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be動詞ってなんですか?

大学では、フランス語を学んでいた。

一番最初のフランス語の授業で、日本人の男性の助教授が、黒板に”Je suis”と書いた。

「”Je”というのは私、つまり、英語で言うところの”I”に相当します。”suis”というのは、いわゆる英語のbe動詞で、”am”に相当します」
 
そこまで言ったところで、僕の隣に座っていた男子生徒がおもむろに手をあげた。

「先生、be動詞ってなんですか?」

ひとつ断っておくと、僕が通っていた大学は俗にいう「Fラン大学」などではなく、いちおうまじめに受験勉強しないと入れないレベルの大学だ。まあ、愛知県における二流の私立大学といったところだろうか。
 
壇上の助教授は、どういう反応をするのかとじっと見ていると、「いい質問ですねえ」みたいに少し嬉しそうな顔をして、おもむろにその説明をはじめた。

確かに、あまりに初歩的というか、あまりにも根源的な質問にはぎょっとしたものの、説明を聞いていると、確かにbe動詞というのは英語の最初のほうで習うけれど、あらためて問われるとよくわからないな、と思った。

(ここからは僕の解釈です。実際に教授が何をそのときしゃべったかは、15年前なので忘れてしまいました……)

I amという英語は、日本語にするならば「私は」と訳せると思う。amの部分は「は」に該当するので、日本語にするとそういうことだよと説明はできるが、では、「は」ってなんなのか? と問われると、答えに窮する。なんだよ「は」って。

「は」単体でそれがなんなのかと問われるともはや何がなんだかわからない。理屈を理解するというよりは、感覚的に、というか、言語を使っていくうちに、自然に身に着けるようなものなのだと思う。
 
あとで知ったのだが、be動詞の説明をはじめた助教授は、論文でフランス語の冠詞(英語でいうと、aとかtheとか)に関する論文をいくつか書いていた。

be動詞はどうかわからないが、そういう文法のベーシックな部分をアカデミックに研究している人だったのだ。いちばん最初の授業で出てくるような、もっともベーシックとなる部分にこそ、みんながなにげなく使っているようなところにこそ、学問の真髄というのは潜んでいるのかもしれない。

おそらく、それを研究することを専門にしていない高校の教員などに「be動詞ってなんですか?」と質問しても、アカデミックな回答をできる人はそうそういないだろうが(いることはいるかもしれないが)、そういったことを訊かれて知的好奇心を刺激された(ように見えた)大学の先生というのはさすがだな、と思った。

高校の教員ならば、そんなことを気にする暇があったら英単語のひとつでも覚えろ、というような指導をするような気がする(全員がそうだとは限りませんが)。

「わかる」ことと「使える」ことは違う。女子高生は、スマホのフリック入力がとてつもなく速く、使いこなせているかもしれないが、フリック入力がどういうプログラミング言語で、どのような記述をされているかは知らない。もちろん、スマホがどういうロジックで動いているのかも知らない。

もっとも、「わかっている」人も、問いを突き詰めていって、先へ先へと進んでいくと、必ずどこかで「わからなくなる」。
 
それが何の役に立つのか? と思うかもしれない。実際、知的好奇心の多くは、さほど役には立たない。ただ「使いこなす」だけのほうが、何かの役には立つだろう。
 
でも、何かに疑問をもつこと自体が楽しい、のではないかと思う。

あのときの助教授の顔を思い出すと、なんとなく、そんなことを思う。

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