見出し画像

家族の境界

ちょっと前に、奥さんと「万引き家族」という映画を見た。話題になっていた作品なので見てみたかったのだが、タイトルからして陰惨な内容なのではないかと思い、見るのを躊躇していた。

芸術的な内容の映画は嫌いではないが、やはり娯楽として映画を見る以上、少しはスカッとした要素が欲しい。犯罪者が主人公の映画ならば、たとえば「オーシャンズ11」みたいな映画だったらスカッとするだろうが、「万引き」という字面からは、ハリウッドのエンタメ映画に匹敵するような爽快感は得られそうにない。そう思っていたのである。
 
結果からいうと、いい映画だった。期待していた(?)ほどの陰惨さはなく、でも内容にはそれなりの社会的な影がありつつ、出ている俳優が鬼気迫る演技を見せてくれて、ものすごく「リアルな」作品だった。すごい賞をとったのも頷ける内容だ。
 
見て思ったのは、あれは「家族の境界線」の物語だ、ということだ。家族のような、家族でないような、何か。こういう主題をメインテーマにもってくる作品は多いように思う。

要するに、「家族」というのも、人間が便宜的に呼称している現象にすぎず、自然界に「家族」というものがあるわけではない。

生物学上の父母、子息というのは当然あるが、かなり曖昧になっている生物も多い。出産と同時に父母のどちらか、あるいは両方が出奔してしまう生物なんて枚挙に暇がないし、カマキリみたいに、雌が雄を養分にしてしまうという壮絶な生き物もいる。

人間に置き換えてみたら、いかにそれがすさまじいかがわかるだろう。それと同時に、現代社会が定義する「家族」が、いかに特殊なものであるかもわかるに違いない。


 
家族か、家族でないか。人間か、人間でないか。死んでいるか、死んでいないか。

こうしたものは、境界が曖昧だからこそ、どちらともいえないからこそ、それがどちらなのか、議論して、考える余地があるのだろう。時代とともに移り変わっていくのも、それが厳密に定義されるものではなく、フワフワしたものだからかもしれない。
 
自分が年をとって、死ぬときのことを考える。いまできるのに、そのうちできなくなってしまうことはたくさんあるんだろうな、と思う。たとえば思考においてさえ、若いときは考えられたけれど、年をとるにつれて考えられなくなる、ということもあるだろう。身体だって自由に動かせなくなるに違いない。

もし、最終的に痴呆になってしまって、自分がわからなくなってしまったとしたら、それはもはや「生きている」と本当に言えるだろうか?
 
究極のところまでいくと、境界がわからない、ということはある。「明らかに死んでいるのに生きている状態」「明らかに生きているのに死んでいる状態」など。

答えがないからこそ、そういうのを考える余地があるのかもしれない。


 
ちなみに、去年の年末に婚姻届を出して、結婚をしたが、どの時点から「結婚」がはじまったのか、定かではない。婚姻届を出すずいぶん前からだったような気もする。いったいどこからなんだろう、と思う。極端な話、最初に会ったときから、いまのような感じだったような気がする。
 
一応、大晦日に「家族」になったことになっているのだが、あくまで便宜上、ということで。「本当に」どこからか? というのは、わからない。

サポート費用は、小説 エッセイの資料代に充てます。