八神あき

中卒社会人。高校は入ったけど人間関係しんどくて退学。  働きたくないと思いながら毎日働…

八神あき

中卒社会人。高校は入ったけど人間関係しんどくて退学。  働きたくないと思いながら毎日働いてます。いまだに作家になりたい。 小説家になろうでもたまに書いてます。 https://mypage.syosetu.com/1690305/

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  • 中国の歴史

    中国の歴史に関わる記事まとめです。古典、地理などもあります。

最近の記事

史記5 漢

 秦王政、のちの始皇帝。  荘襄王の子として即位したが、その出生は怪しい。荘襄王に仕えた呂不韋の子と言われている。  戦国時代末期、中国には七つの国があった。紀元前221年、秦は六国を攻め滅ぼして天下を統一。紀元前770年に周が東遷して以来、五百年ぶりに中国はひとつになった。  天下は定まったが、それは祝福されたものではなかった。人民の苦難は続き、六国の遺臣たちは秦への恨みを忘れなかった。  始皇帝が死ぬと反乱が頻発。反乱軍は個々別々に蜂起したが、集まって大きな集団となり

    • 史記4 春秋戦国時代

       紀元前685年から465年までの二百年間に、五人の覇者が現れては消えていった。  春秋五覇。斉の桓公、晋の文公、楚の荘王、呉王闔閭、越王句践の五人である。  五覇のうち、前の二人は中原だが、あとの三人は中原の外の世界である。黄河文明は長江流域の文明と融合し、中国は広がった。  荘王の時代からしばし後、楚では重鎮の伍奢が失脚した。王は伍奢の処刑を命じる。伍奢の息子二人も出頭を命じられたが、弟の伍子胥は逃げ出すことに成功。呉へ逃れ、軍事顧問となる。このとき、呉には孫子の兵法

      • 史記3 殷周

         戦国時代は学問が発達した時代でもある。儒家はもちろん、老荘、墨子など様々な学者が派閥があった。  墨子は平和を説いた人物だ。彼にとって平和とはラブ&ピース的なものではなく、がちがちの防壁を作って敵の侵攻意思をくじくという、現実的な思考だった。  墨子の一派は攻撃を受けた国に行っては防壁造りに従事した。彼等がインフラの英雄・禹をあがめるのは自然の勢いだったろう。  夏王朝の創始者を崇めることで、墨子には権威がついた。当然、他の学派も真似をする。儒者は禹より古い時代の尭舜に

        • 史記2 五帝~殷

           黄帝、顓頊、帝嚳、尭、舜は五帝と称される。舜の後継者である禹から夏王朝がはじまる。  ニコロ・マキャベリは、君主には二つの資質が必要だと説いた。ライオンの気質とキツネの資質である。黄帝はライオンの気質を多く持った君主であり、顓頊はキツネ型の君主だ。  ライオン型の初代、キツネ型の二代目というパターンは歴史上よく見られるパターンだ。ライオンはその武威によって古いものを破壊し、新しいものを作る。キツネはライオンの創ったものを受け継ぎ、定着させる。  存在感の薄い帝嚳を挟み

        史記5 漢

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        • 中国の歴史
          27本

        記事

          史記1 黄帝

           史記は全八巻。一巻には皇帝から武帝までの歴史が記されている。今回は本紀を読みながら、頭に浮かんだことを徒然なるままに書いていく。  黄帝、姓は公孫、名は軒轅。神農氏に仕える。  時の皇位は神農氏の手にあったが、手綱が緩み、反乱が頻発。 軒轅は将軍として、反乱の鎮圧にあたった。炎帝の子孫をうち、蚩尤をうったあと、民衆に望まれて自ら帝位についた。  黄帝は武将あがりの人間、尚武の政策を行うのが自然だ。  しかし、そうはしなかった。  黄帝は帝位についたのち、諸侯を平らげると

          史記1 黄帝

          戦術の本質 4(最終回)

          1ー1 現代の戦闘指導  今回は“射撃と機動”と“諸方面からの攻撃”の二つを取り上げる。この二つは現代の軍隊で重視されているものだ。 1-2 火力と機動  “火力と機動”は戦闘行動すべてに通ずる基礎だ。火力は文字通り撃つこと。機動は有利な場所へ移動すること。二つの分隊で連携する時は、片方の分隊が射撃して敵を拘束し、もう片方の分隊が接近・迂回・離脱などを行う。片方が撃ち、もう片方が動くことを繰り返して有利を拡大して、最終的な目標(敵の射殺、駆逐、撤退など)を達成する。米軍には

          戦術の本質 4(最終回)

          戦術の本質 3

          1、ドイツ軍  近世、科学が信仰との棲み分けに成功し、政教分離・中央集権型の近代国家が誕生した。中央集権国家は容易に大軍を編成できた。このことが総力戦を生む下地となる。  総力戦とは読んで字のごとく、国力のすべてを費やして行われる戦争だ。ナポレオン戦争と二度の世界大戦がそれにあたる。  第一次世界大戦は戦争のあり方を変えた。一丁の機関銃は歩兵の横隊を皆殺しにできた。兵士は塹壕に隠れ、戦線は膠着。膠着を打破するため、イギリス軍は戦車を開発した。その真価が発揮される前に、ドイツは

          戦術の本質 3

          戦術の本質 2

          1,今回の記事  ここからはより詳しく戦史を調べ、時代によって変わるものと変わらないものを浮き彫りにする。 2 戦術の変遷 2-1 第一次ペルシア戦役  紀元前491年、ペルシアはギリシア遠征を決行、ペルシア戦役が勃発。遠征軍は二万五千。二人の指揮官、アルタフェルネスとダティスに率いられ、海路ギリシアへ向かった。途中でナクソス島を占領。次にエウボエア半島に上陸した。(地図1)  エウボエア半島からは二手に分かれた。アルタフェルネスが騎兵含む一万を率いてエウボエア半島の確保

