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雨の中から


雨の中から水と一緒に引き出され、目覚めた。


部屋はゴミにまみれている。部屋の中央にいつ敷かれたかわからない布団。そこに横たわる。壁にはスーツの上下が3着。しばらく着ていない。
食料など最低限の必需品を買いに行く以外は部屋から出ていない。
外に出ると皆が自分を見る。それも「このサボりクソ野郎」と見る。そのような地獄絵図に出ていけない。なので真夏にサングラスとニット帽、そしてマスク。完全防備で挑む。負ける気がしない。なのにいつもより視線を集めるのはなぜだ。犬にまで吠えられる。無事、負ける。

人の声が頭に包丁の様に突き刺さる。音楽も。そして極めて恐ろしい音がある。玄関をノックする音。恐怖の大王。最後の砦であるゴミまみれのこの部屋。玄関のドアが陥落すると行き場がない。何よりこの部屋の状態を見られるのが恥ずかしい。
新聞、宗教の勧誘から布団を被って怯える。

新卒で入った販売管理システムの会社。営業の研修で動画を見る。
鍋蓋を抱えて売ってこいと言われた少年。簡単に売れると思いきや当然売れない。当たり前だ、鍋とのセットではなく、蓋だけ。途方に暮れる。するとそばに古い鍋蓋が捨ててある。彼は「これはまだ使えるんじゃないか」と、その鍋蓋を磨きはじめる。
通りかかったおばちゃんが、「坊なにをしているのか」と尋ねる。
「鍋蓋を売っているのですが、全然売れません。見たらここに鍋蓋が捨ててあって、これを売った人もえらく苦労したのだろうと思ったら、鍋蓋が愛しく思えて」。
おばちゃんが「よし、あんたの鍋蓋、ひとつ買うたるわ」と、そこではじめて鍋蓋が売れる。
(鍋蓋のサイズ、あってるんか?)
数分後、集落全体の主婦がゾロゾロ来て、口々に何か言いながら鍋蓋を手に取り、「坊。このなべぶた、売ってくれ」と大騒ぎになり、「てんびん」に担いでいたなべぶたは、すべて売れてしまう。
(最初のおばちゃんは何者なんだ、酋長か?)
(集落からぞろぞろ来たおばちゃん達は洗脳でもされているのか)
(集落主婦の鍋蓋のサイズ、ワンサイズなのか?違うと思うぞ)
(合わない鍋蓋、この後どうするのだろう)
動画が終わり、社長が涙ながらに言う。人はな、こうやって商人になるんだ。わかるか。
挙手をする。
「先方の鍋蓋のサイズを確認せず、また在庫の鍋蓋サイズを把握せずに販売するのはクレームを生むだけでなく企業のロイヤリティの低下、さらには業界全体の信頼性を損なうものと考えます。サポートはどうするのでしょうか」

少しずつ 身体がおかしくなる。
身体がどうしても動かず営業に出れない。会社のトイレに閉じこもる。便座に座ることが出来ずに個室の床に横たわる。このままではいけない。このままサボっているのは良くない。
「ぐにあぬ はぁああぁ」
叫ばなければ死ぬという仮定を立てて吠えた。驚いたのは小を足していた社長だ。辺りにまき散らし、社長はズボンとパンツを替えにどこかに行った。
2年で会社に行けなくなり、辞めた。

夕方まで体が動かない。重い。体に戦国時代に出てくる武士の甲冑がつけられているようだ。部屋の何箇所かにいつ汲まれたか分からない水の入ったコップがある。水が飲みたくてコップに水を入れるのだが、いざ飲もうとすると飲む気が失せる。コップを洗い戻す気にもなれずそのまま放置する。
水が腐る。
夕方になると甲冑が足軽程度になる。しかし額にホースが装着され、砂が流し込まれる。爪まで到達する。指さえ動かすのがつらい。横たわる。夜に起きる時間が長くなり、昼夜逆転となる。寝ている時間が長いが眠りは浅い。眠れぬ夜を迎える。

