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「黄泉比良坂にて」 #37

 おれは自分の脇の血をあらためて見せた。白いシャツは汚れと血で元の色がなんだったのかわからないほど変色している。工藤はそれを見て、露骨に顔をしかめた。
「おい、見ろ、やばいぞ、これ」工藤が秋川を指差した。秋川の顔が崩れ、まるで腐った果物のようにひしゃげている。みるみるうちに腕が黒ずみ、地面に落ちた。身体全体が液体化しているのだ。おれと工藤はそれを見て、絶句した。
 じっとみていると、胸の中から、何か光るものが出て来た。携帯のライトのような、青白い、安っぽい光だ。じっと見ていると、それは宙に浮かび、夏の虫のように飛び立っていった。あれが、人魂が生まれる瞬間なのだろうか。見ると、秋川の身体は原型がなくなっていて、ドロドロになった服だけが残されていた。
 これが、この世界での、人間の最後だというのか? おれも最終的には、ああなるのだろうか? 今は混乱して何も考えられなかったが、思っていたよりは、綺麗な死に方だな、とおれは思った。綺麗? あれが? 自分で自分の感想に苦笑する。だが、あのぐらい潔く原型がなくなるのならば、確かに綺麗といえば綺麗だろう。
「西川原は大丈夫なんだろうな?  どこへ行った?」工藤が聞いた。
「さあ、そこらへんにいると思うけど。西川原に限っていえば、まあ、大丈夫だと思う」
「なんで。か弱い女子を一人にして良いってことはないだろ」
「お前はここまでの経緯を知らないだろうけど、おれらよりずっと用心深くて、強いからな、あいつ」
「わかってないのはお前だ」工藤が吐き捨てるように言った。
 おれもさすがに少し心配になって、家の外に出た。相変わらずあたりは静かで、人の気配もろくにないが、そのことが逆におれを不安にさせる。
 工藤と二人で歩きながら川のほうへ向かった。川は学校を流れてる川と同じで、支流のわりに川幅がある。護岸壁はなく、こちら側の岸は岩の目立つ河原になっていて、向こう側には雑木林がある。河原は、おれたちがいま立っている場所からは少し土手を降りていったところにある。
「お前、この川に来たことある?」工藤が言った。
「ん?」とおれは返す。
「おれはある。もっとも、この、わけのわかんない世界に来てから、ということじゃなくて、おれたちの学校のそばを流れてた川だけどな。なんつうか、おれはよく来てたから知ってる。見覚えがある」
「見覚えがある?」
「ああ、このあたりは、現実世界、というか、おれがもともと居た川とほんとに、同じだ。特にこう、川が流れる感じというか、なんというか……」
 工藤がそう言うのなら、そうなのかもしれない。ただ、この川の上を無数に浮遊している人魂は、現実世界ではもちろん見られないはずだ。
「おい、あそこ」
 工藤が川上のほうを指差した。そちらに目を向けると、西川原が大きな岩の上に立っているのが見えた。川の中をじっと見つめている。その視線の先を見ると、川の中に子どもがいるのが見えた。
「あれが、裕二か?」
 そう工藤に話しかけると、「しっ」と工藤は口の前に人差し指を置き、おれを黙らせた。真っ暗な月夜で、そこらじゅうに蛍のように人魂が飛んでいるが、それでも暗く、あたりの地形も、水の流れも、だんだん時間をかけてハッキリと見えるようになってきた。
 西川原が立っている位置より十メートルほど奥、岩の下あたりに、もう一人、人間がいるのが見えた。肩口で綺麗に切り揃えられた髪の女。言うまでもなく、佳恵だった。佳恵は膝まで川に入っている。
 おれと工藤は音を立てずに西川原に近づいた。近くに来ると、西川原はじっとこちらを見て、「静かにして」と囁いた。佳恵は大きな声で川の中にいる裕二に向かって何か話しかけている。裕二はお腹のところまで水に浸かっている。いくら水の流れが穏やかだといっても、あれ以上深いところに行くのは危険だろう。佳恵は何かを話し続けているが、佳恵も動かないし、川の中の裕二も動こうとしない。(つづく)


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