中華人民共和国の歴史 下

 毛沢東は国内の情報を一切漏らさないようにしていた。外交官が来ても作り上げた理想郷だけを見せていた。
 毛沢東の演技は世界中を騙し、日中戦争でゲリラ戦を指導した天才的軍事指導者としての名声を高めた。実際には勝利を得たのは一部の部下たちであり、毛が仕切った作戦はことごとく失敗したが、歴史書には反対のことが書かれた。

 毛沢東はアメリカと関係を持つことに成功。ニクソン大統領を招く。
 実はこのとき、国際的には中国の代表は共産党ではなく国民党だった。第二次大戦中に連合へ加わった国民党は共産党に敗れたあと台湾に逃れていたが、国際的な地位は保ったままだった。
 しかし、ニクソンの訪中によってその地位は中国共産党へと移る。かくして、共産党は国際社会でも正式な立場を得た。それも常任理事国という強力な立場だ。
 ニクソンの訪中は1972年のこと。この年、日本とも国交を回復している。

 ニクソン訪中の四年後、毛沢東は自宅にて死去。82歳だった。

 毛沢東は後継者に華国鋒を指名する。
 しかし絶対的な独裁者が死ぬと、すぐに反対者たちが息を吹き返した。その筆頭が鄧小平だ。
 鄧小平は華国鋒に勝利し、党の実権を握る。二代目のリーダーである鄧小平は「改革開放」を掲げ、共産主義国でありながら部分的に市場経済を取り込んだ。また、土地の売買も可能になる。それまでは土地はすべて国のものとされており、売買はできなかった。
 所得が上がり、土地の売買も解禁されたことで中国ではマイホームブームが起こる。

 鄧小平は毛沢東と違い、有能な人物だったが、独裁者であることに変わりはなかった。
 民主化運動が起こるとこれを弾圧。民主主義こそ唯一絶対の正義であると妄信する一神教的価値観を持つ欧米の国々は失望した。
 しかし一千万人単位で餓死者が出る時代は終わり、中国が発展への軌道に乗ったことは確かだった。

 三代目の指導者である江沢民は鄧小平の路線を受け継ぐ。共産党にとっての敵であるブルジョワジー層を党に取り込み、さらに三つのエリート(政治エリート、経済エリート、知的エリート)も取り込むことで党の強化を図る。
 さらに重要なのは西部大開発だ。

 中国は東側の海岸地帯は著しく発展しているが、西側の農村部はそれに取り残されていた。国内に先進国的な地域と、発展途上国的な地域があったのだ。
 西部大開発は、西部に対するテコ入れだった。インフラが敷かれ、経済格差も多少は縮まる。しかし今でも貧富の差は解消されておらず、中国はこの問題を抱え続けている。

 四代目の指導者、胡錦涛の時代にはオリンピックと万博が開かれる。これにより中国のイメージは一新され、一党独裁への批判も下火になった。
 2009年、リーマンショックが起こると資本主義世界は混乱に陥る。その中で中国は順調に発展を続ける。これもまた、世界が中国を見直す要因となった。
 2012年に習近平が国家主席に就任。今ではアメリカに次ぐ世界第二位の国として、アジアに君臨する存在となっている。


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