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小説「わたなべなつのおにたいじ」  気合の入った方用【一気読みVer.】

あらすじ

 「渡辺那津」は、平安高校に通う高校2年の女子高生。
 大好きな先輩、「大江田統司」を追って入学したまでは良かったが、体力は人並み以上でも頭脳はお世辞にも良いとは言えず、どちらかと言えばパッとしない高校生活を送っていた。
 ある日、学校で居残り課題を課された那津は、幼馴染である「安倍清明」とともに、昔装束の男の子と鬼の面を被った男と出会う。
 それを機に、退屈だった高校生活は一変し、人生を変えるほどの変事に巻き込まれることになる。
 自分が渡辺綱の末裔で、男の子は刀に変わる「刀の精・鬼丸」。その鬼丸を手に、鬼の首領である「朱点」を倒すのが宿命である、ということに気付いた那津は、清明と同じ、幼馴染のイケメン天才音楽家、「大胡博正」、母の教え子である二人の大学院生「湯浅由乃」「上椙千英」らの助けを借りて、鬼との戦いに身を投じていく。
 すでに学校では、鬼によるものと思われる失踪事件が起こっていた。那津は、仲間と共に事件解決へ向けて動き出すのであった。

※ 132,510文字 読了目安3~6時間くらいかと思います。
  よろしくお願いします!


木曜日(1日目)

「んわぁっ!」

 また『あの夢』だ。私は襲ってくるカギヅメの生えた大きな手から身を避けようとして、ベッドから落ち、目が覚めた。

 『あの夢』を見始めて、どれくらいになるだろう?

 いつも同じ、真っ黒の地面の土手に真っ赤な空。その空を背景に、葉のない針金のように細い木何本か、影を落としている。

 遠くの方に、小さい男の子の姿が見える。男の子は手振りを交えて、一生懸命にこちらに何かを叫んでいるようだが、その声は私には届かない。近付こうとしてどんなに走っても、男の子との距離は縮まらない。

 そして唐突に、ボロボロの着物をまとった大男が目の前に現れる。

 男の姿は影になっていて、こちらからは炯々と光る大きな赤い目と、手に生えた銀色に光る鋭いカギヅメしか見ることができない。

 ふいに、大男の手がこちらに伸びてくる。その手は眼前を覆い尽くすほど大きくなり、私の身体を鷲掴みにしようとする。

 私はそれを必死に避けようとして、土手から転がり落ちたところで目が覚める。

 「夢は現実の経験を脳が整理している時に見るもの」

 と、誰かが言っていたが、あんな怖い経験などしたことがない。似たような「誰かに襲われる」などという事件に巻き込まれた記憶もない。それに、夢に出てくる男の子にも、あの大男のことも、まったく心当たりがない。何かの暗示なのかも知れない、と夢占いのサイトを調べてみたりもしたが、こんな恐ろしい夢はどこにも記載がない。

 なので、もう気にしないことにはしたのだが、それにしても最近見る回数が増えてきたような気もする。できることなら、もっと楽しい夢を見たいものだ。

 「なーつー! 遅刻するわよー!」

 その時、階下から母親が自分を呼ぶ声が聞こえた。ハッとして時計を見ると、針は7時50分を指していた。急がないと、遅刻する。

 私の名前は渡辺那津。どこにでもいるような、普通の高校生だ。この春から、私立平安高校の二年生としての生活が始まった。地元では進学校としてそれなりに名前が通った男女共学の高校だ。

 正直に言うと、中学での私の成績ではかなりの高望みな挑戦になったのだが、秀才の幼馴染、安倍清明に頼み込んで受験勉強に付き合ってもらい、どうにかこうにか合格することができたのだ。実は、進級も結構ギリで、清明にはその時もかなり助けてもらった。

 私がそこまでして平安高校にこだわった理由はただ一つ。

 「愛のため」

 とは言っても、私が一方的に恋焦がれているだけのイッコ上の先輩、「大江田統司さま」を追い掛けたい一心から。自分でもヨコシマな考えだと思わないこともないけれど、結果的に合格したわけだし、悪いことではない。はず。

 急いで制服に着替え、髪の毛を梳かして後ろで結ぶ。前髪がちょっと跳ねているけど、直している時間はない。登校用のリュックを掴み、バタバタと階下に降りる。

 「おはよう!」

 ダイニングでコーヒーを飲んでいる母に声を掛ける。母は、私が小さい頃に父が死んでから、大学で人文学の講師として働き、女手一つで私を育てくれた。十代の頃に一回りも年上の父と結婚して私を産んでいるから、まだ30代の女ざかりで、娘の私が見てもキレイだと思うのだが、今まで浮いた話は一つも聞いたことがない。一度そのことについて母と話したことがある。母は笑って、「あなたに手が掛かるから」などと言っていたが、まだ父のことが忘れらないらしい。父の記憶は私にはないが、よほど素敵な恋をしたに違いない。

 「朝ごはんは?」

 「いらない。コーヒーだけ。」

 これがいつもの会話。低血圧気味の母の朝は、驚くほど素っ気ない。だから、こっちも無理に話そうとしないようにしている。何の拍子に母の小言スイッチが入るか分からないから、気を付けているのだ。小言のネタならいくらでも思い当たるフシはある。

 カップに半分ほどのコーヒーに、同じ量の冷たいミルク。砂糖はなし。それを一気に飲み干して、私の栄養補給は完了。

 「いってきます!」

 ここはいつもの元気で、家を出る。

 学校までは走って15分くらい。ペースをいつもより少し上げれば、「彼」の登校時間に間に合うはず。

 リュックのハーネスをきつくして、2~3回膝を曲げ伸ばしてから走り出した。辺りの景色がみるみる後ろへ流れていく感覚、気持ちいい!

 私は、頭は良くないけど、運動能力には自信がある。小さい頃からそうだった。でも部活動とかには全然興味がない。「もったいない」って言われることもたくさんあるけど、単に体を動かすことが好きなのであって特定のスポーツが好きなわけじゃないし、いろいろ細かいルールが決められている中で体を動かすのって、趣味じゃない。

 信号待ちしている同じ学校の子たちを横目に、少し先の歩道橋を渡る。結果的に信号を渡った子たちの方が早く道路を渡れたけど、すぐに抜かして大通りから右に曲がって路地に入る。いた!

