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信頼はこんなふうに


数日前、友人から「しんどくて」とLINEが届いた。
なんとなく話したくて……と。

うれしい……と言っていいのか分からないけれど、うれしかった。私を思い浮かべて、メッセージをくれたこと。
同じ状況で、自分はそうできただろうかと。その勇気を思って。

友人につらいことがあったことは、彼女のブログを通して知っていた。
ブログにコメントもしたし、当時もLINEで少し話をした。その後、少しずつ回復していく様子もブログを通して見ていた。
吹っ切れて次へと羽ばたこうとする彼女はまぶしくて、頼もしくて、「よかった」と心から安堵していた。

でも、回復したとか元気になったとかって一時的なものだったりするから。
「大丈夫だよ」って言ったあとに大丈夫じゃなくなるなんてことも、しょっちゅうだし。
波があって、何年経っても ふとした瞬間にぶり返してしんどくなってしまったりするから。
だから、またつらくなったら私でよければいつでも連絡してねとだけ伝えていた。


自分にとって大切な人が辛そうだとすぐそわそわしてしまうけれど、そこをグッとこらえて見守る……ということをなるべく心がけてきた。ここ数年は特に。
それでももちろん、気持ちを抑えられなくて余計なことを言ったりしたりして失敗することもよくある。

私は基本的に臆病で、慎重で、積極的に人とかかわれないから、他人との関係を築くのにはとても時間がかかってしまう。
かかりすぎるが故、ほとんどなんの進展もないまま卒業や、引っ越し、退職などのタイミングで関係が途切れることが多い。
そんな中、彼女はライフステージが幾度と変わってもかかわりが続いている稀有な人。
ほかに友人らしい人もいないから、私が「友人が……」と語るとき、ほぼ9割が彼女のことだと言っても差し支えない。

けれど、彼女には私の他にも友人がいるだろうから。
「私でよければ話してね」と伝えたら、あとは相手に委ねるだけ。
私以外にも人間はいるし、人を頼るのは勇気がいるってこと、自分がよーく知っているから。

だから、それでも私に声をかけてくれたのが嬉しかったんだと思う。
頼ってもらえたからには、しっかり受け止めたい。
大切な人のためにつかう時間や力は、なにも惜しくない。

と言っても基本的にただ聞くだけみたいになっちゃうんだけど……。今回は最終的に、お互いの好きなところを伝え合ってくすぐったい感じになっちゃったし。
私に話すことで「心が落ち着いた」のなら、うれしい……って言っていいのか分からないけど、やっぱりうれしい。
そして、私もどうしても辛くなったときは、彼女に話そうと思った。

臆病な私は、いつも相手の出方を見てから反応してしまうところがある。自分からはなかなか、心を開けない。
でも、心を見せてくれた相手には自分も見せたいと思うし、頼ってくれたなら、自分も頼りたいと思う。
信頼してると言われたら、自分もそうありたいと思う。
信頼は、こんなふうにできていくのかな。


ところで、いつから彼女は私にとっての大切な人になったんだろう。何がきっかけだったんだろう。

彼女とは、専門学校で出会った。1年生のとき同じクラスだった。
1年5組は私と彼女を入れて5人の女の子から成るクラス。5人とも個性的で、それぞれ単独行動が好きで、なのにお昼休みとかになると自然と5人で集まっていて。とても不思議で、居心地のいいクラスだったと今でも思う。

私は彼女の作る曲や、歌声がとても好きで。
彼女もまた、私の曲が好きだと何度も伝えてくれた。

バイトがつらくて出勤前に吐きそうだと弱音をこぼしたら、彼女はイラストを添えた手紙をくれて。びっくりしたのを覚えている。こんなふうに心を寄せてくれる人がいるのかと。
彼女らしい言葉でつづられた手紙に、とても励まされた。今でもその手紙は大事にとってある。

