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曖昧さという名のクッション

いろいろ書きたいことがあるような感じがするのにnoteをアップできないのは「答え」を書こうと思ってしまうからかもしれない。「これが答えです」を書こうとすると、その答えが間違っていないかを精査しなきゃいけないから、いつまで経っても書き終えられない。書き終えるころには死んでしまう。

何かの「正しさ」を証明するのは難しい。世の中には「今のところ正しいように思える」ということであふれている。うまく行っているように見える成功者は「今のところうまくいっているように見える」だけで、私生活はボロボロだったり、あとになって実は不正をしていたことが暴かれることもある。

「答えはひとつじゃない」についてずっと考えている。どうしたら「ひとつの答え」に縛られないように自由に生きるか。でもそれをnoteに書こうとしてなかなか書ききれないのは、「なぜ縛られないように生きるべきか?」の答えまで書こうとしてしまっているからだと今朝思った。いろいろな方法で書き始め、書き終えるころには「これでいいのかな?」という疑問が頭をよぎる。

ぼくは基本的には文章は言い切りたいタイプで、力強い文章に憧れている。坂口安吾や橋本治の書く文章は思い切りよく、スパスパと切って行く。そんな文章。いちいち文章をモヤっとさせたくない。
でもそれが原因で、不確かなことを書ききれない。自信を持って書き上げられることだけを書こうとすると、何もアップできなくなっていく。

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コペンハーゲンにあるデザインの学校「CIID」のサマースクールに今年の8月に参加した。具体的に学んだのは「UXデザインにおけるストーリーテリング」というヤツ。そこで印象に残っているのは、先生によるレクチャー以上に、クラスメイトたちと実際に制作しているときに出てきた「曖昧さ(Ambiguity)」という言葉だ。

ある課題をチームを組んで5人でやっていたとき、いくつかの案が出たので、2案にしぼって作品をつくった。それで最後にどちらの案を発表するか決める段階になった。するとそこである人が「こっちの案はシンプルでわかりやすいけど、こっちの案は曖昧さがある」と言ったのだ。
シンプルでわかりやすいものと、曖昧さを残したもの、どちらが選ばれたかといえば、曖昧なほうだった。

ぼくはそれがとても驚きだった。シンプルで明快なものが力強いのはたぶん間違いないことで、サマースクールの先生も「シンプルなこと」がストーリーテリングの原則だと言っていた。にも関わらず、「曖昧さ」を選ぶ人がいる。おそらくその理由は、「曖昧なもの」のほうがおしゃべりが活発になるからではないかと、ぼくは思っている。

ヨーロッパに行くと、カフェでおしゃべりしている人をよく見かける(日本も同じか)。わざわざカフェに繰り出しておしゃべりをする行為は、よくよく考えるととても不思議で、伝えたい情報があるならメールで良いわけだけど、伝えたいことがなくてもとりあえず会っておしゃべりする。日本でも繁華街のカフェや居酒屋はおしゃべりが花開いてるっぽくて、どこも賑わっている。みんな何時間も何を話しているんだろう?

しかしビジネスの文脈だと、おしゃべりが長いことに意味はなく、むしろ害のように扱われる。でももしかしたら、おしゃべりを潤滑にするものとして「曖昧さ」があるんじゃなかろうか。
「明快なもの」はおしゃべりの媒介にならない。「もうわかった」の一言で話は終わる。でも曖昧なものは、豊かなおしゃべりを生みやすい。正解のなさは、楽しいおしゃべりを生んでくれる。

人はおしゃべりをするために生きているのかも?とすら最近は考えている。おしゃべりではなく議論になると「正解」を見つけたくなる。その結果として人は争う。「正解」を求める心が争いを生む。曖昧さは争いを起こさないためのクッションの役割になる。「曖昧さ」が持つ魅力について、ちょいちょい考えていきたい。その魅力はおそらく、生産性とか時短というビジネス文脈からは生まれてこない魅力だと思う。

ここまで書いていろんな反論が思い浮かんじゃって、それを解消しようとすると書き終えられないんだけど、とりあえずアップします。

補足)

このnoteはもともと、「批評家が指し示すことは<正解>じゃないのでそんなに気にしなくて良い」というような主旨で書こうと思っていたnoteですが、時間が経ってしまって、批評家を軸にしたくなくなったので別の角度で書きました。

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