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「卵を産めない郭公」

僕は21歳で大学の何かに腰かけてハイライトを吸いながら本を読んでいた(吸っていたのはゴールデンバットかもしれない。どっちでもいい、どちらも安かったからだ)。
3時を回り、夕暮れの気配の中、秋の初めの風が頬をなでる。
知らない女の子が現れ、僕の読んでいた本を取り上げた。本を見て言う。
「ねえ、ヘミングウェイなんか今時どうかと思うよ」
見知らぬ女の子に読んでいた本を取り上げられて驚かない人はあまりいないと思う。僕はかすれた声で言い返す。
「確かにヘミングウェイは今の作家じゃないし、君の言わんとすることはわかるけど、いきなり人の本を奪って言う事なのかな」
「君の事は知ってるよ、経済数学の授業でまるで答えられない君の事」
彼女は僕の横に腰かける。カーキ色のチノパンによれた紺色のTシャツ、薄汚れたアディダスのスタンスミス。化粧っけはまるでない。
「ヘミングウェイがだめなら何だったらいいんだよ」僕はかなりむっとして言う。
「教えてあげない」
彼女は素敵な笑顔でむかつくことを言う。その時から僕はいろんなものを彼女に持って行かれてしまった。恋をしたとは少し違う。彼女の中に強い風が吹いていてその中に巻き込まれた。その強い風はうかつに近づくと何処かへ飛ばされてしまう。その感情が恋と言うのであればそうなのかもしれない。

3日ほどして学食で定食のトレイを持って歩いていると、僕を見た彼女がテーブルに一緒にいた3人の女の子を放って来た。
「あの子達のことは大丈夫なの?」
「だってさ、あのバッグがいいとかあのブランドがいいとか、私興味ないんだよね」
「何に興味があるの?」
「世界の終わり」
「なんだそれ」
「世界の終わりの淵に佇むって素敵よね」
確かに世界の終わりの淵にブランドのバッグとかは必要ない。

チェーン店の居酒屋で僕は聞いた。テーブルや床には訳の分からない染みがある。お洒落とは対極。周りの学生がやかましい。
「どこの出身なの」
「和歌山」
少し驚いた。なぜなら彼女の肌は透き通るように白い。
「北海道とか秋田とかだと思っていたよ」
「和歌山って良いところなんだけどあまりにのんびりしすぎているのよ、『あっという間』ってどれぐらいか考えたことある?」
「ないな」
彼女は身を乗り出して言う。皿に乗ったシシャモが彼女のTシャツについていたが黙っていた。「今考えてみて」
「2秒ぐらいかな」
「君ものんびりだね、どんな計測をしたのかわからないんだけど、東京とか大阪の大都市はあっという間が0.7~0.8秒ぐらい。どっちも下町になるとこれが0.5秒ぐらいになるの」彼女は自分のコップに手酌で瓶ビールを注ぐ。
「沖縄とかどうなのかな」
「いいところ突くね、沖縄は4秒」
「県民性が現れるね」
「そうそう。で、和歌山。どうだと思う?」
彼女が問題として出すぐらいだから随分な数字なのだろう。
「10秒ぐらいかな」
「正解は3か月」
僕はビールを緩く噴き出した。
「途方もないあっという間だね」
「そんな所なのよ。私早口でしょ」
彼女は相当な早口で、向き合って話をするとビールを飲むことを忘れる。頭の回転も速い。彼女があっという間3か月の和歌山と合うとは思えない。
「和歌山良いところなんだけど私とは合わないだけ。片側1車線の国道で一番前に軽トラが走っているの。60㎞規制を30㎞ぐらいで。誰も追い抜かないの。だから後ろに車がずらずら並んで走るの。大名行列みたいに」

