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「将来役に立つから勉強しよう」は本当か

「勉強ってなんでしなくちゃいけないの?」「公民ってなんのために勉強するのか」「勉強しても意味ない」
こうした「なぜ、勉強しなければならないのか?」という生徒の疑問は先生が答えづらい質問である。ただ、きちんと先生なりの”答え”を持っておかなければ、いけない質問である。

 私もここでしっかりと自分の考えをまとめておきたいと思う。社会科を中心に考えるが、もっと大きく「学校で勉強する意味」についての考えを述べていきたい。 

〈自分が考える ”勉強する意味” 〉
「意味がある学びがある」のではなく、
「自分で意味を見つける力」を培うために勉強する

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■「意味がある学び」からの脱却

 こうした「なぜ勉強するのか?」質問に対して、よくある回答(実際に自分もよく聞いてきた回答)は「学校で学んだことは将来役に立つ」論法である。特に、公民においては、政治や経済、倫理を学ぶことで、「社会で起こっていること、ニュースの内容が理解できるようになる」という話をよく聞く。

 こうした、「役に立つから、学ぶ意味がある」という論理に自分はあまり賛同していない。もちろん、こうした考えはとても大切なことである。高校までの知識があってこそ、理解できることは想像以上に多い。しかし、実際学校教育で行っているのは、将来役に立つからというよりももっぱら紙の上でいかに点数を叩き出せるかということの方が、重視されている。いくら、普遍的な科目の魅力を伝える授業内容だったとしても、テストを無視した内容にすることはほぼないだろう。そんな先のよくわからない”役に立つ”のために、勉強しようとなるだろうか。(生徒にとっては)テストでいい点を取るほうが重要ではないだろうか。

 そもそも、”役に立つか”どうかは教師が一方的に決めることではなく、生徒が実際に役に立つ場面に遭遇し、腑に落ちる体験をして初めて”役に立った”と言えるのである。さらにいえば、役に立つ知識なんてほんの一握りである。

学んでいる最中からこれが"役に立つ"かなんて到底考えられないし、みんなにとっての"役に立つ"なんて存在しない。

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■自分で意味を見つける力を培う

 今、高校時代に受けた大学入試を解いてみたら、間違いなく点数は取れない。だからといって自分は学力が落ちたかといえばそれは違う。今の方が、受験の時よりも論理的に考えることができるし、様々なことを知っている自信がある。

 じゃあなおさら、覚えてないなら高校までの勉強って意味ないじゃんという考えになりがちだが、それは違う。私は、本を年間100冊くらい読むが、その内容を全て覚えているわけではない。むしろそのほとんどは覚えてない。自分としては、読書は本の内容を覚えるためではなく、本を読む作業の中で、”考える力を養うため”、”自分の知らないことを通して自分の謙虚さを見つめなおすため”、”常に知識をアップデートをする姿勢を失わない”ために行っている。こうした”意味づけ”のほうが、単に知識の習得というよりも大切だと私は思っている。

 私の勉強することへの意味づけは以下のとおりである。

 大学に入ると、自分の専門的な学びが中心になってくる。小学校から高校というのは人生においても極めて稀な、”幅広い分野を一度に扱う時期”なのである。動く点Pと向き合いながら、平安時代の文学作品に触れ、フラスコの反応を眺めながら、ミシンで裁縫を行い、冬場の校庭で持久走をするなんて人生はその後絶対に来ない。その後の人生で一度もない頭の使い方をするわけである。いくら意識が高くても、これほどのことはできまい。
 その授業が面白いと思ったときはチャンスだ。自分の興味関心がどのようなベクトルであるかを知る機会になる。その授業がつまらないと思ったときもまたチャンスだ。今後の人生においてつまらないことはたくさん体験することになる。そんな時にどのように取り組むのかを、その授業を通して実践することができる。どのような姿勢で学びに取り組むのか。これもまた、"学びの意味づけ"である。

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最後に有名なフレーズを引用して終わりにしたいと思います。

"点と点のつながりは予測できません。
あとで振り返って点のつながりに気づくのです。"スティーブ・ジョブズ

ここでいう”点””とは一つの経験や学びのことです。まさにこの言葉が、「学びに意味がある」のではなく、自分自身で「学びを意味づける」ものであることを物語っているのではないでしょうか。私自身も人生に意味づけをしていくために点をたくさん増やしていきたいと思います。点がなければ、人生につながりも生まれませんから。



まだ駆け出し者の文章を読んでくださり本当にありがとうございます!