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君がそれを諦めないからだよ

「人から叩かれるなら、小説家にならないほうがいいんじゃないか」

少し前にこんな言葉をTwitterで目にした。
書けば叩かれる時もある。

自発的な文章をnoteに書き始めてからたくさんのコメントを頂いた。
そのほとんどが私を勇気づけられるものであり、嬉しくありがたいものであった。本当に感謝している。お会いしたらお一人様あたり2時間ほどの熱い(暑い)ハグをしたい。何なら渋谷のスクランブル交差点で華麗な前転を決めようではないか。一緒にやりましょう。(バク転ではない。でんぐり返しである)
心して欲しい。

しかし、そうではないコメントもたまにはある。
いくつか紹介させてくれ。

・note、全部、長すぎです。
・noteからインタビューされて楽しいですか。調子に乗ってませんか?
・読みましたが時間の無駄でした。
等々
本当だぞ、これ。
しかしこれらは私には響かない。受け取っても私はぼんやりとしていた。私は鈍いのかもしれない。たぶん鈍い。

しかし一瞬で私を寂寥の砂漠に放り出すものもある。
その一部をご紹介しよう。

「くどい、くどすぎる。しつこすぎる」
これは以下の小説に対してである。ちなみに大傑作である。

「それはない」
一言だけである。一言で切られた。意図が分からず、こちらの心が右往左往する。ちなみにこの方はFacebookでとても仲良くさせて頂いていた方である。以下の小説。

ちなみにTwitterでスガシカオ氏にこの小説を「読んでくれよぅ」と呼びかけたところ、「夜にひとりで読むよ」という返事を頂いた。たった一言で己の世界観を表すとは。恐ろしいクリエイターである。

なぜ、前者が私にとってさしてダメージが無く、後者は私を宇宙空間に独りぼっちにさせるような気持ちにしたのか。あまり考えたことが無かったが、これを機に三日三晩爆睡して考えた。

前者は私の創作物に対する揶揄ではない。私自身に対する僻みであるという事にした。(僻みって、俺の何を僻むのか?)
私の何かを揶揄している?勤務先のデスク周りに契約書とカタログとノートpcとネットワーク機器が数台雑に転がっている事を揶揄してるのだろうか。私が紐を結ぶのが極端に苦手な事だろうか。
わからん。
だから揶揄されてもまるで気にならない。
なんとでも言え。
はじめまして!こんにちは!さようなら!

しかし後者は私の創作物を否定している。あっさりとペラペラの一言で否定しやがって。バルス!と叫ぶ暇もなく、被弾してしまった。
結構痛かった。

*

先に述べた彼らは本当に私の「創作の世界」を否定しているのだろうか。
ここからが本題である。
彼らは「消費者目線」なのである。
「僕にはおもしろくなかっです」
「どこかで見たことがある、やり直しですね」
先ほど上げた私に対する「それはない」など、その典型である。
少しでも創作に携わったものはこのようなぺらぺらの言葉を他のクリエイターに投げる事など出来ない。もし、投げるとするのであれば消費者目線ではなく、「自分ならこの様にするのに」と言う余計なお世話的な石だ。
(これも十分殺傷能力はあるのだが、ぺらぺら消費者目線より遥かにまともだ)
(最近一度投げた。500字で投げた。後悔していない)

ぺらぺらに傷つく必要もない。深く考えずに向けられた評価や感想に右往左往する必要はない。
プロ野球やサッカー、酒を飲みながら赤い顔をしたおっさんが言う。
「何やってんだ、中田!そんなボールも打てねぇのか」
「そこでシュート外してどーすんだよ!前田 !」
彼は消費者だ。観客席にいるその消費者に対して大谷翔平や錦織圭、吉田麻也がいちいち反応するだろうか。しない。

しわがれ声で歌うオッサンが良い事言ってる。

「君もたまにブーイングを浴びないと何者でもなくなる」

ボブディラン

創作物を作り上げるまでの思考回路がある人、無い人がこの世にいるだけである。それさえ分かればなんてことない。
もう少し掘り下げよう。
「あんまりおもしろくなかった」「懐かしいですよね」
この言葉を投げかけられて嬉しいクリエイターはいない。でも、こんな言葉はネット上に溢れている。あまりに無自覚で無邪気。
僕の好きな漫画のAmazonレビューでこんなコメントを見つけた。

話が分かる人には面白いが分からない人には面白くない典型的な漫画です

お前大丈夫か?

私はnoteというインターネット上のプラットフォームで創作を始めた。ネットが無ければ創作はしなかった。
つまりnoteを始めとする各プラットフォームのおかけで社会における創作に対する間口が広がった。
そしてそれは石を投げる間口も広がったのだ。故に消費者目線のつまらぬぺらぺらの石は飛んでくる。そして私はそれを否定しない。かわせばいい。身をかわす気構えも必要なのかもしれない。

ここからが本題である。
(本題が果てしなく続く)
僕たちは何故書いたり描いたり撮ったりするのだろう。
実は最近公募に出した小説があっけなく落とされた。原稿用紙換算284枚。
かなり参っている。その辺の詳細は僕のメンバーシップに書いた。
現段階での自分が出来る限りのものを叩きこんだつもりだ。
それが9/23。
メンバーシップでは書けてるかも~とか言ったがしばらくキーボード触りたくない。

何故書くのだろう。僕の場合は小説。僕の頭の中の、淀んだ暗渠なのか豊穣なる海なのか、分からないが何か。それを計算しながら文字にする。くそメンドクサイ。
でも、何故かそれをやってしまう。
そして僕は自分で書いたものをたくさんの人に読んで欲しい。それは創作する者の根源的な欲求だと思う。このテーマをこのように工夫した、ここはここまで表現した、そんな人間がここにいると。自分の社会に対する視点はこの様な形でそれをこの様に表現したよ。

今までがりがりとやり過ぎていたのかもしれない。この際少し力を抜いてソファにでも寝っ転がるのがいいのかもしれない。

やってみた。
全然駄目である。マグロの様に延々泳いでなければ駄目なのかもしれない。

相手にされなかったのが一番痛い。

少し前にこの曲を聞いた。平家物語のアニメーション化したものの主題歌。
アニメーションはなかなか素晴らしいものだった。よくこの時代に平家物語を。
それに輪をかけて素晴らしかったのが「羊文学」が歌う主題歌、「光るとき」。
平家物語の主題歌に実に素晴らしく寄り添った歌だ。
透明感のある轟音ギターで彼女たちは歌う。

平家物語の歌。諸行無常を本当に上手く落とし込んでいる。
そしてこの詩。

何回だって言うよ 世界は美しいよ 君がそれを諦めないからだよ

この歌を聞いた時から勝手に創作についてのテーマ的な歌にした。
驚いたのが「真夜中インター」祭りに参加された「ひとさん」もこの歌を引用されていた。

僕がうだうだ書くより「ひとさん」のnoteが美しいので是非読んで欲しい。

これを書いてリハビリ的なものになると思う。
根源的な事は気持ちの中で解決していないのだが。




マリナさんありがとう。



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