誰もいない大学の教室で話す。彼女のミディアムショートの髪型はとても似合っている。かなりの確率で寝ぐせがついているけど、それを気にしているようには見えない。
彼女が言う。
「富士山の樹海ってどうかな」
「青木ヶ原のこと?」
「うん」
「どうかなって、なに?」
「樹海と言えば自殺じゃない」
「なに、自殺したいの?」
「正確に言うとね、自殺そのものじゃなくて、深い森の中で行き倒れること」
「行き倒れる」
「そう、行き倒れるの。で、だんだん意識がぼんやりしてきて、ああ、私このまま死んじゃうんだな、まあいいかな、あの人どうしているのかな、この人どうしているのかなって思いながら死んでいくの。その時に思い浮かべた人のことを薄れていく意識の中で、しっかりとハグするの」
「その中に僕は入るのかな」
「そうね、カメオ出演で出してあげる」
「かなりがっかりだけど、ありがとう」
彼女は僕の背中を優しく叩きながら言う。
「そうがっかりしないで、まだチャンスはあるから」
「自殺するのは1回だけだろ」
「未遂ってやつもあるじゃない、それはともかく『小説家を見つけたら』って映画、見たことある?」
「ある。わりといい映画だったよね」
「そうそう、ショーン・コネリーがやった役はあれ、サリンジャーよね」
「まあそうだよね、君、ライ麦畑でつかまえてのホールデン君に似てるよ」
「マジか、それって褒め言葉なのかな」
「むちゃくちゃ褒め言葉」
「そうなのか。ありがたく受け取るよ。で、映画の最後に弁護士が出てくるじゃない、おぼえてる?」
「あれ、マットデイモンだろ、カメオ出演の」
「そうそう、君がマットデイモンだったら私の最後の意識の中に出してあげる」
「なんだよそれ」
「それか、君が小説家になったら出してあげる」
「あのね、僕、日記さえ書いたことないんだよ」
「大丈夫だよ、何となくだけど」

後日、僕はジョンクラカウワーの「荒野へ」という本を読んだ。何の不自由もない裕福な家に生まれた青年が家を捨て、単身でアラスカの荒野に入り、最後は朽ち果てたバスの中で餓死するというノンフィクション。あまりにも寂しい青年の結末。その本のことは彼女に黙っていることにした。

僕と彼女がやった事は、秋の真夜中に歩くこと。彼女が深夜1時や2時に街を歩くと言う。今まで危ない事は起きなかったのかと聞くと、これからやるという。夜中に女の子が散歩するのはどうかと言うと、「じゃあ、君が何とかしてよ」と言う。彼女の部屋がある所は高級住宅街のはずれで、下手な下町より治安が良くない。高級住宅街は家庭の内情に問題を抱えている所が多い気がする。そんな家庭の子は色々と微妙だ。この近くで交通誘導のバイトをしたことがあり、また2駅離れた所に僕の部屋がある。何となくその雰囲気がわかる。一度決めたことはやめそうにない彼女を何とかするには僕も付き合うしかない。

終電の時間に彼女の最寄りの駅に約束。飲み会も友達の約束も何もかも断って駅のロータリーで待つ。しかし彼女は現れない。僕の携帯電話は止められていたし、彼女はそもそも携帯電話を持っていなかった。
縁石に腰かけて待つ。ハイライトは残り1本。彼女を待つのは慣れていたけど、終電後の駅前でこんなに長い時間過ごしたのは初めてだ。様々な酔っ払いが目の前を通り過ぎる。渋谷にいる酔っ払いに比べれば随分と大人しい。電車に乗る間に酔いを醒ますと同時にそれは社会性を取り戻し枠の中に収まって行くのかもしれない。そう考えると渋谷や新宿は社会性の枠から外れることが出来る場所なのかもしれない。
1時間ほどそんなことを考えていると彼女がやって来た。
「行こうよ」
彼女は僕にあまり謝らない。一度僕が中華丼を食べている時に最後に食べようとしていたうずらの卵を彼女が食べてしまった。あまりの落ち込み様に彼女は僕の肩に手をかけて「ごめんなさい」と謝った。

