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見えざる影響にこそ想像を開いて、デザインに向き合うために

こんにちは。私は普段はハイジ・インターフェイスという制作会社でWebサイトやモバイルアプリのUIデザイン・グラフィックデザインをしています。

今回は、自分が数年前から少しずつ模索してきたデザインに対する姿勢と、さまざまな人との関わりの中で得た経験などをもとに、今後自分自身に落とし込みたい考え方について共有したいと思います。

そしてこの記事が、私と同じような「どうしようもなさ」を抱える方にとって、少しでも心を支えるものになれば幸いです。


よりよいデザイン、本質的なデザイン、に対するどうしようもなさ

「見えざる影響」についてお話する前に、まず自分がどのような経緯で、どのような課題感に向き合ってきたかをお話したいと思います。

今から2年半ほど前、社会人2年目のデザイナーとして現場での経験も増えていく中で、自分がどのような人物を目指したいのか、何をより突き詰めたいのかを切実に考えていくタイミングで、とある本に出会いました。

ヴィクター・パパネックによる「地球のためのデザイン」「生きのびるためのデザイン」です。

大量生産大量消費の中で刺激的なデザインがまかり通る。真に人間が必要とする豊かな思考に支えられたデザインとは? 著者独自の生態学的デザインを更に発展させた、現在の地球環境への警鐘と提言に満ちた書。

「MARC」データベースより

ヴィクター・パパネック(1923-1998)は、フランク・ロイド・ライトの弟子として建築を学び、アメリカを拠点にインダストリアルデザインの教育に従事すると同時に、ユネスコ専門委員としてデザインの実際面でも活躍しました。
彼は、自身がエスキモー族やバリ族と共に暮らした経験や、ユネスコ専門委員としてデザインした製品への知見、二酸化炭素の排出や大量生産・大量排気の社会が地球にもたらす影響とデザイナーの役割などに言及しながら、「世界中の人々がデザインに対して本当に求めているものに正しく応えていくにはどうしたら良いか」を非常に具体的に警鐘を鳴らしながら語ります。

私はその知見の深さと、実践による世の中への影響の偉大さに衝撃を受けました。

しかし、当時の私が彼への賞賛よりも強く感じたのは、
ひとりの人間がこれだけの経験と知見を積まなければならないほど、地球に対して誠実なデザインに取り組むには責任が大きすぎる」という、目の前に広がる問題の果てしなさと無力感でした。

課題と解決への道を共有すること

そんなどうしようもなさの中、次に出会ったのが1960年代頃に活躍した建築家クリストファー・アレグザンダーが考案した「パターン・ランゲージ」という手法でした。

パターン・ランゲージは、都市計画理論のひとつとして現在もよりよい実践のあり方が模索されています。

アレグザンダーは、建物や街の形態に繰り返し現れる法則性を「パターン」と呼び、それを「言語」として記述・共有する方法を考案しました。
パターン・ランゲージは、デザインに関する共通の語彙を提供するので、設計に関わる要素どうしの複雑な関係性について簡単に言及できるようになります。
これによって彼が目指したのは、街や建物のデザインについての共通言語をつくり、誰もがデザインのプロセスに参加できるようにすることでした。

この考え方は都市だけでなく、Webなどソフトウェア分野において、プログラミング手法や情報設計理論にも広く応用されており、例えば現在よく知られているWikipediaの前身であるWikiWikiWebの考え方などにも繋がっています。


私にとってこのパターン・ランゲージは、一人で問題に取り組むどうしようもなさを抱えた中で非常に希望を感じる手法でした。

そして私にとって、こういったデザインに対する姿勢の思考錯誤は
「この時代の地球のヒトとして生まれて落ちてしまい、社会経済活動を通して他者と関わり合わなければ生き続けられない生活を選んでいる自分が、よりよく世界と関わるには」という最も大きな問いに従って、少しずつ多方面から問いを積み重ねて今に至ります。


「誰かを傷つけたくてデザインしてるわけじゃない」

そして今年2021年の5月、改めて自分の考えを大きく変える出来事がありました。それがWebアクセシビリティの取り組みについて多方面から語り合う「GAAD Japan」というイベントに参加した時のことでした。

