見出し画像

君の思いが光るとき #真夜中インター

今年の七夕は、晴れだった。
七夕に晴れているの、何年ぶりだろう。なのに、願いごとも曖昧なまま疲れていつの間にか眠っていた。
日付も替わった真夜中に目覚めて、いつものように言葉の海に飛び込む。深く深く潜っていく。

小野 ぽのこさん作成の「もの書き100100」に答えるnoteを公開してから、日々ぽつりぽつりと「スキ」の通知が届いている。

同時に、記事内で引用したいくつかの記事にもぽつりぽつりと「スキ」が届いている。
そんな通知に紛れて、記事内で引用したわけではないのに、ぽつりぽつりと「スキ」が届きつづけているnoteがある。


書いたのは1ヶ月ほど前のこと。
内容は、自分にとって大切な友人について書いたとても個人的なもの。正直、こんなに読まれるとは思っていなかった。
このnoteのことはまだ友人本人には伝えていない。
友人はいつも私のブログ(アメブロ)を読んでくれていて、私はいつもnoteで書いた記事をブログでも共有している(しないときもある)けれど、このnoteは今のところ共有していないから、多分友人はこの記事の存在を知らない。

見られて困るわけじゃない。なんなら、普段から直接本人にも伝えているような内容だし。
でも、こんな日記のようなnoteが、何が理由なのかいつもよりたくさん読まれていることには少しおどろいている。

どんな人が読んでくださったんだろう。
「スキ」の通知を辿って、その人のページへ飛んでいく。その人の綴った言葉に触れる。
気付けば夢中になって文字を追っている。情景や心情を思い浮かべながら、じっくりじっくり読んでいく。
読み終える頃、私の中にちいさな衝動が生まれた。

Twitterでシェアするのも、安易に「共感しました」と伝えることも躊躇われるような、それでも何か伝えずにはいられないような文章。

もの書き100問100答の13問目、「良い文章」とはどんな文章? に私はあいまいな回答をした。
でも、もしかしたら今日出会ったような文章が「良い文章」なのかもしれない。私にとっての。
って結局「良い文章」って「好きな文章」なのかなぁ。
「好きじゃないけど良い文章」っていうのもあるのかな。今パッと思いつくものはないけれど……。


文章も言葉も、思いから始まる。
思いのきらめきを、閉じ込める。書くことは、祈りにも似ている。
「思い」という目には見えないものを、なんとか表現しようと苦悩した跡が文面ににじんでいることがある。
やっとやっと絞り出された、その一雫のきらめき。
たとえ完璧じゃなくたって、こんなにもひっそりと、でも光っている。そういうものに出会えると、うれしくなる。

私はそんなにできた人間ではない。
いつまでも幼く、大切なことに向き合えず、成長したいと言いながら動けず、成長できる見込みも自信もあまりない。なのに諦めることもできないでいるような人間。
書くことを「やめる」自分は想像できなくとも、自分みたいな人間が文章なんて書いていいのだろうかと怖くなってしまうことは何度もある。
でも、だからこそ書くのだとも思う。

書くことは「好き」や「楽しい」だけではない。
かなしい、くやしい、さみしい、苦しい、なさけない、ごめんなさい……
涙を炎に変えて、心の底でその炎を守りながら祈るように書いていく。表現しちゃいけない人なんて、きっといないと思いたい。


書くこと、それは花の種が芽吹くのに似ている。
今はまだ目に見えなくても、思いの種を抱き、今日も明日もと育てつづける。

書くこと、それは星の輝きに似ている。
いまこの目に見えている星の光は何年、何百年、何万年も前に放たれた光だと子どもの頃に聞いた。

生まれた思いが言葉や文章になるまで、時間差がある。時間差は小さいこともあれば、大きいこともあるけれど。
少なくともいま触れたその言葉は、今より昔に生まれた思いがようやく形になったもの。
思いには、届きますようにと願いが込められている。その願いに気付けるかどうか。どうか。

星は、見る人がいて初めて光っていると知ってもらえる。
言葉も、見つけてもらって初めて誰かの中で光るのだとしたら。

あの花が咲いたのは、そこに種が落ちたからで
いつかまた枯れた後で種になって続いていく
光るとき/羊文学

見つけたこと、見つけてもらったこと、そっと胸に抱いてこれからも書きつづけよう。
種が芽吹く日を、思いが光るときを、信じながら。


何回だって言うよ、世界は美しいよ
君がそれを諦めないからだよ
光るとき/羊文学



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?