深夜の住宅街を歩くのは思ったより心弾む。金木犀の香りが流れ、昼間どこかで焚き火をした匂いがする。少し夜露が降り、昼間から随分と気温が下がった。夏は終わり、空気がしんとしている。
歩いている最中に彼女が口にするのは、目にする家の性的事情。
「あのアパートのあの部屋、今からやるよね」
「なんでそんな事分かるの」
「一人暮らしの女の子、カーテンが可愛らしいし」
「で?」
「なんとなくよ。世の中全部何となくで行けるんだから」
アパートの下にかなり古い軽自動車がやってきた。アパートのその部屋から女の子が飛び出して、車を運転してきた男の子を迎えた。
「ほらね」
「すごいね、何で分かったの」
「だからなんとなくよ。それにしても軽で良かった。つまんない高級車だったら火をつけるところだったな」
そんな事を言いながらあちこちの家の性的事情を彼女は解説する。
僕は言う。「これさ、村上春樹のノルウェイの森だよね」
「何それ」
「そんなシーンがあるんだよ」
正確には延々と歩く女の子と「いやらしい」事を言う女の子は違うのだけど。彼女は二番煎じか、とつぶやいた。
「でも二番煎じだろうと、まあ、どうでもいいな、あ、テニスコート」
暗闇に3面ほどのテニスコートが沈んでいる。彼女が言い出した。
「テニスやろうよ」
「今、夜だし、ラケットもボールもないよ」
「あったらやる?」
「普通、ないよ」
ラケット2本とボールはしっかりとベンチにあった。彼女は得意げにラケットを振り回す。
僕は高校の時テニス部だったので打ちやすい所にボールを送るが暗闇も相まって彼女はほとんど空振りした。時たまラケットにボールが当たると大はしゃぎする。それはとても素敵な時間だった。そしてその素敵な時間のおかげでパトカーがやってきた。僕らは慌てて闇に紛れる。
「証拠品、全て置いてきたね」嬉しそうに彼女は言う。
「あれを持ってきたら窃盗だよ」

森のような樹々が覆う神社。夜の神社は周囲より闇に溶け込み、でも何か見えない光を放っている気がする。
「ここは良くわからないけど、何かの秩序があるみたいだね」僕が言った。
「間違えてもここに熊とか放っちゃだめな気がする。さすがの私でも」
「熊?」
「そう、熊。近代的な秩序があふれかえっている場所に熊って一番効く気がする、猿でもカバでもキリンでもなくて」
「今の体制を壊すってこと?」
「いくら何でもアナーキーがいいなんて思っていないよ。無政府主義じゃないし。少し刺激を与えるだけでいいの、セックスピストルズみたいに」
「だから神社みたいなところは熊は放たないんだね」
「そうそう、インパクトでいいのよ。熊を放つ」
神社を抜け、僕らは自然に手をつないだ。熊は見かけなかった。
朝焼けが街を覆う少し前に僕たちは彼女の部屋に倒れこむように入り、そのまま昼まで眠り、起きた後は夕方まで抱き合った。

2週間後彼女は姿を消した。部屋は引き払われ、大学でも姿が見えない。
何日かして彼女から絵葉書が届いた。僕の知らない仏像の写真。その横にメッセージ。
「短い間だったけど楽しかった。ありがとう」
それだけ。消印はよく読めなかった。

***

ジョン・ニコルズ 「卵を産めない郭公」1965年。
村上春樹さんが2017年に翻訳。舞台は60年代のアメリカ東部の大学を舞台にしている。むせかえるような青春小説。
主人公の内気な男の子をプーキーというエキセントリックな女の子が振り回す。プーキーはとても魅力的。プーキーの様な女の子は幸せになるべきだ。