          戦術の本質 2

          戦術の本質 1

          1,戦術の本質  時代によって戦い方は変化するが、本質は変わらない。今回は古今の戦いを比較し、戦争の本質に迫る。 2、マラトンの会戦  戦術の誕生は紀元前490年に行われたマラトンの会戦だ。干戈を交えたのは一万人のアテネ軍(古代ギリシアの国家)と、一万五千のペルシア軍。 アテネ軍の司令官ミリティアデスは戦力差を覆すための策を練った。中央の兵を横に薄く伸ばし、両翼に多くの兵士を配した。これで正面幅はペルシア軍と同じか、それより長くなる。中央の兵士が敵軍を足止めしているうちに左

          戦術の本質 1

          委任戦術 電撃戦を支えた指揮方法

          1,前書き  委任戦術は第二次大戦時にドイツ軍が採用していた指揮方法である。  戦争では戦車や航空戦力など、目に見えやすい要素が取り上げられがちだ。しかし指揮手順という、目に見えない要素も勝敗を語るうえで重要となる。  今回は委任戦術を例とし、非物質的な要素の重要性について語る。 2、電撃戦の概要  委任戦術について書く前に、その戦術が活用された戦いの概要を説明する。  第二次世界大戦において、ドイツ軍はヨーロッパ最強の陸軍を持つフランスを六週間で崩壊させた。ドイツ

          委任戦術 電撃戦を支えた指揮方法

          「中国共産党、その百年」を読んで 下

           鄧小平は復職後、党の全体会議で自身の政策「改革開放」を認めさせる。華国鋒は毛沢東の言葉を持ち出して反対したが、あえなく敗れた。    改革開放政策では市場経済を部分的に導入。文化的鎖国もやめ、海外の文化が入ってくる。他国の思想に触れたたことで、人々は政治について議論するようになる。  鄧は民主主義の広まりを恐れた。「改革開放」は一党独裁の変更ではないことを強調するため、四つの基本原則を打ち出す。   ・社会主義への道 ・人民民主主義独裁 ・中国共産党の指導 ・マルクス・レー

          「中国共産党、その百年」を読んで 下

          「中国共産党、その百年」を読んで 中

           1921年、陳独秀らが第一回党大会を開催。共産党が結党される。  大会に出席したのは十三人。参加者の内訳は諸説あるが、本書では毛沢東も参加したという立場をとる。  党大会はコミンテルン主導のもと行われた。    コミンテルン、正式名称は共産主義インターナショナル。国際的な共産主義の組織である。  といっても親玉はソ連で、他国の共産党はすべてコミンテルンの支部としてソ連のコントロール下に置かれた。中国では第一回党大会の少し前に、「共産党」を名乗る団体が現れるも、これはコミンテ

          「中国共産党、その百年」を読んで 中

          「中国共産党、その百年」を読んで 上

           この本の作者は毛沢東に好意的だ。  本書を読んでいる間、常に比較対象にしていた本がある。「真説 毛沢東」著者はユン・チアン。文革時代の当事者であり、祖母と母は貧困時代を経験している。彼女の描く毛沢東はどこまでも悪辣な暴君だ。  対して本書では、毛沢東を英雄視する。このギャップは印象深い。  今回は二部構成で記事を書く。前半では「真説」と比較し、毛沢東の書き方の違いを浮き彫りにする。後半では時系列に従い、今回新たに得た知識をもとにこの時代を書く。  毛沢東の扱いの違いだが

          「中国共産党、その百年」を読んで 上

          中華人民共和国の歴史 下

           毛沢東は国内の情報を一切漏らさないようにしていた。外交官が来ても作り上げた理想郷だけを見せていた。  毛沢東の演技は世界中を騙し、日中戦争でゲリラ戦を指導した天才的軍事指導者としての名声を高めた。実際には勝利を得たのは一部の部下たちであり、毛が仕切った作戦はことごとく失敗したが、歴史書には反対のことが書かれた。  毛沢東はアメリカと関係を持つことに成功。ニクソン大統領を招く。  実はこのとき、国際的には中国の代表は共産党ではなく国民党だった。第二次大戦中に連合へ加わった国

          中華人民共和国の歴史 下

          中華人民共和国の歴史 上

           中華人民共和国は中国共産党の国だ。中国共産党が建て、中国共産党が支配する。一党独裁の起源は孫文にある。  孫文は清朝末期の革命家だ。彼は清朝を覆すための反乱を繰り返し、共鳴者を増やしていった。そして複数の反乱勢力が清朝を滅びした後、臨時大統領に選ばれる。  孫文の革命理論では、清朝が滅びたあとの政治体制は、軍政、訓政、憲政と移行するものとされた。このうち訓政は国民党が政治を主導する時期とされ、国民党が国家を支配する党国体制がとられた。  孫文の意思通り、清朝が滅んだあとに

          中華人民共和国の歴史 上

          中華人民共和国前史 後半

           前回の記事で梁啓超を紹介したが、最も有名な革命家といえば孫文だろう。  孫文は思想・政策を西洋に学ぶべきという点では梁啓超と同じだが、清王朝を滅ぼし共和国を成立させようとしていたことが違った。  孫文は幾度となく革命を試みるも、そのたびに失敗していた。  何度目かの失敗のあと、孫文は新軍に目をつけた。新軍は西洋式の訓練を施された清朝の軍隊だ。日本への留学経験もあり、革命思想を受け入れる下地があった。 1911年 新軍内に味方を作ったことでようやく大規模な蜂起が起こる。辛

          中華人民共和国前史 後半