仕事をやめてからは無収入。電気は3回、水道は1回止められた。水道は止められても蛇口から糸のような水が落ちる。それをコップに貯めて使った。

仲の良い友達がいる。むじんくん。
銀行のATMコーナーに似たブースに彼はいる。
むじんくんは無尽だ。むじんくんが出してくれた金で買い出しに行く。水道が生きているのであればシャワーを浴びる。シャワーを浴びると甲冑の重さもホースの砂もかなり減る。昔大量に買い込んだ石鹸がある。パッケージの牛がゴミしかない部屋で優しく光輝いている。
体を拭くタオルが底を尽きていた。今まで着ていたTシャツで拭く。

アパートの階段を降りる脚がおぼつかない。人通りは少ない。暑い夏の夕暮れ。五分ほど歩くと商店街に出る。近づくにつれ人も多くなり、全員が自分を見る。体は冷たい汗で覆われる。商店街までたどり着かなかった。
部屋に戻る。シャワーを浴びた時の気持ちは雲散霧消している。
何か食べるものはないか。
以前買ったドッグフードがある。カリカリのものだ。安価なカリカリのドッグフード。臭いは控えめ。金額が上がるほどに獣臭がする。安いほうが良い。多少空腹感は収まる。6畳の部屋で一人つぶやく。
わん。

時折実家の母から連絡が来る。

ちゃんとご飯食べているのか
元気なのか
仕事は上手くいっているのか
元気ならそれでいい
たまには帰って来い

幼い頃に両親が離婚し、母が自分を一人で育てた。今この様な状況であることを母に伝えるわけにはいかない。適当な事を言いその場を逃れる。

毎日ドッグフードは厳しいので、鉄の塊を括りつけたような体で商店街に向かう。
輸入食料品店のパスタが目当てだ。米やパンに比べるとパスタは安い。1㎏200円以内で買える。入り口でコーヒーの試飲をさせている。人の多さに冷たい汗をかきながらその列にうつむいて並ぶ。小さな紙コップに注がれた久しぶりのコーヒー。両手で抱えて少しずつ飲む。狭い店内に所狭しと商品が詰め込まれている。魅力的な商品に目を伏せながらパスタの場所に行く。
輸入品の缶コーラに足を引っ掛ける。床に落ちた缶コーラから中身が吹き出る。近くの人にかかり、コーラの水たまりが出来る。
「すみ、すみません、すみません、すみ、すみま」
周りの客の足元にコーラが掛かる。店員が自分を突き飛ばし他の客に大きな声で謝る。大変申し訳ございません、大変申し訳ございません。
顔を伏せて狼狽し、そのまま店を出る。

雨の日は体が少し動く。
晴れていると自分の怠惰が強い光に照らされてしまう。
強い雨が降る中、昼前に山の様な洗濯物を抱えてコインランドリーに行く。
洗濯機と乾燥機が一緒になっている様な新しいものではない。古い洗濯機と乾燥機が4台ずつ。照明はいつ行っても半分は消えている。コンクリートの床は洗濯機から漏れた水で至る所が濡れている。洗濯物を放り込み小さな丸い椅子に座る。本を持って来て良かった。雨が強い。気持ちが楽になる。久しぶりに集中し本が読める。

「こんにちは」
驚いて顔をあげる。本に集中して気が付かなかった。
目の前にずぶ濡れの女性が立っている。
胸に小さなフランス語か何かのロゴが入った紺のTシャツ、グレーのチノパン、ニューバランスのスニーカー。全てが濡れている。プールから上がったばかりの様だ。
「隣に座ってもよろしいでしょうか」と言い、座る。コインランドリーには他にも椅子はある。なのに隣。彼女が歩く度にスニーカが水でぶきゃぶきゃと音を立てる。20代前半だろうか。ショートカットの髪からも水が流れる。その姿、どこかで見た事があるかもしれないが思い出せない。
瞬時に勃起していた。完璧な勃起。しかし、瞬時にして萎えた。
彼女は何も喋らない。横に座っているだけだ。彼女から滴り落ちる水が尽きない。その量は増している気がする。
ニ十分はそうして居ただろうか。洗濯機はとっくに止まっている。彼女から流れる水は尽きない。