以下、プーキーと主人公男の子ジェリーの仲良しシーン。

「何か最後の言葉は?」
「死ぬ前に一度キスして」と彼女は唇を持ち上げた。
僕はひるんだ。
「やっぱり意気地なしのジェリーなのね。 何を恐れているわけ? 梅毒? 口蹄疫?それとも口臭?」
「そりゃ、君がすごい美人だったり、グラマーだったりしたら、キスもするだろ」と僕はしっぺ返しをした。
「でも朝鮮の孤児みたいな見かけの女の子に誰がキスするかな。 気の毒に思ってパンをあげるくらいのものだよ」
彼女は文字通りさっと後ろに身をのけぞらせた。もし僕が支えていなかったら、そのまま土堤から転落していったはずだ。
僕は力を込めて彼女を引っ張っていた。 「溺れてしまいたい!」と彼女は叫んだ。捨て鉢になっているふりをして。
「このろ くでなし! 私を死なせてちょうだい!」
「どうしても?」
「どうしても、どうしても、どうしても!」
両腕をぐるぐる勢いよく振り回して、彼女は僕のバランスを崩した。 そして地面にどすんと倒れた。(p130~131)

仲の良いお二人です。

解説で村上春樹さんと柴田元幸さんが対談されているところからの抜粋。

・1960年代前半が舞台。この時代は1965年以降のベトナム戦争が泥沼化す       る以前。長髪にしてマリファナ吸ってというカウンターカルチャーにはま     だ至っていない。
・お酒は飲んでも結婚するまではセックスはしない、クリーンなアイビース
   タイル。
・50年代の「ライ麦畑でつかまえて」の頃は若者文化というものが生まれた
   ばかりで大人の締め付けがきつい。自由を求めていてもどうしたらいいの 
   かわからない。
・この小説の舞台である60年から63年は政治性もなく、いわば無風状態であ
    った。


思うに青春小説とは、何かが欠落している若い人間が(何かどころでない場合が多い)、紆余曲折(紆余曲折どころでない場合も多々ある)する様がだらだら続く。だいたい青春真っ只中にいる連中がそんなに綺麗に起承転結なんてあるわけがない。だらだらと話が進んで行くのがリアルで、時々ぽこぽこと「なんか」あるので十分だ。

この際なので僕の好きな海外文学青春もの、幾つか紹介。

・「熊を放つ」ジョン・アーヴィング
男の子二人、バイク。ロードムービーの様なドライブ感のある出だし。アーヴィングの処女作という事もあり、途中冗長な部分もあるけど、青春小説と言うにはリリカルな気がする。
すごい好き。

・「荒野へ」ジョン・クラカウワー
上にも書いたけど、何の不自由もない裕福な家に生まれた青年が家を捨て、単身でアラスカの荒野に入り、最後は朽ち果てたバスの中で餓死する。あまりにも切ない。小説ではなく、ノンフィクション。それがまたつらい。
(というか、今回紹介している小説、全部せつなくてひりひりして…)

・「ライ麦畑でつかまえて」J.D.サリンジャー
言わずと知れた名作。いろいろな解釈もあるけど深読みしないでそのまま読むのが吉だと思う。野崎孝さんの訳もいいけど、やはり村上春樹さん訳が読みやすい。

大人の欺瞞、無神経、虚偽、虚飾、そんなものを拒否し、目先の未来も見ようとせず。
でもその中を潜り抜けてなんとか生き残って欲しい(年齢は関係なく)。最近noteというものを始めて、周りの方のnoteを読むとそんな危うい状況にあるような人が多い気がする。勝手に僕がそう解釈しているだけかもしれないけど。
欠落や喪失は人生に付き物だけど、闇に沈むのは寂しい(ここでそんな事を言ってもどうしようもないのだけど)。


***


彼女がいなくなってから3年後にハガキが来た。
「ブータンにいるんだけど、この間寒いって現地の人に言ったの。そしたらそばに立っている木に灯油ぶっかけて木ごと燃やすの。これであったかいだろって。そっちに熊は出てる?出てないのならちゃんと放ってね」

7年後の夏に来たハガキの裏面の写真に彼女と夫と思われる人物と2人の男の子。男の子は双子の様だ。
「あけましておめでとうございます」とだけ書いてあった。夏なのに。

ヘミングウェイの代わりの作家が誰なのか、まだ聞いていない。


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