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資本主義社会のバグ……価値と価格が釣り合っていない

そこまで映画好きというわけではないのだが、定期的に映画を見たくなる。特にここ最近は、毎週末、映画を続けて見ている。先日はマーティン・スコセッシの「沈黙」を見たし、そのあとは「ブルース・ブラザーズ」、そしてクリストファー・ノーランの「インターステラー」を見た。

映画は、現代社会において、なぜか最も安上がりな娯楽のひとつだ。上記の映画では、「沈黙」だけアマゾンのサブスクになかったので400円ぐらいを払ったのだが、ほかのふたつはサブスクにあったので、実質的にタダで見ることができた。

製作費は「沈黙」が5100万ドル、「ブルース・ブラザーズ」が2700万ドル、「インターステラー」が1億6500万ドルで、合計するとだいたい2億ドルぐらいになる。

為替レートもそのときどきで違うので概算にはなるが、円換算すると200億円は下らない製作費で作られていることになる。

なぜそういうものがほぼタダみたいな値段で見られるのか。もちろん、全世界の人々が見ることを前提にしており、映画産業として成立する仕組みがあるからに他ならないのだが、あらためて資本主義社会のバグというか、直感的には理解に苦しむところではある。



コミケなどの漫画同人イベントの亜種として、「文学中心」のサークルが出展する「文学フリマ」というイベントが定期的に開催されており、二回ほど参加したことがある。

同人誌を作ったことがある人ならわかると思うのだが、紙の本を作るのはえらくコストがかかる。一度本を作ろうとしたときに試算したのだが、普通の文庫本サイズで長編小説を作ると、100部程度の部数であれば、一冊あたり1000円以上取らないと赤字になってしまう。

だが、本屋に行けば文庫本というのはだいたい800円前後で買える、という一般的な認識があるわけで、1000円以上で販売するのは忍びない。ましてや、プロの作家が執筆し、プロの校閲が入った作品よりも高い値段で販売しようとしているのだから、よくよく考えると売れるわけがない。

実際には、出してみると売れなくもないのだが、そういう人たちは「ここでしか買えない」という希少性と、イベントの「お祭り感」に価値を見出してくれているのだろう。

100億円以上の製作費をかけた映画がタダで好きなだけ見られるのに、自分が作った小説本が1000円もしてしまう、というのはあまりにも不均衡である。資本主義社会のバグといってもいい。漫画も最近は電子レンタルサービスなども増えてきたものの、お金を出して読む人は多いだろう。

100巻近い長期連載の作品を揃える場合、なんだかんだ2万〜3万ぐらいかかってしまう。その意味で言えば、漫画も映画と比較するとかなりの「贅沢品」だと言える。

小学校に上がったぐらいの頃、スーパーでなぜ同じ野菜なのに高いものと安いものがあるのかが不思議だった。親に質問してみると、「高い野菜はいい野菜だから高い」ということだった。つまり、品質の高いものを買いたければ値段の高いほうを選べばいい、ということになる。

しかし、実際のところは値段が高いから品質がいい、とは限らない。野菜ならば不作で値段が上がっているのかもしれないし、いまのように外国の戦争で値上がりしているのかもしれない。本来の「価値」とは無関係な、コスト構造によって、値段は決められているのである。つまり、値段と価値は必ずしも釣り合っていない。

さまざまな選択肢がある現代においては、コストパフォーマンスを重視していろいろなものを選択していくと、きっと「最適な生き方」というのが見えてくるだろう。あちらのスーパーに行けば何円安い、みたいな主婦の知恵レベルでももちろんだが、「そもそも自分は何をするのが一番幸せなのか?」みたいなことを考えて、買うことそのものを取捨選択していくと、それなりに効率がいい生き方ができるのでは、と思っている。

大きな資本を投下して、たくさんの人が利用する仕組みのものが値段も廉価になり、勝利する。だから、市場価値というのは必ずしも値段だけでは計れないところがある。多くは企業努力によって実現しているものだ。

以前、YouTubeでホリエモンが「キャビアなんてしょっぱいだけで別においしくない、明太子のほうがおいしい」と言っていたが、まあそうなのだろう。松茸は昔から高級なキノコとして知られているが、僕は舞茸のほうが好きである。スーパーでもやしは30円とかで売られているが、僕は大きな価値を認めている。

資本主義社会である限り、「価値と価格が釣り合う状態」というのは訪れないように思う。とりあえず、莫大な費用をかけて作られた映画がタダみたいな値段で見られるのだから、やっぱり毎週映画を見ようと思う。


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