「これを預かってください」
彼女は小さな木のような観葉植物を差し出した。
両手に収まる白い鉢に植わる。
「一日一度、朝に一滴水を与えて下さい。そして土が乾燥しきったらたくさんの水をあげてください。鉢から流れ落ちるくらいの水」
そう言うと彼女はコインランドリーから出て行った。

観葉植物を部屋のデスクの上に置く。デスクは本とゴミに埋もれていたが、小さな観葉植物の為にあらかた整理した。
彼女は朝に一滴と言った。朝とは何時なのだろうか。七時ぐらいだろうか。今の生活を考えると厳しい時間だ。部屋のどこかにある目覚まし時計を探す。
何とか七時に起きて観葉植物に一滴の水をやる。土が完全に乾燥したら溢れる程の水を。

彼女のことが気になる。コインランドリーに行く事は生活の中の習慣化された行為だ。彼女と会ったのは昼前。その時間帯にコインランドリーに行けば彼女と会えるかもしれない。昼前にコインランドリーに足が向く。

毎日七時前に起き、一滴の水をやり、昼前にコインランドリーに行く。
朝起きることで午後に動ける時間ができるようになる。部屋を見渡すと幾つかのコップに訳の分からない濁った水が入ったまま放置されている。それらを片づける。毎日コインランドリーに行くのであれば洗濯してもいいはずだ。ありとあらゆる布を洗濯する事にする。シーツと布団カバー、枕カバーも洗濯する。乾燥機を使うほど贅沢は出来ないので小さなベランダで干す。脱水が甘い洗濯機なのか水が滴り落ちる。洗濯したシーツを何時から敷きっぱなしにしたか分からない布団に掛けたくない。布団を干す。
流石にここまでやると疲労困憊なのでそのまま寝る。洗濯したシーツ、干した布団。

精魂使い果たしたが、洗濯した物とゴミまみれの部屋のコントラストが気になる。明日やることにしよう。

何日か立ち上がれない日もある。体に甲冑がまとわりつき、額から砂が注入される、指を動かすのが至難。その状態でも朝、観葉植物に水をやり昼前にコインランドリーに行く。
コインランドリーから帰ると布団に潜り込む。
コインランドリーであった彼女とは会えない。

少し部屋が片付いた。土が乾燥していたので水をたっぷりとやる。喉が渇いていたので、水を飲む。
その植物から何か言われた気がした。良く聞こえない。
植物を床に置き、胡坐をかき、三十分ほど向き合う。

「あなたの好きなものはなに」

居酒屋で友人たちと他愛もない話をしたり。
夏の公園で昼から友人とビールを飲んだり。
雪山にスノーボードやスキーに行ったり。
朝焼けを見に友人と海まで車を走らせ、心行くまで眺めていたり。
都心の本屋を一日中はしごしたり。
REM、オアシス、シェリルクロウ、ローリングストーンズなどの少し古いロックのプレイリストを作ったり。
一人適当な電車に乗り、車中で一日本を読んだり。
一人山に行き、満天の星空をみたり。
一人20㎞ほど歩いて、様々な考え事をしたり。
彼女との暖かなキス。

この会社に入った時からしていない。
夏が通り過ぎていく。

台風が来る。
勢力を保ったまま上陸する。雨風ともに強い。昼頃に一番近づくらしい。
八時ごろから風と雨の塊が街を蹂躙し始める。窓を揺るがす風。窓から外が見えないほどの雨。
毎日の習慣であるので、昼前にコインランドリーに行く。瞬時にビニール傘が飛ばされる。街路樹の葉がはためき、雨が暴風に流され下から吹き上げる。Tシャツ、短パン、サンダルがぬるい雨に浸される。
辿り着いたコインランドリーには誰もいない。丸椅子に座りしばらく彼女を待つ。自分の体から滴り落ちるものを見る。乾いたコンクリートの床に自分から流れた水を見る。