 校門まで50mくらいのところで、女生徒の集団に囲まれた中心に、頭一つ分抜き出た長身の「大江田さま」を見つけて、私は急停止する。ここから昇降口まで、私は少し距離を置いて彼の後ろ姿眺めながら登校するのだ。

 「おはよ」

 声の方向を見ると、すぐ隣に清明がいた。

 「なんだ、キヨアキか。おはよ。」

 「なんだ、はないだろ。今日も走って来たのか?」

 「まあね。今日は結構ギリだったから、眼福タイム少ないの。」

 『だから邪魔しないでね』という意味を込めて、あえて顔を見ないでそういったんだけど、清明はそんなこと気にしない。そういうとこ、直した方がいいよ、きっと。

 「15分ほぼダッシュで汗ひとつかかないのか。相変わらずデタラメな体してるよな。」

 「デタラメって何よ、人を化け物みたいに言わないでくれる?」

 私はカチンとして、清明の方に向き直るとそう言った。

 清明は、頭はすごくいいけど、体はひ弱で運動はまるでダメ。別に病弱っていうわけでもないのに、いつも青白い顔で具合が悪そうに見える。身長も160cmあるかないかくらいで、私より10cm以上低い。

 「別に化け物呼ばわりはしてねーよ。で、未だにアイツが好きなのか?」

 清明が前を行く大江田さまにあごをしゃくるようにして尋ねてくる。

 「キヨアキごときが、『アイツ』呼ばわりとかしないでよね!」

 「・・・まあ、どうでもいいんだけど。お前なら物怖じしないで告白とかしそうなのに、今回は全然なのな。」

 「バカねぇ。それがまたいいんじゃない。『恋に恋するなんとやら』って言うでしょ!それに、葉隠にも『至上の恋は忍ぶ恋』って書いてあるじゃない。」

 「・・・そういうの、お前らしくないから。・・・それはいいんだけど、ヒロマサが帰ってくるらしいぞ。」

 大胡博正。清明と私の幼馴染の一人。平凡な家庭で育った私たちと違い、両親ともに高名な音楽家で、本人も小さい時からフルートとバイオリンで頭角を現して「天才少年」として世間を騒がせた。外国のなんとかっていう「すごい大会」でも史上最年少グランプリを獲得して、そのまま留学しちゃったという経歴の持ち主。幼少期になんで仲良く遊んでいたのか不思議なくらい、私たちとは共通点がない。私はそれっきりになっちゃってたけど、清明とは連絡を取り合ってたようで、たまに話題に上っていた。

 「そうなんだ?なんで?」

 「向こうでやることはみんな終わったんだって。音楽大学卒業してんのに日本の高校に通う気でいるらしい。ここ(平安高校)のことも結構聞かれたから、もしかしたらウチに来る気なのかもな。」

 「へー。物好きねぇ。わざわざ勉強するまでもないのに。」

 「んー、そこらへんが俺たち凡人とは違うとこなんじゃないの?」

 「そんなものなのかな。」

 「そんなもんなんだよ、きっと。」

 結局、今日はほとんど『眼福タイム』を無駄にして教室に入る。私は自分の窓際の一番後ろの席に着いた。ここからだと、校庭を挟んで街の様子がよく見える。

 その時、「あの視線」を感じて私は校門に視線を移す。

 最近、ものすごく誰かに見られている気がするのだが、辺りを見回しても思い当たるような人はいない。今日も、視線を感じる方向をつぶさに凝視してみたが、それらしい人影はなかった。

                 ※

 校門の門柱に、素早く隠れた一人の男がいた。春物のコートの前を上まできっちりと閉め、襟を立てている。その表情は被っているソフト帽の陰に隠れてみることができない。

 男は、そのままの姿勢で1分ほどそこに佇んでいたが、やがて門柱を離れ、大通りの方向へ姿を消した。

                 ※

 私はその日、午前中に1回、午後に2回の居眠りを指摘され、各教科担当にかわるがわるに指導を受けた後、放課後に写経30枚(1回10枚)の懲罰的課題を課されてしまった。

 教室で一人写経を続けていると、委員会終わりの清明が教室に顔を出す。

 「なんだ、まだ終わってないのか。」

 そう言いながら、清明は前の席に後ろ向きに座ると、写経の何枚かを手に取った。

 「何よ。邪魔しに来たなら帰ってよ。」

 「少し手伝ってやるよ。それにしても、相変わらずマネするのも難しいくらい汚い字だな。」

 「何なのよ!手伝うの?バカにして終わり?」

 ほんとはすごくありがたいと思ってるんだけど、清明相手だとなんか突っ張っちゃうのがクセみたいになってる。直さないといけないと思いつつ、なかなか難しい。

 「このペースだとあと2、3時間は掛かるぜ?ミッキーⅮでどうだ?」

 清明が写経をヒラヒラさせながらニヤニヤとこちらの出方を探ってくる。頭に来るけど背に腹は代えられない。

 「600円までのセットでどう?今月苦しいの。」

 「乗った。」

 そういうと、清明は黙々と写経を始める。実は、清明には過去にも課題や提出物を格安でお願いしたことがある。なので、今では私ですら見分けが難しいくらい、私の筆跡を真似て文字を書くことができるのだ。

 「それにしても、一日に3回も授業中に居眠りするなんて、もはや特技の域だよな。」

 「仕方ないでしょ。御日様はポカポカだし、変な夢のせいで寝不足気味なのよ。」

 「あの、大きい手に掴まれそうになる夢か?」

 「そうそう。最近しょっちゅう見るのよ。」

 「ふぅん・・・。やっぱり何かの暗示なのかな?」

 「さぁ?思い当たるフシはないけどね。」

 私たちは、そんな会話をしながら手を動かし続けて、7時少し前に写経を終わらせることができた。初夏とはいえ、辺りは薄暗くなり始める時間だった。

 「終わったー!パパっと出してくるから下駄箱のところで待ってて。」

 私は清明にそう告げると、教室棟から職員室のある本棟へと向かう。実習棟の方は部活帰りの生徒たちで賑わってる時間だが、教室棟は打って変わってシーンと静まりかえっていた。教室棟や実習棟と本棟を結ぶ渡り廊下のところで、私はギョッとして立ち止まった。廊下に誰かが壁の方を向いて立っている。長いボサボサの髪に、昔の蓑のような、藁を束ねて作った丈の短い服、隆々とした太ももの頑丈そうな脚が見える。よく見ると、壁に小さな男の子がうずくまっているのが見えた。必死に逃げようとしているようだが、どこかケガをしているようで、その動きはぎこちなかった。

