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「黄泉比良坂にて」 #14

「清水くん、よく見て」
 西川原は立ち上がり、カレンダーを指し示して、おれのほうを見た。おれは彼女の意図がわからない。
 仕方なく立ち上がり、カレンダーをよく見た。上半分が風景の写真で、下がカレンダーになっている、ごくありふれたものだ。写真部分はヨーロッパの渓谷のような当たり障りのない写真で、下部分にはいくつかの記号や数字が赤ペンでメモされているだけ。なんの変哲もない、普通のカレンダーだった。
 おれはあらためて西川原の顔を見たが、彼女は何も言わず、口元はぎゅっと固く結ばれていた。
 そのとき、カレンダーの曜日がおかしいことに気付いた。たしか先月は木曜日で終わったはずなのだが、そのカレンダーは別の曜日になっている。
「気づいた?」西川原がゆっくりした口調で言う。
 やがて、西川原の意図がわかった。カレンダーは、今年のものではなかったのだ。そこに印刷してある数字が正しければ……。
「……三年前のカレンダー?」
 カレンダーには三年前の西暦が記載されていた。だが、カレンダー自体は真新しいもので、それほど年季が入っているようには見えない。
「あの時計も時刻がおかしいわ」
 西川原が指した掛け時計も、午後八時過ぎを示していた。おれたちが学校を出てからずいぶん時間が経ったように思えるが、それでもまだ、一時間ほどしか経っていないはずだ。少なくとも、六時をまわっていることは考えられない。
「おかしいと思うか?」秋川が低い声で言った。佳恵は秋川の脇に立って、お盆を胸の前に抱えたまま、ぎゅっと口元を硬く結び、こちらを見ている。
「この家の時間は、止まってるんだ。普通の人は、こんなところにはやってこないし、そもそも、来ることができない。ここまで辿り着いたことが、そもそもおかしいんだよ」
「ちょっと……何を言っているのか」
 混乱してきたおれを制して、西川原は、「私たちは、帰れるんでしょうか?」とストレートに訊ねた。
「もちろん、だから帰り方を説明すると言っているじゃないか」
「急ぐ必要なんてないわ。ゆっくりしていってね」佳恵が、感情のこもらない声で言った。
 おれは、冷静さを保ち続ける西川原に驚愕するとともに、彼女はもしかしたらはじめから全部、こうなることがわかっていたのではないか、と思い至った。もしかすると、彼女がおれをここに意図的に誘導してきたのかもしれない。しかし、それにしても、時間が止まっているとは、一体どういう意味だろうか?
 工藤がここにきたのが本当だとしても、彼はなぜおれたちを待たなかったのだろうか? 
「こっちに来て座りなさい。まだ話は終わっていない」秋川は言った。
 西川原がおとなしく席についたので、おれも黙って席についた。
「君たちの友人の工藤くんは、少し前に、君たちと同じようにここにやってきた。彼はもちろん、君たちが来るかもしれないと思って待っていたんだが、君たちが来るかどうかもわからないし、いくら待っても来る気配がなかったから、先に行くことにしたみたいだ」
 おれたちは死んだのだろうか、急にそんな考えが浮かび、頭にこびりついて離れなくなった。三年前から時間の止まっている家、不気味な夫婦、そして、おれたちより先にここに来た工藤。すべてが現実離れしていて、悪い夢でも見ているようだった。
「おれたちは、死んだんでしょうか?」
 気づいたら、考えていたことがそのまま口に出ていた。だが、もはや聞かずにはいられなかった。西川原が神社で言ったことを思い出す。彼女の父親が、子どもを助けようとして、崖から落ちたこと。その後、彼女の父親の身に起こったこと。彼女は、何度も、自分の父親が死んだ、と言っていた。
 だが、この状況を見れば……。
 死んだのは、おれたちだってそうかもしれないじゃないか。
「いや、それはわからない」
「わからない?」
「おれたちがわかるのは、ここは、はざまのような場所だということだけだ」
「そう、境界線みたいなところ」佳恵が補足するように口をはさむ。
「言っている意味がわかりません」おれが答える。(つづく)


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