この辺りで一番水があるところに行こう。水に包まれたい。見るだけでもかまわない。
川に行こう。歩いてニ十分ほどに一級河川がある。
川に行こう。川に行こう。

コインランドリーを出る。小さな看板を風と雨が押しのける。雨はさらに勢いを増す。目を細めて歩く。住宅街を抜け、木々豊かな大学の横を通る。風の轟音が響く。樹木が大きくしなる。ビニール袋が空高く吹き上げられ、そして路面に叩きつけられる。飛ばされそうなので細い道を選んで通る。家の間の細い路地を見つけた。さらに家の塀と塀の間を体を横にして潜り抜ける。狭い隙間を延々と潜り抜ける。道を勢いよく水が流れる。
街は誰もいない。雨が全て流してしまった。
時折建物の風切り音が甲高く響き渡る。途中小さな川を渡る。溢れんばかりの水量。激しい雨が体を叩く。

辿り着いた川の堤防を四つん這いで登る。登り終えた瞬間に質量を持った突風に吹き飛ばされる。土手を転げまわり転げ落ちる。サンダルが脱げ、どこかへ行った。
もう一度土手を登る。一番上の舗装された道路のアスファルトが素足に心地よい。雨の勢いは変わらない。川の水量が増している。河川敷は浸かっているが氾濫というほどではない。
体をかがめ暴風と叩きつける様な雨に向かう。

一瞬風が僅かに弱まる。
Tシャツを脱ぐ。ぬるい雨が直接体を叩く。次の瞬間手に持ったTシャツが吹き飛ばされる。短パンを脱ぐ。パンツを脱ぐ。裸で暴風雨に相対する。全身をくまなく大きな雨粒が流れゆく。足をしっかりと地面につける。両手を上げた。
咆哮した。
両手をあげ全裸で体の奥底からの咆哮。

その時、風がやみ雨がやみ日が差した。もう一度咆哮した。光があらゆるものを照らす。全裸を暖かい光が包んだ。
俺は今日生まれた。

部屋を引き払い実家へ帰る。ついでに精神科に受診する。動けるぐらい体が楽になる。
恐怖の大王はもう来ない。

母が言う。
なんだか痩せたし顔色悪いからしばらく家でうだうだしていなさい。

二階の部屋の押入れを漁っていたら見たことがない古いアルバムが出てくる。母の生まれた時からの写真。生まれて間もない頃の写真。穏やかな笑顔の祖父と祖母に囲まれている。保育園、小中高校。そして20代の頃の写真。
20代の母はショートカットだ。そして1枚の写真に目が留まる。agnes b.と胸に小さくプリントされた紺のTシャツとグレーのチノパン。何人かでどこかの川の堤防に座り談笑しているスナップ。

一階に降りる。庭に小ぶりの木がある。今まで気にしたことがなかった。
「これ、何の木?」
「ああ、これね、ユーカリ。若い頃に色々上手くいかない事がたくさんあってね。落ち込んでいたのよ。雨の中公園のベンチでぼーっとしていたらね、目の前に男の人が現れて、『これ預かってください』ってちっこい木みたいなもの持って言うのよ。毎日朝に1滴の水と乾いたら溢れんばかりの水やれって。後で調べたらユーカリに朝一滴の水なんて必要ないのよ。でも一生懸命朝起きて。それがこの木。今考えるとさ、その男の人、あんたのおじいちゃんとしか思えないんだよね。すっごく若くてVANとか書かれたジャケット着てたんだよね」
母は続ける。
「ユーカリって新生とか再生って意味なんだって。あ、サンドイッチ作ったから食べよ」
母はコーヒーとサンドイッチをテーブルに置く。
「それからさ、これ、あんたじゃないの?この動画」
スマートフォンを差し出す。YOUTUBEにアップされている動画。
「台風全裸男現る」
その全裸男は大雨の中、手にパンツを持ちそれをグルグルと振り回して何か吠えている。
「これさ、あちこちにアップされているのよ。違う?」









画像引用元 フォトライブラリー


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