 「誰っ!」

 私が叫ぶと、立っている男がこちらを振り向いた。その男は、俗にいう「鬼の面」を被った男だった。男は私に気が付くと、両腕を広げて腰を落とし、こちらに飛び掛かってくるような仕草を見せる。その両腕は異様に長く見えたが、それは男の爪が非常に長かったからだった。果物ナイフくらいの大きさは優にありそうな、鋭利な鉤爪が指の数だけ生えていた。

 「いかんっ!逃げろっ、娘!」

 男の子が叫ぶのと、男が飛び掛かってくるのがほぼ同時だった。

 私は瞬間的に後ろに飛び退くと、私が元いた位置に激しい金属音を立てて鉤爪が打ち込まれた。

 男は意外そうに私を見て首を傾げると、さらに飛び掛かろうと下半身に溜めを作った。

 その時、男がガクッ、と膝を付く。うずくまっていた男の子が後ろから体当たりをしたらしい。男の子はそのまま膝を付いた男の肩を踏み台にして、さらに飛ぶと、私に背を向け、男に立ちはだかるように着地した。

 「逃げろと言うに!」

 そう言った男の子は、8,9歳に見え、紫色の、昔の子供が着ていたような服を着ていた。左腕からは血を流していて、よく見ると、肩から背中に掛けて深い傷を負っているようだった。服のその部分は無残に切り裂かれ、色がどす黒く変わっている。

 「ケガしてるじゃない!あの男にやられたの⁉」

 「ど、どうしたっ!」

 私が叫ぶのと、清明が渡り廊下に出てきて叫ぶのが重なった。その時、空間がぐにゃっと歪んで、周囲の雰囲気が一変する。

 いわゆる、ネガポジが反転したような感じだが、白黒ではなく、色調が全体的に暗くなった、くすんだ色味に変わる。

 「し、しまった!鬼界に引きずり込まれてしもうた!」

 男の子が周囲を見回し、一層警戒の姿勢を固くする。

 「な、なんだよ!どうなってんだ⁉」

 清明はパニックを起こしそうになっている。カバンを胸に抱きしめ、しゃがみ込んで落着きなく辺りを見回す。

 鬼面の男は、ゆっくりと立ち上がると、勝ち誇ったように「ゲッゲッゲッ!」と高笑いをしながら、こちらに近付いてきた。

 「仕方ない!娘!刀は使えるか?」

 男の子が振り返りもせずに私に聞いてきた。

 「刀?刀って、あの刀⁉ 使えるわけないでしょ、そんなもの!」

 私も少しパニックになりかけているみたいだった。声が上ずっているのが自分でもわかる。

 「心得はなくとも、振り回すくらいのことはできるであろ?とにかく、ヤツの身体の、どこでもいいから傷を付けるのじゃ!ゆくぞっ!」

 そう言うと、男の子は見る見るうちに一振りの短刀に姿を変え、ガチャンと音を立てて私の前に転がった。

 それを見た鬼面の男は、高笑いを止め、同時に歩みを止めた。この刀を警戒しているようだというのは、すぐにわかった。

 私は緩慢とも思える動作で、目の前に落ちている刀を手に取ると、同じようにゆっくりと、刀を鞘から引き抜く。刀身が露わになるたびに、全体から白いオーラが放たれ、そのオーラに鬼面の男は怯んでいるようだ。私が完全に刀身を抜きはらった時、右手に電気が走ったような衝撃を受ける。右手の甲に目を落とすと、そこには赤い蚯蚓腫れが浮かび上がっている。

 私は左手の鞘を口に咥え、短刀を両手で持ち、胸の前で構える。左手にも電気が走る。

 こうなったら、自分が戦うしかない。急激にアドレナリンが分泌され、動悸が激しくなると同時に、その動悸に合わせて頭に鈍痛が走った。

 鬼面の男は、鉤爪をカチカチと鳴らしながら、こちらの出方を探るように、左に回り込みながら少しずつ、少しずつ、距離を詰めて来ていた。私はそれに合わせ、切っ先を鬼面の男に向け続ける。

 ふいに、鬼面の男が歩みを止めた。距離は、お互いに一歩踏み込めば相手に届くまでに縮まっていた。ここからは、我慢比べだ。先に動いた方が、おそらく負ける。

 どれほどにらみ合いが続いたのか、はっきりとはわからない。ほんの数秒のような気もするし、30分以上、そのままだったような気もする。私は全身に汗をかいていた。背中も、お腹にも、汗が滲み出し、流れているのは感触でわかる。ここまでは、自分でも驚くほどに冷静に事態が進んでいる。すぐ近くに清明がいるはずだが、目の前の鬼面の男が全てだった。それ以外には、何もない。

 その時、額を流れた汗が、右目に入った。顔を振って汗を振り払おうとした刹那、鬼面の男が宙に舞った。両手の爪を振り上げて。

 どう動いたのか、私は覚えていない。後から清明から聞いたところによると、私はその瞬間に前に転がるようにしながら、鬼面の男の脚を払ったのだ、ということだった。

 気が付くと、鬼面の男は空中で左脚を膝から両断され、悲鳴を上げながら地面に叩きつけられていた。しばらく転げ回って苦しんでいたが、やがて全身を黒い霧のようなものに変え、蒸発するように消えていった。

 数舜後、周囲が元の色調に戻った。ハッとして我に返ると、茫然としている清明が視界に入ってきた。未だに目を白黒させている。私の手から刀は消えており、両手の甲の蚯蚓腫れも、どんどん薄くなっていっているようだ。

 「な、なんだったんだよ・・・今の・・・。」

 清明が口をパクパクさせるようにしながら、たどたどしく語を発した。

 私は激しく肩で息をしながら、清明に近付く。と、清明が腰を抜かしたまま後ずさる。

 「よ、寄るなっ!こっちに来るな!」

 激しく混乱している清明をなだめるようにしながら、私は清明の目の前にちょこんと座った。

 「もう、大丈夫だと思うよ。」

 「お、お前!刀で人を切ってたぞ!ど、どういうことだよ⁉」

 「私にもわかんないよ!廊下に出たらあの男と小さい男の子がいて、男の子がケガしてて、そしたら男が襲い掛かって来て・・・。わたし、清明、守らなきゃって!」

 私は途中から激しく泣き出していた。目の前の出来事にショックを受け、アドレナリンの分泌で感情がおかしくなっていたのもある。でもそれ以上に、その様子を見ていた清明に露骨に拒否されたのが、効いたんだと思う。

