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昨日とちがうパターンで

自分を他人と比較してばかりいれば自己肯定感が下がるのは当たり前だ。
いまは自分と他人を比較する環境がしっかりと整えられているから、その影響で自己肯定感を下げてしまっている人は多いと思う。

努力する人としない人のモチベーションの差

『モチベーションの心理学』(中公新書)という本を読んでいたら、がんばる人とがんばらない人の違いが説明されていた。
がんばる人は「その努力の結果、なにか得るものがある」と思うからがんばる。がんばらない人はその努力をしても何も得られないと思うからがんばらない。
要するに期待値の差だ。これはその人がそれまでにどういうふうに育ってきたかによって大きく異なる。

がんばっても意味ない「無理ゲー社会」

「無理ゲー社会」という言葉がある。作家の橘玲さんの本のタイトルにもなっているが、簡単に言えば、がんばっても自分の状況をどうにも変化させられない社会のことである。
国民を上級国民と下級国民とに分類し、下級国民は何をどうがんばっても下級国民のままで、上級国民との差は埋まらない、というふうに社会を認識していると、期待値はゼロに近い。がんばる前に諦めている。だから「無理ゲー社会」。

社会をどう捉えようが自由なので、そういう認識があってもおかしくはないと思う。それに、ぼくは悲観的にものごとを捉える癖があるので、「現代は無理ゲー社会です」と言われたら「そうでしょうね」と思ってしまう。

悲観論ばかりの日本

だけど最近は、世の中を悲観的に捉える見方があまりにも浸透しすぎているような気がしている。
日本を肯定的に捉える材料がなくなって、過去と現在を比較してもう今後も落ち込んでいくしかないのだという悲観的な言説をよく見かけるから、悲観的に捉えるのもわかる。その見方は妥当なのかもしれない。
しかし日本の未来をポジティブに見ようがネガティブに見ようが、どちらもただの論である。個人の見方にすぎないただの意見だ。ぼくが心配しているのは、そういう「意見」に人々が納得しすぎな点だ。ただの論にすぎないのだから、もう少し納得せずにいたって良いのではないだろうか?GDPが下がっている。賃金が下がっている。相対的に日本だけが沈没していく。OK。そういう見方もあるだろう。VUCAな時代だと言われるわりに、日本の未来だけ確信を持って語る人々を、なぜ信じるのだろうか?VUCAなのかVUCAじゃないのかハッキリしてほしい。


いやぼくはずっと20年くらい悲観論者なので、ようやくみんな悲観的になったんだなとも思う。こんな状況下で、なにも得られないのに無理にがんばる必要はないのかもしれない。下級国民は、何かをがんばらずに暇つぶしのゲームをして楽しんでいる方が、本当は幸せなのかもしれない。

時間が浮いて暇つぶし

無料の漫画アプリは広告を掲載することで成り立っているが、そこに出てくるのはほとんどがゲーム広告だ。「暇つぶしゲーム」と広告自身がうたっていることもある。現代は、時間がないと嘆く人々がいる一方で、暇をつぶすことへの需要もどこかに存在していると思われているのだ。

努力をしても仕方ないというとき、浮いた時間は暇になる。
その暇をただぼややんと過ごすのは苦痛なので、暇つぶしのゲームをやる。
そもそも努力しても期待ができないのだから、こういう状況でゲームをやっている人に「諦めずにがんばれ」と励ましても無駄だ。

未来予測と期待

期待とは、未来を予測するから生まれる産物である。努力する人もしない人も、なにかしらの未来を予測している。そして、そこで人々が予測するための材料は、すべて過去のできごとである。過去を振り返って未来を予測している。しかし未来はそう単純ではない。複雑な要素が絡み合って、影響しあって未来がつくられていくので、過去の延長線上で考えると大きく間違えてしまう。
そういえば、AIも過去の事例からしか学べない。どれだけビッグなデータも、すべて過去のできごとである。

過去の延長線上から外れる

人間は過去とは違うパターンの行動をとることができる。家から仕事場までの道のりも、昨日まで歩いた道と違う道を歩いてみることができる。いまふと思いついた行動をとることができる。それは、AIが持ち合わせていない人間の魅力だと思う。

人間は自分の経験からさまざまなことを学習する生き物だが、学習して賢くなったと錯覚すると、自分の未来まで予測できると思ってしまう。これは学歴も偏差値も関係ない。
しかし、いまの自分は過去に思い描いていたとおりになっているだろうか?
もしそうなっていないなら、まだ未来を決めつける必要もない。自分の未来予測があっている保証は全然ない。
そして、これまで無意識に踏襲してきた自分の行動パターンを意図的に崩すことで、未来予測はまた大きく変わってくるだろう。
過去からのパターンを崩すことを、いまはとりあえず努力と呼んでおきたい。努力とは、昨日とは違う何かをすることである。

失敗パターンの多様性

ひらめきとは、失敗のパターンが多様になったときに生まれるのだという。
同じ失敗を繰り返してもひらめきは生まれない。ああでもないこうでもない、という試行錯誤が、ひらめきの土壌を耕す。
自分の視野が狭いと成功までのルートを見出せない。変な思考の制約がかかっているからだ。失敗のパターンが多様になったときにその思考の制約が外れる。

だとすれば、「昨日とは違う何かをすること」を繰り返すことには、大きな価値があると言えるのではないだろうか?
そのほうが、過去のパターンから悪い未来を予測して諦めるよりもよっぽどマシで、毎日を楽しめると思う。
論理としては飛躍しているような気もするが、とりあえず今日はこんなところで。

(追記)
大事なことを書き忘れた。悲観論が出回りすぎると、社会全体の未来への期待値が下がる。そうなると人々は悲観論が出回る前よりもさらにがんばらなくなってしまうのだ。だから、悲観論の取り扱いは注意すべきなのである。

参考文献)
鹿毛雅治『モチベーションの心理学』(中公新書)
橘玲『無理ゲー社会』(小学館新書)
鈴木宏昭『私たちはどう学んでいるのか』(ちくまプリマー新書)
フィリップ・E・テトロック/ダン・ガートナー『超予測力』(ハヤカワノンフィクション文庫)


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