「黄泉比良坂にて」 #10

 真っ暗な道を西川原と駆けた。途中で何度も枝が顔に当たったが、気にしている余裕はなかった。とても道と呼べるのようなものではなかったが、夢中で駆け抜けていった。
 止まって、と何度も西川原が言っているのが聞こえたが、おれは無視した。
 足元がよく見えず、おれたちは足を踏み外し、斜面を転がっていった。気づくと、おれと西川原は地面に横になっていた。どれぐらい時間が経ったのかわからない。しばらく、気絶していたのかもしれない。
 おれはそれでも、西川原の手を離していなかった。西川原がおれの手を引き剥がしたとき、おれはその理由がわからなかった。西川原は肩で息をしながら、こちらをじっと睨んでいる。
「……なんだよ」
 少し冷静さを取り戻して、おれは言った。
 西川原は俯いていた。
「この道を行っては駄目」
「どうして?」
「知らないわよ。駄目ってことになってるの」
「なんの根拠があるのかって、訊いてるだけなんだけど」
「父から、ここには来るな、って言われているの」
「親父さんから?」
「この道は結界の外側に繋がってるからだって。結界なんて、馬鹿馬鹿しいと思っていたけれど……。そもそも、父さんはよくここに来ていたわけだし」
「来てた?」
「そう。あの神社の社を掃除したあとで、よく、こっちの道に来てた。この先に、この山のご神体があるんだって、そう言ってた。でも、あたしは来ちゃいけないって……」
「なんで?」
「わからない」
 そんなはずはないだろう、と思ったが、また怒らせるのも面倒だと思い、口にはしなかった。
「じゃあ、どうする? またあの境内に戻るか?」
「戻れるわけないじゃない」
 苛立った声で西川原は言った。結局、怒るんだな、とおれは思った。だが、互いにそれ以上何も言わなかった。何も言うことがないからだ。しばらくおれたちはにらみあったあと、黙って道の奥へと歩き出した。とにかく今は、前に進むしかないだろう。
 ここまで来ると、先ほどまでの混乱が嘘のようだった。結局、あの体験はなんだったのか、わからずじまいだ。いや、そんなことより、もっと重要なことがある。おれたちは、工藤を置き去りにしているのだ。
 山道は下りの斜面になっていて、なだらかではあるが、徐々に山を下っていっていることはわかる。道は、もちろん舗装されていない、獣道のような道だ。だが、少なくとも人が通るための道であることは確かだった。
「ちょっと待って」
 西川原が先を歩くおれを止める。振り返ると、思っていたよりも近くに西川原がいたので驚いた。
「顔を見せて……血が出てる」
 西川原は言い、おれの頬に指で軽く触れた。彼女の指には血がついていた。頬に触れただけで血がつくぐらいだから、それなりに深い傷なのかもしれない。さっき、転んだときに切ったのかもしれない。
「痛そう」と西川原は言った。
「痛くないよ」とおれは言った。
 強がりではなく、ほんとうに痛みはなかった。興奮しているからかもしれない。西川原に頬を触られたという感覚自体が希薄だった。身体のまわりがゴムの膜で覆われているように、感覚そのものが鈍くなっていた。感覚が麻痺しているのかもしれない。
「雨だ」
 静かな雨が降ってきた。頭上の木々から雫が地面の木の葉に当たる、濡れた音が聞こえた。
「行きましょう。この先に、家があるかもしれないから」

(つづく)


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