 泣きじゃくる私を見て、清明も冷静さを取り戻したみたいだった。

 「ご、ごめん!もう泣くなよ・・・。俺も・・・パニクっちゃって・・・。」

 「おーい、どうした?」

 その時、渡り廊下の向こうから、教師が近付いてきた。

 「なんだ、お前らこんなとこで。喧嘩でもしたのか?」

 半ば放心状態で廊下に座り込む二人を見下ろすようにして、教師が腕組みをしていた。時間も時間だし、写経の様子を見に来る途中だったようだ。

「すみません、俺、ちょっとひどいこと言っちゃって・・・。」

清明が立ち上がりながら、教師に言い繕う。

「ごめんなさい、私も生理近くて感情おかしくなってて・・・。」

私も話を合わせて立ち上がる。

「そっかー、そういうこともあるよな?青春だもんな!よしよし、今日はもう遅いから帰れ。写経は明日提出でいいから。なっ!」

何を勘違いしたのか分からないが、とりあえずこの場は誤魔化せたようだ。それで気付いたが、さっきあの鬼面の男を切った時に飛び散った血や、鉤爪で付けた廊下の傷は消えていた。それ以上に、あの刀に変わった男の子は、どこに行ったのだろう?


  私と清明は押し黙ったまま靴を履き替え、外へ出る。汗をかいた体に吹き付ける風がとても心地いい。正門はもう閉まっている時間なので、裏門へと急いだ。本棟を外から回り込むようにして実習棟の脇に出ると、ちょうど部活帰りの学生たちが部室長屋のある実習棟から出てくるところだったので、私たちはその集団に紛れ込むようにして裏門を出た。

 「なぁ、さっきのって、夢じゃないよな?」

 清明がこちらを見ないで、小声で話し掛けてくる。

 「・・・うん。見て・・・。」

 私はさりげなく、清明に手の甲を見せる。かなり薄くなってはいるが、まだ稲光のように走っている蚯蚓腫れの跡がついている。

 「あの刀を抜いた時についたの。まだ消えてない・・・。」

 「・・・。」

 「あの小さい男の子、ひどいケガだったけど・・・。」

 「ああ、そうだよな。・・・冷静に考えてみれば、あの男の子もかなり怪しい感じだった。」

 「うん・・・。」

 それから二人は押し黙ったまま、歩き続け、私の家の前へ到着した。

 「おばさん、帰って来てるのか?」

 清明が心配そうにそう言った。家の電気はまだついておらず、母が帰ってきている気配はなかった。

 「まだだと思う。」

 「一人で大丈夫か?」

 「んー、ちょっと、怖いかも・・・。」

 「じゃあ、それまで俺の家で待っててもいいぞ?」

 「うん、でも、かなり汗かいたから・・・清明が私の家で待っててくれるのは、ダメ?」

 「!・・・べ、別にそれでも・・・いいけど・・・。」

 「? 何か問題ある? 飲み物とお菓子くらい、出すよ?」」

 「い、いや、そうじゃなくてさ・・・じゃあ、そうするよ。」

 「良かった! ありがと!」

 いつもの玄関の鍵なのに、今日は開けるのがちょっと怖い。外の喧騒から隔絶される気がする。それに、もし中に誰かいたりしたら、どうしよう?

 ゆっくりと鍵を回すと、やがてカチャッと音がして鍵が開く。私は身構えながら、恐るおそるドアを引く。

 何か飛び出してきたりはしなかった。私は急いで玄関の明かりを付け、普段は付けない玄関灯のスイッチも押した。

 二人で靴を脱いで、廊下、リビング、ダイニングと順々に巡りながら、部屋の明かりを点けていく。ここまでは異常なし。次は二階だ。階段を上がり、私の部屋、異常なし。母の部屋、異常なし。物置にしている八畳間、ここも異常なし。

 そこで二人はほーっと息を吐く。知らず知らず、ここまで結構息を静かにしていた。

 「特に変わったことはないね。リビングに行こうよ。喉、渇いたでしょ?」

 そう言ったのは、私も喉がカラカラだったから、と言うのもある。

 階段を降りて、リビングへ行く。私は続きのダイニングからキッチンへ抜け、冷蔵庫を開けて中身を確認する。

 「ウーロン茶とコーラがあるけど・・・あ、ポカリもあるよ?」

 冷蔵庫を覗き込みながら、私は言った。

 「じゃあ、コーラで。」

 グラスに氷を入れて、コーラを二人分注いでからリビングへ戻る。

 清明はソファにもたれかかるようにして座っていた。私は音がないのが不安になって、テレビのスイッチを付ける。夕方のニュースが流れていた。

 コーラで喉を潤すと、今度は空腹が気になりだした。私は戸棚からポテトチップスとアルフォートの大袋を持ってリビングに戻り、清明の隣に座る。と、清明がちょっと位置をずらした。

 「・・・なんでずれんのよ。もしかして、私臭う?」

 私は自分の肩口の辺りの匂いを嗅いでみるが、特に臭ってはいないようだ。

 「そ、そうじゃねぇよ。・・・俺たちももう高校生だしさ、ほら、いろいろあんだろ?」

 清明がもごもごと話す。心なしか、顔が赤い。そこで、さすがの私も気が付いた。

 「あー、もしかして清明さん、私のこと女として意識しちゃってる?」

 「ば、バカ言うなよ!そんなんじゃねぇけどさ、おばさん帰って来て変に勘繰られても困るだろ?」

 しどろもどろになる清明が、やたら滑稽に見える。なんか、からかいたい気分になってきた。

 「ふーん、気にしてないんだ?じゃあ私、汗だくだからシャワー浴びてくるね。これ食べながら待っててくれる?」

 「お、おう、勝手に行ってきたらいいだろ。お前んちなんだから。」

 「・・・のぞかないでよね?」

 「の、のぞかねーよ!」

 ものすごくムキになってる清明を笑い飛ばしながら、私は洗面所へ向かった。制服を脱ぎ捨て、下着は洗濯ネットに入れて洗濯機へ投げ込む。裸になったらちょっと気持ちが良くなった。汗だくのブラウスって、体に張り付いて気持ちが悪い。

