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自分の頭に考えさせる

理系の人と話をすると、「問題を自分の頭に考えさせる」みたいな表現をする人がいる。

自分の頭というのは、自分の思考を生み出すそもそもの機関であるはずなのだけれど、まるで他人事で、それどころか機械か何かのように扱っているのが面白い。

しかし、自分でも知らずのうちにそういうことを結構やったりはしている。例えば、寝る直前に、自分の抱えている複雑な問題について考える。すると、寝ている間に、いつの間にか頭の中が整理されて、解決策を朝に思いついたりする。

自分の頭というのは、自分が主体的に働かせているように見えて、実は全然そんなことはないのかもしれない。同様に、僕は積極的に自分の知らない分野の本やウェブサイトテキストなどを読んだりすることがあるが、それを頭の中に放り込んでおくと、それまでの自分では思いつかなかったような発想を知らないうちに生み出すような感じがする。そういうことを期待して、とりあえずインプットしておく。

主体的な行動というよりは、それによる化学変化を期待する、といったような、どちらかというと受動的な行動である。


 
ところで、最近、運動不足なので、毎晩走ることにしている。9月に入ったあたりから食生活もあらため、減量に取り組んだところ、1ヶ月ちょっとで2キロほど痩せた。それほど悪くないペースだ。
 
毎日走る、というのは、自分に与える負荷としてはそんなに悪いものではないな、と思っている。特別な道具がいるわけでもないし、移動する必要もない。自宅を起点として、1.8kmほどのコースを作ったので、それを毎日2周している。

正直、運動不足がどうとか、痩せるとか痩せないとかはどうでもいい。「自分に対する負荷」としてこれをやっているところが大きい。
 
毎日走ろうと決めると、それに付随していろんなことを考える。もちろんネガティブなことが多い。たとえば、今日は疲れていて、走る気分じゃないからやめようか、など。あるいは、日中かなり激しく動き回ったので、そもそも運動としては十分足りているのではないか、などもある。雨の日は走らないようにしてはいるのだが、「まだ降ってないが、そのうち降りそうだ」という理由でやめようか、というときもある。

もっとそれっぽい理由だと、「連日走っているので膝が痛くなってきている」などもある。それらはすべて、言い訳のようにも見えるし、もっともらしい理由のようにも思える。
 
僕は、いったんこれらを「無視」するようにしている。疲れていようが、雨が降りそうだろうが、膝が痛かろうが、とにかく走る。体のどこかが痛かったら、普段よりもペースを落として走ったらいい。

とにかく、理由などなく、ただ走る。そうやって、走ってみると、案外、自分をコントロールすることは簡単なんだな、ということに気づく。自分ではなく、他人をこのように走らせようとしたら、なかなかこうはいかないだろう。自分が自分に対して述べたような言い訳を、1ダースほども浴びせられるに違いない。

そういった、彼らの抱える不満やらストレスやらに対していちいち答えなければならない。しかし、自分自身に対してなら、そういった言い訳をすべて「無視する」ことができる。体がどれだけ悲鳴をあげていようが、脳細胞から筋肉細胞に「動け」という指令が下ったなら、筋肉は動かざるを得ない。そういう意味で、コントロールは非常に楽だな、と思えるのである。

この状況は、「自分の身体に走らせる」と表現できるだろうか。


 
そうやって自分をコントロールすることを覚え始めると、なかなか面白い。自分のリソースを、あたかも他人のもののように扱うことができるようになるのだ。

「自分の頭に考えさせる」というのも、きっとその延長線上にあるのだろう。自分をコントロールすることは、他人をコントロールするよりもはるかに楽だ。

そういう考え方を手に入れると、色々とやりやすくなるのでは? と思ったりする。

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