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「黄泉比良坂にて」 #38

「さっきまでは、二人とも、川岸にいたのよ」
 西川原は岩場の影におれたちを引っ張っていき、小声でそう言った。
「あの子は、秋川の子どもだと思う」とおれは言った。「工藤が連れてきたんだ」
 西川原は工藤をみて、軽く頷いた。それが西川原の挨拶のようだった。
「工藤くん、本当に無事だったんだ」
「いや、無事かどうかはよくわからないけど、とりあえずは生きてるみたいだ」
「何してるんだ、あの二人は」おれは岩の向こうにいる、佳恵と裕二のことについて、西川原に尋ねた。
「さあ。川の音でよく聞こえないけれど、さっきは、あの子の名前を呼んでいたみたい。でも、あの子は逃げ続けていて……、川の中に入っちゃったってわけ。あれ以上近づいたら、あの子はさらに逃げて川のもっと深いところに行っちゃうかもしれない。いまは膠着状態ってわけ」西川原はそう説明した。
「まあ、そりゃ姿が変わってれば、わからないよな」おれは言った。
「そういうもの? 姿が変わってても、自分の親だったら気付くと思うけれど」と西川原は言った。
「無茶言うなよ」とおれは返す。
「あたしは、逆だったから。自分の親の姿なのに、まるで別のものが入っているような、そんな感覚になったから……」
 おれは黙った。どちらが正解なのかは、おれにはわからなかった。
「で、どうするんだ? このまま黙って見てるだけか?」工藤が言った。「助けに行かなくていいのか」
「助けに行きたいの?」
「当たり前だろ」
 ちょっと怒った感じで工藤は言った。
「さっき、そこで清水と、見たんだよ」
「何を?」
「秋川さんが、死ぬとこ」
「ほんと?」
 西川原は少し大きめの声で聞き返した。
「そんなことで嘘言うかよ」と工藤は言った。
 そのとき、おれたちの前に黒い影が列になって覆いかぶさった。月明かりが遮断されて、真っ黒な暗闇があたりを包んだ。月に、雲でもかかったのだろうか。おれは振り返り、空を見上げると、背後に大勢の人が並び立っているのが見えた。さっき、おれたちを取り囲んでいた式神たちだろう。これはまた別の連中、ということになるのだろうか。今度はおれと西川原だけでなく、工藤もいるが、おれたちは武器になるようなものは何も持っていない。
「どうする……やばいだろ」
 おれは起き上がった。西川原と目配せする。もう、隠れる意味もない。三人で、岩の影から河原のほうまで駆けた。佳恵が膝まで水に浸かったまま、こちらを見る。
 川の中にいる裕二が、工藤の姿を見ると、そちらに向かってゆっくりと川の中を歩き出した。工藤も川の中に入って行く。やがて工藤は裕二のところに追いつくと、裕二を抱きかかえた。
「裕二!」と佳恵は叫んだ。「なんでその人のところに行くの。お母さんだよ! どうしてわからないの!」
 佳恵は工藤を睨みつけている。その形相は、さっきまでの彼女とは、まるで別人だった。
「あれがお前の母さんだとよ。わかるか?」
 工藤は裕二を川の中に下ろし、両脇を掴んだまま佳恵のほうへと向かせる。裕二はしばらく佳恵を凝視していたが、少し間があって、首を横に振った。おれは工藤のほうへ川の中を歩いていこうとしたが、進もうとするおれの肩を西川原が引っ張った。西川原の目は佳恵から離れない。佳恵は顔を両手で覆い、膝から崩れ落ち、川の中に身の半分以上を浸しているが、次に何をしだすかは全く予想がつかない。
 おれも何が起きてもいいように身構えた。しばらく、誰も動かなかった。おれは周囲を見渡す。さっきまで、岩のあたりでおれたちを取り囲んでいた式神たちが河原まできている。だが、川の中までは入ってこられないようだ。水際で止まっている。紙人間は土手の向こうから続々とやってくる。川の中から見ていると、岸を取り囲む彼らはまるで壁のようだった。(つづく)


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