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わかること。わからないこと。

わかることにまつわる話です。

世界をわかりたい気持ち

積ん読になる本は「がんばって読もう」と思って買うものが多く、読みにくそうだから積み上がっていくんだけど、そういう本を読むことが世界をよりよく理解することにつながっていく。「がんばらないと読めない本」は自分が知らないことばかりが書かれているから読みにくいのであって、読めばその分だけ世界がわかる。「読みやすい本」は知っていることが書かれているから読みやすいので、読めばこれも同様に「世界がわかる度合い」も上がるけど、読みにくい本に比べて上がり方の幅は小さい。

わかるのレベル

中学校の歴史の授業を聞いていて「わかる」のと、高校での歴史の授業を聞いて「わかる」のとではわかるのレベルが違うけど、同じわかるである。だから中学の歴史がわかっている人も、高校の歴史がわかっている人も同じように、「歴史がわかっている自分」を感じている。

わかるの周囲には「わからない」がある

「わかる」がわかるためには「わからなさ」を感じておく必要がある。
「わかる」の前段階は常に「わからない」だからだ。

わからないことは減らない。

人生は一方向にしか進まず、全方位的には進まない。でも世界は全方位的に進んでいるので、人生が一方向にしか進んでいないということは、世界はどんどんわからなくなっていくのである。
ぼくが人生を歩んでいる間に、いまこれを読んでいる人も読んでいない人も勝手に人生を別の方向で歩んでおり、個々の歴史が積み上がっているので、今日1つわかることが増えても、それ以上の速さでわからないことは増えていく。ぼくが19世紀の歴史について「なるほど」と思っている瞬間にも、シリアではまた歴史が刻まれて、それをぼくは知らないままだ。

わからないから自信がない

すべてをわかったふうに語ることはできないので、わからなさを抱えながら生きて行く必要がある。でも、「わかっている」と思わないと、今度は何も語れないというのも事実だ。それは世界をわかるのとは別次元で、自分の問題である。わからないことがあるという自覚は自分の発言の自信を奪う。だけどぼくが自信を失っているうちに、ほかの人はバンバン語る。それに、黙っている人の意見は、なかなか誰も聞こうとしてくれないものだ。だから自分にはわからないことだらけだ…という自信喪失の気持ちを抱えていても、自信がないなりに「いまわかっていること」とそれに隣接する「わからなさ」は言葉にしていく必要があるのだと思う。

恐ろしいのは、「わからないことなどない」という全能の感覚を持った人の意見だけで全てのことが進む事態である。

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