 意気揚々と浴室に入って、私は飛び上がるほどに驚いた。

 「きゃーーーーーーっっ!」

 浴室に、さっきの男の子がいた。浴槽でのんきに自分の服を洗っている。背中の傷は、もう塞がっているようだった。

 「な、な、な、な」

 『何してんのよ!』が言葉にならない。私は前を隠すのも忘れ、わなわなと震えながらバカみたいに男の子に向かって指を突きつけていた。

 「ど、どうしたっ!」

 そこに、清明が転げ込んでくる。

 肩口から振り返り、清明とバチッと視線が合った。

 「きゃーーーーーーーっっ!」

 私は咄嗟に屈みこみ、縮こまって二度目の悲鳴を上げた。

 「わ、わ、わ・・・」

 清明は『悪い』と言いたかったんだと思うけど、それも言葉にならない。目を大きく見開いて、目の前の光景が信じられない、という表情をしている。

 「タ、タオル、タオル取って!早く!」

 私は必死に胸を隠しながら、右手を伸ばす。

 「あ、ああ、タオル!」

 清明はこちらを見ないようにしながら、タオルを手渡してくれた。が、それはフェイスタオルだった。

 受け取ってみて、それに気付いた。

 「違う!これじゃない!バスタオルっ!」

 フェイスタオルを清明に投げつけ、さらに右手を伸ばす。

 「バ、バスタオル!バスタオル?」

 清明はキョロキョロと洗面所を見回すが、バスタオルが見つけられないようだった。

 「その、洗濯機の棚の! 茶色のやつ!」

 「ちゃ、茶色・・・これか!」

 今度こそ、バスタオルだった。私は急いでバスタオルを巻いて体を隠す。

 まるっきりコントだ。テレビと違うのは、私は一瞬にして二人の男子に裸を見られた女になったってこと。これは現実。

 二人のやり取りをきょとんとした顔で見ていた男の子は、やがて浴槽から衣服を取り出し、何事もなかったように絞り始めた。

 「ちょっと、アンタ!人の家で何やってんのよ!」

 男の子は手を止めることも、こちらを見ることもなく、冷静に作業を続けながら言った。

 「見ればわかるであろ。洗濯じゃ。一張羅だからの。」

 「そ、そうじゃなくて!なんで私の家にいるのよ!」

 そこでようやく、男の子は手を止め、こちらを振り向く。

 「うむ、そのことじゃがの、いずれにしろここには来ることになっていたのじゃ。ちょっと順番が入れ替わってしまったがの。」

 そういうと、男の子はカカカ、と高笑いをする。子供の声なのにしゃべり方は水戸黄門みたいで、すごく違和感がある。

 「どういう意味?それに、さっきのアレは何?」

 「そうそう、娘、お主には説明せねばならんことが山ほどある・・・じゃが・・・まずはこの服を乾かせるところはないかの?」

 男の子は両手に選択の終わった服を広げて、そう言った。


 半ば放心状態の清明に連れられ、男の子は下帯一丁でリビングへと向かう。私は急いで新しい下着を付け、スウェットに着替えた。

 リビングに戻ると、男の子はポテトチップスをさも美味しそうに頬張りながら、ニコニコとテレビを観ていた。清明は男の子の服をダイニングチェアに広げて干していた。

 なんてシュールな光景だろう。これが我が家とは、とても信じられない。

 その時、私の携帯の着信音が鳴った。母からだった。

 「ああ、那津?ごめん、今日ちょっと遅くなりそうなのよ・・・そうね、10時までには帰れると思うけど・・・。」

 時計を見ると、時刻は7時40分になっていた。あと2時間くらいのうちに、今の事態を収拾しないといけない、というわけだ。ともかく、今は朗報としよう。

 「わ、わかった。・・・うん。・・・こっちは大丈夫。・・・・うん・・・異常なし。」

 自分でも白々しいとは思ったが、すべてを母に説明するのは無理があり過ぎる。それは頭の良くない私にでもわかる。

 「適当に食べるから、大丈夫。・・・うん、気を付けてね。」 

 スマホをテーブルに置くと、『どうすんだよ』という目で清明がこちらを見てくる。

 実際、どうしたらいいんだろ?

 「娘、お主、『なつ』と言うのか?」

 唐突な質問に、思わず動揺する。

 「え、えっ? そ、そうよ。私、那津って言うの。渡辺那津。」

 「ほー。『わたなべの なつ』か・・・。宿命とは言え、数奇なものよのう・・・。」

 男の子はやたら感心したように、うんうんとうなずきながらそう言った。

 「そういえば、お前、名前は?」

 清明がリビングの男の子に近付きながら男の子に尋ねる。

 「わしか。わしは、『おにまる』じゃ。」

 「お、おにまる?それは、名前か?どういう字を書くんだよ?」

 「名前じゃ。「鬼」に「丸」と書いて、鬼丸じゃ。」

 「まんまじゃねーかよ!苗字は?」

 「苗字?そんなものはない。ただの鬼丸じゃ。」

 「なんだよ、それ。自分でわからねーのか?」

 清明は鬼丸と名乗った男の子に掴み掛ろうかという勢いだったが、鬼丸の方は涼しい顔で、さも鬱陶しそうに顔を背けた。

 「お那津、この者はなんだ?お前の伴侶か?弱いくせに、やたらと偉そうじゃのう。」

 清明が「何っ!」と言うのと、私が「はんりょ⁉」と言うのが同時だった。

 「清明、とりあえず落ち着いて。えっと、まず、この男の人はキヨアキって言って、私の大切な友達で、伴侶ではない。で、鬼丸君はどこから来たの?お母さんは?」

 その私の質問に、鬼丸は不思議そうな顔をする。

 「どこから、と言われても、儂にもよくわからんよ。それから、儂は刀の化身で、人ではない。母も父もおらん。」

 まるで他人事のように、さらっととんでもないことを言う。

 「・・・じゃあ、さっきのあの刀は、やっぱり鬼丸くんだったんだ・・・?」

 「いかにも、その通りじゃ。名の通り、鬼を屠る刀というわけじゃよ。」

 鬼丸は得意そうに胸を張って、そう言った。

 「切れ味抜群、であったであろ?心得のない者でも、アレじゃからのう!」

 そう言われて、私は「あの時」の感覚を思い出した。確かに、包丁すらまともに持ったことのない私が使って、あの太くて頑丈そうな脚を骨ごと切断したのだから、その切れ味は折り紙つき、ということだろう。まるで、バターを切った時のような感触だったのに。

