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「黄泉比良坂にて」 #51

 ぼーっと、川面と、川の上を蛍のように浮遊する人魂を見ていると、じっとそこに立っているだけのはずなのに自分自身が川を流されているかのような、そんな感覚になった。自分のまわりをすり抜けて、月夜に照らされた銀色の水が、自分のそばを後ろむきに流れていく。その上を飛んでいる人魂たちは、まるで川を遡っているかのようだ。
 そうだ、おれだって、川の流れから見れば、ただここに立っているだけで、川の流れに逆らっていることと、同じことなんだ。同じ場所に立っているだけのように思えても、自分の周りを別のものが後ろにすり抜けていくのだとしたら、それは、自分が前に進んでいることと同じではないだろうか。この人魂どもは、それがわかっているのだ。
 ただそこに浮遊しているだけではない。
 流れに抗っているのだ。
「そうか」
 おれは思わず声に出した。どうして、こんな単純なことに気がつかなかったのだろう。次の瞬間、おれの視界が滲み、気付くと、西川原と工藤がおれの半身を支えていた。
「大丈夫? 清水くん」西川原がおれの顔を覗き込みながらそう言う。彼女は、心配そうな顔はもはやしていなかった。ただ彼女の顔にあったのは、諦めだった。おれは頭を起こし、自分の脇を支えている西川原の手を見る。
 その手には、また一握りの黒いものが握られていた。おれの身体が欠けていっているのだ。もはや痛みはない。上半身を中心に、麻酔でもかけられたみたいに、痛覚が消失していた。虫歯で歯が取れるときみたいだな、とおれは思った。もうなくなってしまったものは、二度と戻らない。だが、なくなってしまえば、案外そんなものだ、とも思う。
 人生のあらゆるものは、不可逆なのだ。流れていきこそすれ、抗うことはとても難しい。
「大丈夫だよ」
 おれはそう言って、立ち上がった。そして、川上のほうを見つめる。川はまがりくねりながらもどこまでも続いている。続いて、川下のほうも見る。こちらもまがりくねりながら、どこまでも続いている。満身創痍のはずだったが、身体中に力がみなぎるのを感じた。
「なんでこんな簡単なことに気づかなかったんだろうな」とおれは言った。
「何?」と工藤は答える。
 西川原は黙っている。
「この川。川上から川下へと流れていくんだろ? この川で死んだ、佳恵、裕二、そして秋川の式神は、流れにのって、川下へと流れていった。つまり、川下に『あの世』があるんだ。時間の流れが止まっているようなこんな世界で、唯一動いているものが、この川だ。川は川上から川下へと流れる。ということは」とおれは川上に向かって指差した。「あっちの方向に行けば、元の世界に帰れる」
 しばらく工藤と西川原は黙っていた。魂は、目的もなく浮遊していたわけではなく、元の世界に戻るために、この川を遡ろうとしていたのだ。
「本気で言ってるの?」と西川原は言った。「無理よ、そんな身体で。川上に行けば行くほど、流れは激しくなるのに」
「ここでじっとしてたって同じだろ?」とおれは言った。「ここでこうして立ってるだけで、体力は消耗するんだ。そして、だいたいの場合は、それでいっぱいいっぱいなんだ。川上に向かって歩いていかないと」
「わかった。お前が流されそうになったらおれが支えてやるよ」と工藤は白い歯を出して笑った。(つづく)


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