史記5 漢

 秦王政、のちの始皇帝。
 荘襄王の子として即位したが、その出生は怪しい。荘襄王に仕えた呂不韋の子と言われている。

 戦国時代末期、中国には七つの国があった。紀元前221年、秦は六国を攻め滅ぼして天下を統一。紀元前770年に周が東遷して以来、五百年ぶりに中国はひとつになった。
 天下は定まったが、それは祝福されたものではなかった。人民の苦難は続き、六国の遺臣たちは秦への恨みを忘れなかった。

 始皇帝が死ぬと反乱が頻発。反乱軍は個々別々に蜂起したが、集まって大きな集団となり、項羽がリーダーになった。楚の将軍の家系である。
 項羽の部下、劉邦は秦の都を無血開城する。劉邦自身はなんの背景もない人間だが、優秀な参謀がいた。張良、韓の宰相を務めた一族の人間だ。

 劉邦は手に入れた都を項羽に譲る。項羽は都を焼き、故郷の楚へ帰った。
漢王となった劉邦は時間をかけて力をつけ、項羽を破って皇帝に即位する。

 項羽と劉邦は対照的な人物だ。二人の言葉をそれぞれ乗せる。

項羽、敗北を悟った時の詩
 力は山を抜き 気は世を覆うも
 時に利あらず 騅(項羽の愛馬)ゆかず
 騅の行かずをいかんせん
 虞(項羽の愛人)や虞や、汝をいかんせん

劉邦、戦争が終わったあとの言葉。
「私は知恵では張良に及ばず、軍事では蕭何や韓信に及ばない。だが私はこの三人をうまく使うことができる。項羽はたった一人の范増さえ用いることができなかった」

 劉邦は部下に恵まれていた。建国後、その部下たちは殺される。

 劉邦の妻、呂后は強烈な人物だった。権力欲が強く、皇后の時代から政治に口だししていた。彼女の進言により、建国の功臣が次々と処刑される。
皇太后となると、呂氏一族の権力はますます栄えた。恵帝は母親の傀儡にすぎなかった。

 呂后が死ぬと、ようやく漢は劉氏の手に戻る。
 
 三代目の文帝は内政に力を尽くした。司馬遷は文帝の時代にはじめて天下は定まったとしている。
 景帝の時代、呉楚七国の乱が起こる。各地に封じられた王たちの起こした反乱だが、無事に平定され、武帝の時代となる。
 
 武帝は封禅を行った。これは天子の中でもとりわけ徳と功の高い者にのみ資格がある。前回行った人物は始皇帝だ。劉邦でさえ行わなかった儀式を、武帝は行った。
 
 武帝は儒教を重んじた。このことで、漢では儒教が奨励されることとなる。
 
 漢は中国文明の源流だ。儒教を重んじるのもそのひとつ。史記は中国のはじまりから、ひとつの文明が完成されるまでの歴史を描いた書である。

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