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「ペーパーテストはできるのに、いまひとつな人」がいる理由に気づいた

テレビをつけたり、YouTubeを開いたり、ウェブ記事を巡回したりしていると、「識者」的なポジションの人たちが訥々とつとつと持論を語っているところを無数に目撃することができる。

30歳を超えたあたりから、急速にそういう人たちが言っていることに関心がなくなってきた。なんというか、全体のレベルがすごく低いと感じるようになったためだ。

多くの場合、識者よりも、そのときどきのテーマで招かれるゲストのほうがレベルが高く、ファシリテーションする側のほうがあんまりレベルが高くないことが多いな、と。オーディエンスが素人なのだから、構造として素人寄りになるのは否めないのだけれど。

いわゆる識者は、理想論を語りがちである。理想論というより、単なる持論、感想レベルにとどまっていることも多い。具体的な個人名は出さないのだけれど、結構高齢なのに、大学生ぐらいの精神年齢や認識レベルの人もいる。

組織に所属していない人は、面倒な俗事というか、「世間」「人間じんかん」のあれこれに頭を悩ませる必要がないからかな、と思っている。俗事とは、関係者の利害関係の調整である。

「識者」はそういった俗事とはかけ離れているからこそ本質が見えるのでは、という考え方もあるかもしれない。しかし僕の目には、あまり本質が見えている感じもしない。

識者の多くは「◯◯はダメだから、◯◯すべき」といった単純で乱暴な論調を好む。しかも言いっぱなしで責任をとったり、実際にどうやってそれを実行するのか、といった舵取りをするわけでもない。

単調で乱暴な主張が多いのは、そのほうがインパクトが強いからというのもあるだろうし、それ以上は考えられないから、ということもあるだろう。単純に思考が幼稚だなと感じる。

俗事に悩まずに本質について考えている人は、たとえばドラッカーなどの学者たちだろうか。当たり前だが、原理的、論理的に考える必要がある、ということなのだろう。しかし、そうなればなるほど、そう単純なものではないということに気づくはず。

「シンプルな結論」というのは、「ただ単に考えが浅い」こととは決定的に違う。実際の世間を経験せずに本質を見抜けるのは本当に非凡なことで、有象無象の識者に読み解けるものではない、と思う。

僕は最近、「論理的思考」の本質は「調整」ではないか、と考えている。あちらを立てればこちらが立たず。全体のバランスを見ながら、各所調整していき、パフォーマンスを最大限に出せるように苦慮し、各所を説得できるような論理を捻りだすのが論理的思考の重要な部分で、それができる人はそう多くはない。

経営や政治というのは論理的思考をかなり必要とするものだろう。その意味では、飲食店でバイトのシフトを決め、お店の利益を出していくことは「経営」そのものだし、「論理的思考力」をかなり必要とするだろう、と思う。本気で考えれば考えるほど、奥深さに気づくことができそうだ。

調整というと、なんかそれこそ俗事っぽい印象を持つかもしれない。しかし、バランスをとることで最適なパフォーマンスを出し、損害を最小限に食い止めることができる。あらゆる物事を同時並行で考える必要があるため、これが難しいな、と。

たとえば新しいプロジェクトを走らせることを考える。まず当たり前だが仕様の仕組みそのものを考える必要がある。並行して既存の仕組みへの影響を考え、それによって発生しうるリスクについて考えていく、と。

調整し終わったと思っても、最初のほうの考慮を置き去りにしていることがあるかも。さらに突発的なトラブルも発生する。同時にあらゆることを考慮しなければならず、ものすごく大変だ、ということがわかる。

こう考えていくと、実は「ペーパーテスト」の弊害はここにあるのではないか、と思えてくる。ペーパーテストでは、上記に見られるような思考は基本的に要求されない。

普通の試験の場合、設問1と設問2は連動しておらず、独立した問題である(数学や物理などの問題では連動しているものもあるが。しかし、設問1が設問2に影響を与えても、設問2の結果が設問1に影響を与えることはないだろう。現実世界では、2つの独立した物事が相互に影響し合うことが多々ある)。

そもそも勉強自体もシングルタスクだし。思考力をさほど問わない暗記科目だとさらにそうかもしれない。

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