 「そうそう、アイツは何なの?変なお面付けて、いきなり襲い掛かって来て・・・それに、あの風景!」

 感触が蘇ってきたら、他にもいろいろ思い出して来て、私は一気にまくしたてた。

 「・・・うむ、あれが鬼じゃ。あれは面などではないぞ?まだ若い未熟な鬼じゃったが、鬼には違いない。それと、景色が変わったのはあやつに鬼界に引きずり込まれたからじゃ。」

 「鬼・・・?それに、鬼界・・・?」

 「そうじゃ。鬼とは、古来より人界を騒がせる災い者じゃ。『地獄の獄卒』なぞと言われておるが、地獄には鬼などおらん。詳しいことは儂にもわからんが、お主ら人とも深い関りがあるらしいぞ。それと、『鬼界』とは、鬼の住処じゃ。見た通り、この世をそのまま陰にしたような世界じゃが、人の代わりに鬼がいる世界、ということじゃな。」

 私は清明を見た。私の理解を超えた内容だったが、清明は理解できただろうか。

 「その鬼が、どうして俺たちの世界に?」

 「うむ。鬼にも頭領がおってだな、儂を目の敵にするんじゃよ。まあ、これまで何百何千と言う鬼を切って来たからのう、無理もないことじゃが、まったくもって鬱陶しいかぎりじゃわい。」

 「要するに、お前を追ってきた、ということか?」

 「その通りじゃよ。さっきも言った通り、儂は鬼を切ることのできる刀の化身なのじゃが、儂を振るう者がいなくてはなんの役にも立たん。鬼にとっては儂を亡き者にする絶好の機会じゃったわけじゃ。」

 「その、鬼界とやらは、どこからでも出入りできるのか?」

 「まあ、人界と鬼界は表裏一体じゃからな。その能力のある者ならどこからでも、出入りは自由じゃな。」

 「じゃあ、ここにも、ってことだな?」 

 「ふむ、そこに気が付くとは、お前さんは弱いが頭は働くようじゃの。安心せい。お前たちを待っている間に、この家には結界を張っておいた。まあ、簡単には破られんじゃろ。それに、いざとなったら儂で戦えばいいだけのことじゃ。」 

 さすがは清明。私は二人のやり取りを見て右往左往するばかりだったが、きちんと理解しているみたい。

 「『待っていた』って、どういうことだ?」

 「そうそう、大事なのはそこじゃよ。儂は、お那津に会いに来る途中に鬼に襲われたのじゃ。」

 突然私の名前が出て来て、私は驚いた。

 「私⁉なんで⁉」

 「なんで、と言われても、儂は元々お主の持ち物じゃからの。まあ正確にはお主の御先祖ということになるが・・・。この世に鬼が現れたなら、儂はその世代の儂の持ち主を探すように約を結んでおるのじゃ。そのために、この人間の体に化けることができるようにできておる。」

 「・・・もしかして・・・羅生門の話に出てくる、あれか?」

 清明が冷静に問い掛ける。

 「おお、お主・・・清明と言ったか、羅生門の経緯を知っておるか。なかなかに博学じゃのう。」

 鬼丸はさも感心したように、膝を打って身を乗り出した。

 「あれは、実話だったのか?」

 「そうじゃよ。儂と源次様で、羅生門の鬼どもを退治したのじゃ。」

 「じゃあ、那津は、渡辺綱の子孫、ということなんだな?」

 「いかにも。源次様から数えて、三十一代目の子孫、ということになるかの。」

 「で、お前が那津のところに来たと言うことは、この世にまた鬼が出てきた、ということか・・・。その辺りのことを詳しく聞かせてくれ。」

 清明はチラッと私に視線を投げかけると、座るように目顔で促した。私は釈然としないまま、鬼丸と名乗った子供の対面のソファに腰掛ける。

 「よかろう。話は、少し遡る。今から、さよう、15年ほど前になるか、ここから北の、青森というところで、古い塚が見つかった。その塚は、鎌倉の時代に土地の者たちが鬼女を封じた塚だったのじゃ。そんなことを知らぬ愚かな人間は、我欲のためにその塚を壊してしまった。封じられていた鬼女はその人間を喰らって力を得ると、こともあろうに朱点を封じた塚を暴き、この世に朱点を蘇らせてしまったのじゃ。儂はすぐに目覚めて、その代の源次様の子孫を探した。そして見つけたのが、お主の父親、渡辺伊織殿じゃ。」

 「私の・・・父親・・・?」

  最初はピンと来なかった。私を抱いて母と一緒に写っている写真は飾ってあるけど、記憶には全くない父親。言ってみれば、その写真の笑顔が全ての父親。でも、よく考えてみれば、私が「源次様」とやらの末裔であるなら、当然、どちらかの親もその末裔となる、というのは当然のことだろう。

「うむ・・・。伊織殿は朱点とよく戦ったが、やはり一人の力には限界があった。朱点を追い詰めるところまでは行ったが、伊織殿もかなりの深手を受けての、結局、朱点を取り逃してしもうたのじゃ・・・。」

「・・・そう・・・じゃあ、それで父は亡くなったのね・・・。

 母からは仕事中の事故で亡くなった、と聞いてはいたが、詳細を聞いたことはなかった。考古学者が仕事中に事故で亡くなる、というのは可能性の低い話だとは思ったこともあったが、深くは考えていなかった。母は真実を知っているのだろうか?

 「いや・・・深手は受けたが、伊織殿は死んではおらんぞ?」

 「えっ?」

 私も清明も同じ反応をして、顔を見合わせた。

 「じゃあ、今も生きているの?どこにいて、何をしてるのよ?」

 私は、鬼丸に詰め寄ってそう尋ねた。

 「今、どこにおるのか、儂には分からんよ。伊織殿はもはや『遣い手』では無くなってしまったからのぅ・・・。最後に会った時には『朱点を葬る手立てを探す』と言って居ったが・・・。」

 「最後って、いつの話よ?」

 「傷が癒えた頃じゃから・・・12、3年前の話になるかのぅ。」

 私は、ちょっとがっかりした。思っていたよりも前の話だったからだ。

 「『遣い手』ではなくなった、と言ったな? どうしてだ?」

 私が押し黙ったのを見て、清明が質問した。

 「一つには、もはや戦える身体ではなくなってしまったから、じゃ。伊織殿は大怪我のほかに『鬼の呪い』を受けてしまった。やがて鬼へと身をやつす、恐ろしい呪いじゃ。それに・・・新たな『遣い手』が世に出ておったからの。」

