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「黄泉比良坂にて」 #52

 川の水は冷たく、足の先が痺れてきている。おれは靴もすべて脱いで、裸足になった。西川原も工藤も、それぞれすでに靴を脱いでいる。おれは少しずつ足を動かして、前進しようとしたが、全然前に進まない。
 水の流れに抗うということが、これほど困難だとは思わなかった。さっき、中州から岸まで渡ったときとは全然違う。同時に、川上から風が吹いてきているのがわかった。人魂たちは宙に浮いているが、それでも前に進めないのは風が吹いているせいもあるのだろうか。
 おれたちは全員無言になった。おれは足を動かすたびに、どこに足をおろせばいいのかに迷い、足をしっかりと川底におろすことができても、不安定な石の上だったりして、まったく自分の思い通りにいかなかった。水の冷たさと、踏ん張らなければならない体力を消耗して、何度も気を失いそうになった。
 西川原と工藤はおれのすぐ前を歩いていた。おれは工藤のシャツの裾を掴み、半ば意識を失いながら、ついていくことしかできなかった。側からみればのどかな夏の風景なのかもしれないが、おれにとっては冬山を真っ裸で登山しているような、そんな感覚だった。
 朦朧とした意識で一歩を踏み出したとき、おれは足を踏み外し、深みにはまった。まずい、と思ったときにはすでにもう遅かった。奈落の底に吸い込まれるかのように、足を水中に持っていかれ、おれは頭の先まで水の中に浸かってしまった。
 おれは思わず叫んだが、目の前を泡が駆け抜けていき、おれはしまった、と思った。
 次の瞬間、水を思い切り吸い込んでしまい、おれはパニックになった。空気が欲しい。空気がどこにもない。必死でもがいたが、手には何も引っかからない。宇宙空間で溺れているようなものだった。
 工藤か、西川原が気づくことを願ったが、彼らは視界にはいない。必死で腕を動かしていると、手が動かなくなっていることに気が付いた。全身に感じる冷たさとは裏腹に、喉の奥が焼けるように熱い。手が痺れている。
 おれは信じられない光景を見た。
 自分の腕が、根本から取れて、目の前を流れている。
 まず右腕、そして左腕。
 腕から肘にかけてが真っ黒に変色している。
 もう身体が限界なんだ、とおれは悟った。
 しかし、こんな状態になっても意識は比較的ハッキリしているのが妙に可笑しい。
 おれは目の前を流れる自分の腕を見ると逆に冷静になり、本当がそれが自分の腕なのかを確かめようとした。
 目の前を流れていく自分の腕は、まるでマネキン人形か何かのようで、それが自分のものである感覚は全くしない。だが、自分の腕に力を込めることができないし、自分の肩を見ると、そこから先には何もなかった。
 おれは静かに目をつぶった。もう決定的だ。ここから、事態が好転することは、絶対にありえない。
 髪の毛が後ろに引っ張られるように、後ろ向きに誰かが思い切り頭を引っ張っているような感覚がした。果てしない底に向かって、落ちていく感覚。気を失って、眠るような感覚に似ている。目を開けようと思っても、まぶたさえ動かすことができない。苦しいという感覚も、もはや、ない。おれの全身を、水が駆け抜けていく。これが死ぬという感覚ならば、死ぬのも別に悪くないな、とおれはぼんやり考えた。
 その時、真っ暗だった視界が急にぱっと明るくなり、あたりが黄金色の光で包まれた。明るくなったからといって、それで何かが見えたわけではない。おれのまぶたは相変わらず閉じられたままだ。身体全体が熱くなるのを感じた。身体の外側から熱に晒されているわけではなく、自分の内側から熱を発しているのだ。身体を包んでいる水は氷水のように冷たいが、その冷たい水に浸している自分の身体が、その冷たさに打ち勝つように熱を発しているのだ、と思った。(つづく)


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