ある日、私が学校の廊下にあるベンチで白いたい焼き(※)を食べようとしていたら、彼女が泣きながら階段を駆け降りてきて目が合った。
彼女は私を見るなり隣に座って俯いて。
「大丈夫?」とか「どうしたの?」とか、何か声をかけたのか、かけなかったのか覚えていないけれど、「たべる?」と白いたい焼きを1つ彼女に差し出したことは覚えている。
そのまま私たちは一緒に白いたい焼きを食べた。

数年後、彼女から聞いて知ったのだけど「たい焼きをまるまる1つくれるなんて!」と、彼女にとってはなかなかの大きな出来事としてあの時のことが残っているらしい。

専門学校卒業後、程なくして子どもを身籠った私は家族や職場の人以外には誰にも言えないまま出産するはずだったけれど、ひょんなことから彼女にだけ、話すに至って。
不安や孤独の中、現状を知ってくれている人がいるというのは大きな支えとなった。

出産後も、子ども含めて会ったり、遊びに行ったり、彼女のライブに行ったりと関係はつづいて10年以上が経つ。
去年は一緒にサカナクションのライブにも行って。
ライブが終わって別れ際、思いがけず夢を応援してもらって思わずハグしそうになったり(ご時世柄、踏みとどまったけれど)

いつからとか、決定的なきっかけとか、今となってははっきりしないけれど、長い時間をかけて彼女の存在はわたしの中で大きくなっていった。

彼女は、私がひどく落ち込んでいたり傷ついているとき、その理由を知っていてもあえて触れないようなところがある。彼女の意図はわからないけれど、それを心地良いと感じる。
でも、もし彼女が傷に触れようとしたり踏み込んだことを聞いてきたりしたとしても、私はきっと不快にならない。「ありがとう」って感じると思う。

人付き合いにおいて何が正解なのか、分からないことばかり。
声をかけた方がいいのか、見守った方がいいのかとか。
でも、たとえどんなアクションでも、その人がするならぜんぶ自分にとっての「正解」になってしまう。そういう人がいる。
彼女は私にとって「そういう人」なんだ。

彼女にとって私もそうであれたらいいなと思うけれど、私じゃなくても彼女に「そういう人」がいるならそれでいいかなとも思う。


出産して、私が音楽の道から少しずつ離れてしまったあとも、彼女はずっと「好き」を伝えてくれる。
今も私のことばや文章が好きだとまっすぐ伝えてくれる。
私も相変わらず彼女のことが好き。
彼女のものの見方や感性に触れるのも好き。
文字通りずっと「走り続けている」ところや、しっかりと自分を持っているところ、いろんなことに挑戦する姿を尊敬している。
どんどん羽ばたいていってほしいと願っている。


先日、友人はレキシのライブに行ってきたらしい。
めっちゃ楽しかった!と語る彼女の様子にうれしくなった。
彼女にうれしいことや楽しいことがあると、いつも自分のことのように嬉しい。
いつか、ひとちゃんともレキシのライブ行きたいな…… とも。そう思ってもらえるのが、またうれしくて。

私も行きたい!
レキシの曲はほとんど知らないけど、彼女が言うなら楽しいに違いないし。彼女となら、楽しいに違いないし。
またつらいこともたくさん訪れるだろうけれど。
いつか、一緒にレキシのライブで「光る稲穂」を振ろうね。たのしみ。


※白いたい焼き
白くてもちもちした皮のたい焼き。当時流行っていて、あちこちにお店がありました。
今でもセブンイレブンとか、コンビニで売っています。いまだに好きで食べます。


※タイトルは、amazarashiの『未来づくり』の一節〈信頼は こんな風に 当たり前に 出来ていくのかな〉を思い浮かべながら。
大好きな曲、いい曲なので、よければ。


「友人」と呼べる人は極端に少ないけれど、自分にとっての「大切な人」はたくさんいると思う。
たとえば、この曲を聴いて思い浮かべる人とか。
それはきっと、しあわせなことなんだな。

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