Webアクセシビリティとは、例えばWebサイトを閲覧するときに、自分とは色彩の見え方が異なる方に対する配慮がなされたデザインになっているか?文字のサイズはどうか?目が見えない方には、音声での案内が使用できる設計になっているか?などといった品質基準のことです。

「より多くのユーザーが、より多くの利用環境から、より多くの場面や状況で、Webコンテンツを使えるようにすること。」であり、それは「時代や社会からの要請」でもある。

エーイレブンワイ「Webアクセシビリティとは?」より引用

このイベントの中でハッとさせられる言葉を聞きました。

自分たちデザイナーは、誰かを傷つけたくてデザインしているわけじゃない。だからWebアクセシビリティに取り組んでいるんです。

この言葉はとてもシンプルですが、常に客観的に自分の姿勢を見直すための言葉になりました。


自分なりの「ディープケア」を考える

GAAD Japanと同時期の21年中旬。私はそういった他者への責任意識と興味を深めたい思いもあり、一般社団法人Deep Care Labという団体のお手伝いを(半ば勢いで…)させていただくことになりました。

彼らは「あらゆるいのちへの、ケアする想像力を」というコンセプトをもとに、他者への想像力を養い具体的なアクションにつなげるためのワークショップやトークイベント、コミュニティなどを各地で主催しています。

私にとって、彼らに関わるための重要なポイントであったのは、
そのケアと想像力の対象が人間だけでなく、
種を超えた「あらゆるいのち」に明確に目を向けているところでした。

先ほどのWebアクセシビリティについては、自分がそれを知った上で、知らなかった時と同様取り組まなくてもよいとすることが即ち「自分が直接経験できない存在の体験価値を低く見積もるという差別に他ならない」と考え、ケアの必要性を覚えました。しかし、こういった意識は人間に対してだけではなく、あらゆるいのちに対しても同様に、正しい想像力をもって広げていくべきではないか、と考えていました。

未来に対する見えざる責任

現在もDeep Care Lab主催の「Weのがっこう」というラーニングプログラムに運営サポートとして参加しながら、想像力の対象を具体的に拡げるための学びを深めている最中です。


そしてその中で私が明確に得たのが「未来への責任」という新しい観点でした。

これは「自分が直接経験できない存在の体験価値を低く見積もるという差別」へのケアの対象が、現在に生きているいのちだけでなく、未来に生きるいのちに対しても拡げていくべきものだという気づきでした。


当プログラムでは、微生物や菌といった身の周りの多種の存在や、普段使う人工物への視点などと続いて、過去・祖先へのまなざしや、未来への影響について学びます。

過去・祖先に関するワークでは、「過去から来た人に現代の気候危機の状況を伝える」というロールプレイをもとに、過去の受け止め方と今自分たちにできることについての考えを深めたり、【グッド・アンセスター 私たちは「よき祖先」になれるか】という本を日本語に翻訳した現代僧侶の松本紹圭さんをゲストに対話を行いました。

【グッド・アンセスター】の中で触れられる内容の一つに、現在における政策が直近にもたらす影響よりも、未来に影響するリスクについて低く見積もられてしまう「ディスカウンティング」という概念とその問題が語られます。

「ディスカウンティングは、明日の年金よりも今日のパーティを優先する人間の心理を表しているに過ぎない」というものがある。だが、個人が現在を優先しがちだからといって、集団で将来の世代を無視して良いということにはならない。私たちに彼らの生活や福祉の価値を貶める権利などない。

グッド・アンセスター 私たちは「よき祖先」になれるか


未来に関するワークでは、「最悪の未来を想像してみる」というところから、現在における対策をバックキャストするグループワークを行ったり、ドイツの哲学者ハンス・ヨナスを紹介する【ハンス・ヨナスを読む】などの著者である哲学者の戸谷洋志さんとの対話を行いました。

哲学者ハンス・ヨナスは、まだ存在してもいない未来の人に対してどう責任を持てばよいかに言及しながら、そもそも責任とは何か、ということについて、新たな視点を与えてくれました。

「責任」と日本語で言えば、それは「立場や対価に見合うだけ課された義務に応えなければならないもの」といったように聞こえがちです。しかしヨナスはまず責任の前提に、私たちに向けられた「呼び声(要請)」があるという原理を説明します。

