとブルー」という本を読み返した。

ベストセラー本としてよく売れていて、一時期本屋でもよく見かけた本だった。買ったのはkindleだけれど、放っておいても本屋で買っていたのではないかと思う。
 
イギリスの地方都市に住む著者(女性)が、イギリス人とのあいだに生まれた息子の目を通じてイギリス社会を描写している。イギリスは移民国家としてさまざまな人種が暮らしており、貧富の差もある。

タイトルのとおり、「イギリスでは東洋人として扱われ、日本では欧米人として扱われる」著者の息子のアイデンティティが描かれている。
 
一年前に読んだときは、純粋に本として面白かったというか、「なるほど、イギリス社会とはこうなっているのか」と興味深く読めたのだが、最近読み返してみて、妙な違和感が拭えなかった。

この違和感はなんなのだろう、とAmazonのレビューを眺めていると、自分が感じていた違和感を感想として書き込んでいる人がわりとたくさんいた。


 
まず最初に思ったのが、イギリスで東洋人のハーフ(この言い方についても作中でいろんな呼び方があるが、一般的な呼び方なのでこのままでいく)が学校に通うと差別に遭う、というのだが、著者自身が、作中で周囲に対して差別をしている、という点だ。

作中では「底辺」という言葉がわりと頻繁に出てくる。著者の息子が通う学校は「元底辺校」と表現されているし、保育士でもある著者がかつて働いていた勤務先は「底辺託児所」。当然ながら、「底辺」という固有名詞ではなく、他ならぬ著者自身が底辺だと思っているからこそ、そう書けるのだろう。

また、貧困や人種の違いで悩む生徒たちが出てくるのだが、基本的に自分たちが遭遇した生々しいトラブルというよりは、著者の息子の友人や学校内の環境としてあくまで客観的に描かれる。ノンフィクションなのだから、実際にそういうことがあったんだ、といえばそうなのかもしれないが、なんか妙に他人事のように話が進んでいくな、と読み返していて気付いた。
 
著書のテーマとしては、「多様性」というようなことになるのかもしれない。多様性。難しい概念だ。

日本ではよく多様性が叫ばれるが、多様性を確保するのは口でいうほど簡単なことではない。著書の中での表現を借りるならば「地雷」があちこちに転がっていて、なにげない一言が人間関係の亀裂に影響してしまうからだ。できるならば、「多様性を崩してしまう何か」を「地雷」と表現せず、「自分とは違う、他者への配慮」などと呼びたいが。
 
多様性は確かに重要だけれど、「どれぐらい混ぜるのか」ということも同時に考えなければならない。100人いるところに1人だけ異質なものを混ぜ込んだら、そのひとりはどうなるのだろうか。

そもそも、それは多様性と呼べるだろうか。100人いるチームを、全員異質なものにしてしまったら、確かに多様性は確保できるが、もはやチームとして機能しているのだろうか。あるいは、異質なもの同士、50:50にしたら、どうなってしまうのか。答えはもちろん、簡単には出ない。


 
そもそも、日本人の息子がイギリスに行ったらそりゃ「異端」になることは避けられないよな、と思う。そういう意味でも、本当にタイトルどおりの「多様性」について描くのであれば、イギリス人の同級生からみた著者の息子がどう見えるのか、というところにもっとフォーカスするべきでは、と思ったのだ。
 
「異端なもの」そのものもつらいが、異端なものを受け入れる社会も同様に、あるいはそれ以上に大変だろう。外国人が増えてきた地域を受け入れる日本人の本がもしあれば、この本の裏返しとして読むことができるかもしれない。きっと、遠いイギリスのみならず、日本でも進行している現象のはずだ。

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