 そう言うと、鬼丸は私を真っ直ぐに見てから、語を継いだ。

 「あの頃のお那津はまだ幼子であったがな、『遣い手』としての素質は十分じゃったよ。古来、赤子の泣き声は鬼の嫌がるものの一つじゃからな。それに、さっきも話したように伊織殿は朱点にもかなりの深手を負わせていたのじゃ。儂でついた傷は人を喰らおうとも元には戻らん。さすがの朱点も鬼界で傷が癒えるのを待つしかなかった、というわけじゃ。」

 「その、朱点の傷が癒えて、活動を開始した、と?」

 「そういうことじゃ。そして儂はお那津の元へと向かっている途中、朱点の手下に襲われ、そこをお那津に救ってもらった、というわけじゃ。」

 「ようやく話が見えてきたよ。つまり、那津はお前を使って朱点を退治する宿命を背負っている、ということか。」

 「少し違うな。朱点を退治するかどうかは、お那津次第じゃ。やりたくない、というならそれも結構。儂はどちらでも構わん。今までは人に与して鬼を切ってきたが、鬼に与して人を切ることもあるのが、儂の、刀としての運命じゃ。まあ、そうはなりとうはないが、いざともなれば止むを得ん。儂の約は『当代の源次様』を探して危急を告げること、望まれればともに戦うこと。戦わぬ、というのなら、儂は帰る。その後のことは知らん。」

 「・・・冷たいようだが、理には適ってるな。」

 そう言うと、清明も鬼丸も、私の返答を促すようにこちらを見る。

 「え・・・? 今? 今、決めなきゃなの?」

 私は二人の視線に困惑を隠せなかった。こんなこと、即答できるわけないじゃない。

 「まあ・・・今すぐに、というわけではないが・・・刻が迫っておるのは確かじゃよ。鬼が出たあの場所。あそこは鬼界と繋がったからの。あそこに鬼がいたのも、あの場所に何か所以があるからじゃろ。近いうちに、何か起こるかも知れんよ。」

 「学校⁉ 学校で何か起こるの? 鬼がまた出るってこと?」

 「その可能性は、高いじゃろうのう。いずれにせよ、あの場所に何かあるのは間違いない、と儂は睨んでおる。あそこにいた鬼も、実は儂を狙ったのではないかも知れん。」

 鬼丸の言葉に、清明が反応した。

 「・・・鬼は・・・実は那津を狙っていて、むしろ、お前がたまたま遭遇した、ということか?」

 「うむ。その可能性も否定はできまいよ。なにせ鬼は全て、お那津の一族を恨みに恨んでおるからの。」

 「じゃあ、私が戦おうと戦うまいと、鬼には狙われ続けるってこと?」

 「そういうことになるのう。朱点が動き始めた今、その可能性はますます高まった、ということになるじゃろうよ。」

 その場に、沈黙が舞い降りた。私は話の展開についていくのがやっとだった。重い口を開いたのは、清明だった。

 「・・・お前・・・それを最初から、なぜ言わない?」

 そう言われて、ハッとした。確かに、鬼丸の説明は回りくどいというか、何か重大事をまだ隠しているような話し方だった。

 「・・・さっきも言うたが・・・儂はそもそもが刀じゃ。使うてもらえるなら、それが人でも鬼でも構わん。つまり、どちらの味方でもないのじゃ。もちろん、人に作られ、人に使われてはいるが、儂の芯には鬼の骨を砕いた粉が使われておってな。鬼とも関りは深いのじゃよ。とは言え、儂は源次様を始め、数多くの人に使われてきて、人と言うものが好きになっておる。お主たちのことも含めて、じゃ。じゃから、本来なら言わいでもいいことまで話してしまっている、と言えば、わかってもらえるかの?」

 「なるほど。よくわかったよ。お前はいつでも鬼側につく可能性がある、ってことがな。」

 清明は辛辣だった。

 「それは心外じゃな。儂は、一度『遣い手』に必要とされたならば裏切るような真似はせんよ。むしろ、その逆じゃ。どちらかと言うと、儂は人に味方しておる。物の道理を外れてまでの。」

 鬼丸も負けてはいない。だが、怒りと言うよりは、呆れた、というような話の仕方だった。また訪れる沈黙。テレビから流れる音声が、一層寒々しい雰囲気を出していた。

 「決めた。私、鬼と戦う。」

 私はその沈黙を破って、そう言った。鬼丸は膝を打って喜びを顕わにする。

 「よう言うた!それでこそ渡辺の者じゃ!」

 清明が心配そうにこちらを見る。

 「戦うって、勝算はあるのかよ・・・。」

 「それは・・・ないけど・・・。でも、このままでもいずれ襲われる可能性があるわけでしょ?ただやられるなんて、シャクじゃない。それに、学校で何かあるかも知れないなら、清明だって危ない、ってことよ?」

 「それはそうだけど・・・。」

 「それに・・・。」

 「それに?」

 「もしかしたら、戦いの中でお父さんに会えるかも知れないじゃない?その・・・朱点ってやつを退治する方法を探してるんでしょ?だったら・・・。」

 そこまで言った時、鬼丸が立ち上がってこちらに近付いてきた。

 「話は後じゃ。まずは、盟を結ぼうぞ。盟は、『命』であり『名』じゃ。ゆめ、軽々しく思うてはならんぞ?よいか?」

 鬼丸が私の前に立ち、見上げながらそう言った。私はコクン、とうなずき、了承の意を示す。

 「よし。では、儂を抜きはらって刀身に己が目を映せ。あとはお那津の血が・・・渡辺の血が、事を運んでくれよう・・・。」

 そう言うと、鬼丸は朧げに姿を消し、一振りの短刀へと身を変えた。私は、それが落ちる前に両手で掴むと、刀身を抜きはらい、言われた通りに自分の目を映す。刀身の中に、自分が吸い込まれるような錯覚を覚えた。


 次に、まるで刀身から強風が吹きつけてくるような感覚が襲ってくる。柔らかいけれど、ものすごく重い何かがのしかかってくるようだ。全身に力を入れてその重みに耐えていると、やがて頭の中に言葉が浮かんでくる。私は意識しないままに、浮かんだ言葉を口走っていた。

 

「我が名は渡辺那津!

渡辺綱源次が血脈の者なり!

我が名において命ず!