これを【ハンス・ヨナスを読む】の中の言葉を借りながら例えると、

たとえば、まだ言葉を持たない乳児に対する保護者の責任について考えるとき、そこにはまず子から発せられた「呼び声」があり、この「呼び声」に耳を傾けて応えることが求められる保護者の存在があります。
このとき、保護者は子に対して「責任を実現する可能性を担っている」という関係を説明することができます。

つまり、責任(Response-ability)とは、呼び声を受け止め、それに応答できるというある種の受容能力・対話能力のことである、とも言えるでしょう。

そういえば、ちょうど先程のWebアクセシビリティにおいても「時代や社会からの要請」という説明がなされていましたが、これをある種の「呼び声」だと言い換えると、
まだWebアクセシビリティについて何も知らなかった頃の自分は、その声を聴き容れることができず、応答する能力がない、つまり責任を実現する能力がない状態だったといえます。
しかし、いまは呼び声を代弁して伝えてくれた人々により、自分はその声に耳を傾けることができ、応答することができます。
こうして現在の私は、Webアクセシビリティに対してデザイナーとしての責任という能力を持っています。

このようにして、責任というのはさまざまな声に耳を傾け、共有していくところから社会として「発見」されていくものなのだと思います。

現在はインターネットを通じて、遠くにある小さな呼び声にもアクセスできる世の中になりましたし、それを代弁することも容易になりました。
こういった現在利用可能なツールを有効活用しながら、この想像による責任の発見を、人類をこえて多種・時間をこえて多世代に対して拡げていくことも可能になっていく中で、
同時に、その呼び声に対するよりよいケアのあり方を常に多面的に問い直してアップデートしたり、多くの声への責任に耐えられるように、一人で抱え込まず、周囲と協力できる取り組みのあり方も重要であると考えます

これらが、これから自分が社会の中でデザイナーとして目を向けていきたい課題なのだと、改めて足元を見つめ直したのでした。


具体的な未来からの要請と応答

抽象的な話だけで終わりたくなかったので、最後に少しだけ具体的なお話をしたいと思います。

現在自分が取り組みたい課題として、【グッド・アンセスター】の帯にも大きく掲げられている「短期思考から長期思考へ」というシフトの必要性に応答したいと考えています。

私は、普段自分が行っているデザインという作業において、十分なケアがなされなかった場合に人々に与える影響として、特にこの短期的な思考を助長しやすい傾向があると考えています。

例えば、ショッピングサイトをデザインするとき。そのユーザーが商品を購入しようとする際に、本当にそれを買うべきかどうか、その製品による環境負荷はどうか、無駄にならないか、製品メンテナンスなどによって自分の経済的な負担にならないか…といった冷静な判断をユーザーから奪うような煽りをしていないか。
これらの短期思考を助長する仕掛けにより、人々の長期的な思考能力が失われる流れに加担してしまっていないか。

デザインに取り組む際、このように一歩立ち止まってその責任を考える必要性を感じています。


おわりに

自分が世界に対して与えるのはほんの小さな影響かもしれません。しかし、社会に関わって活動をする限り、誰かを通じて少しでも世界に影響を与えていることは確かです。

だからこそ見えざる「呼び声」に対して想像力を開き、よりよい影響のあり方を模索し、果てしなくどうしようもないと感じる時には周りと協力しながら、少しずつでも応答をしていきたいと思っています。

そしてこの記事を読む皆さんに向けて、

「呼び声」が聞こえていない人の存在に気づいた時、その人を糾弾するのではなく、声を共有することで学び合えるように。
「呼び声」を上げづらい存在に耳を傾け、声を上げやすい状況をつくれるように。
このような姿勢でいることが、より健全なかたちで、社会として責任を発見していくために必要であると私は考えています。


もちろん私自身、新しい声に応える前にWebアクセシビリティも含め、現在聴こえはじめている声に対する理解も十分にはできていませんし、取り組みきれてはいないと自負しています。
まずは今目の前にある声に応えていくことにも、立ち止まらず向き合いたいと考えています。

デザインという領域に限らずどんなことであっても、私が気づいていない声が聞こえている方はぜひその声について教えてほしいし、一緒に模索したいと思っています。
もし私と関わる機会があれば、ぜひさまざまな声について教えてください。

その他、感想などもありましたらぜひお気軽にコメント等いただけましたら幸いです。

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