『髭切鬼丸』の力持て、我と共に鬼を除け!」


 言い終わると同時に、のしかかっていた重さが自分の身の内に取り込まれた感覚があった。全てを取り込むと、私は刀を鞘に納めた。もはや、刀の重さは全く感じなかった。

 「・・・す・・・すげー・・・。」

 清明が呟く。同じ部屋とは言え、小声で呟いたはずのその声が、まるで耳元で話されたかのようにはっきりと聞こえた。ふと気が付いたが、物の見え方もすっかり変わっている。陰影がはっきりと感じられ、色調もくっきりと見分けられる。体を動かしてみて、さらに驚いた。とにかく動きが軽い!関節は滑らかに動き、それを動かす筋肉の、力の流れが手に取るようにわかる。

 「き、清明・・・私、何か変わって見える?」

 もしかして、外見も変わったんじゃないかという疑念が湧き上がった。

 「? いや、いつも通りだよ。しゃべってた時は別人かと思うくらい堂々としてたけどな。」

「そ・・・そっか・・・。」

 そう言って、私は手にした刀に目を落とす。

 「あ、あれ?もしかして、鬼丸はもうずっと刀のままなのかな?」

 「いや・・・どうなんだろうな?もっと聞きたいことあったんだけど・・・。」

 「そ、そうだよね?? どうしよう?」

 途端に刀が鬼丸に変わる。思わず落としそうになって、私は鬼丸を慌てて抱きかかえた。

 「呼んだか?言い忘れておったが、刀の時の儂は話せんからの。」

 鬼丸は身軽に私の手を離れると、すくっと立ち上がった。

 「もっとも、話せんだけで意識はあるからな。悪口など言うでないぞ?」

 そういうと、またカカカと笑う。話し方はだいぶ慣れたけど、この笑い方だけは慣れそうにない。

 「それで・・・どうじゃ?」

 鬼丸が私に問い掛けてきた。私はさっき感じた感覚を簡単に説明した。

 「そうであろ。儂の本当の名を告げた時、儂の中にある御先祖の経験が、全てお主のものとなったのじゃ。いわば、鬼と戦うための力じゃな。とは言え、今のお主では全てを得ることはできなんだようじゃの。」

 「なるほど・・・武器であると同時に戦闘経験のデータバンクでもあるわけだな。」

 清明がさも感心したように鬼丸を見る。

 「さて・・・それでは話の続きをしようかの。お主の父、伊織殿のことじゃ・・・。」

 鬼丸はそこで語を切った。

 私も清明も、固唾を飲んで続きを待った。

 「・・・その前に、腹ごしらえじゃ。何か食べる物はないかの?」

 私と清明は、盛大にずっこけた。


 冷蔵庫にあったベーコンとカット野菜を炒め、焼き肉のタレで味付けした野菜炒めと目玉焼き、それにインスタントラーメンで簡単に夕食を作った。清明が。

 私はそういうアイデアに致命的欠陥があるので、同じ材料を使っても、こうはいかない。

 鬼丸はインスタントラーメンが特に気に入ったようで、「美味い」を連発していた。

 「なあ、お前ってどの辺まで人間なんだ?メシは食うけど、寝たり、トイレ行ったりもするのか?それとも、あれか?人間でいる時間に制限がある、とか。」

 清明が食事に忙しい鬼丸に聞いた。

 「まあ、言ってしまえばどれも必要ない。食べるのは楽しいからじゃな。人間でいる時間に制限はない。が、鬼が大人しい時代には、あまり人間にはならんな。出番がないからの。」

 「大人しい時代?」

 「うむ。鬼と言うのは、実はどこにでもいるのじゃ。普段は人間のように暮らして居る場合がほとんどでの。中には人と番って子を成す者までおる。」

 「マジか!なんで片っ端から退治しちまわないんだ?」

 「その必要がないからじゃ。鬼は人間にとっての「災い者」であると同時に、「人を御する」という役目もあるのじゃ。人が傲慢になり、つけあがって触れてはいけないところまで触れないようにするためにの。」

 そこまで言うと、鬼丸は食事の手を止めてから、さらに語り出した。

 「人界と鬼界は表裏一体、と言うたが、人と鬼もまた表裏一体、ということじゃ。親が子を殺し、子が親を殺す。そんなのはもう人ではないじゃろ? 鬼はそんなことは絶対にせん。いわば、鬼以上に下劣な部分も、人にはあるのじゃ。人とは、無制限に増え続け、同じ種族で殺し合いをする不思議な生き物じゃ。これは、自然の生き物にすれば鬼にも勝る脅威なのじゃよ。儂でさえ、慣れ親しんだ山や川が、人の手で変わり果てた姿になるのを見るのは辛いものがあるからのう。そうした人の欲が一線を超えると、鬼が騒ぎ出すのじゃ。そして時には、今回の朱点のように必要以上に人を殺める鬼も出てくる。この世はそうして、一定の均衡を保っておるのじゃよ。」

 鬼丸は絞り出すようにして、話を終えた。人の手により「鬼狩り」の刀としてこの世に生み出されながら、人のひどい部分も見せられてきた鬼丸は、やりきれない思いもどこかにあるのだろう。確かに、同じ人の私が聞いてもひどい話だと思う事件が毎日のようにある。そしてこうしている間にも、世界のどこかでは戦争が繰り広げられ、誰かが誰かを殺しているのだ。鬼ではなく、人が。

 盟を結ぶ前の鬼丸が、何かを言い淀んでいるように感じたのは、こうしたことがあったからなのだろう。

 「・・・辛いよね・・・。」

 私はポツンと、正直な思いを口に出した。もしも私が鬼丸の立場なら、その辛さに耐えられるだろうか。

 「そう思うてくれるだけ、お那津はまともじゃよ。人は時にひどいこともするが、同じくらい良いこともするのじゃ。矛盾だらけの存在だからの。儂からすれば、生まれ落ちたその瞬間から、いつか死ぬことが定めのお主ら人の方が、よほど辛いとは思うがのぅ。」

 そう言った鬼丸は、とても優しい表情をしていた。

 「いずれにせよ、朱点は人であれば良い者、悪い者、見境なく殺す。殺し尽くす。それは何としても、誰かが止めねばならん。朱点が力を完全に取り戻し、鬼の手下全てを集め終わる前にの。そしてそれこそが、儂の至上の喜びともなるのじゃ。」

 「・・・それで・・具体的にはどうすればいいんだ?」

 清明は箸を置いて、居住まいを正した。

 「うむ・・・では、話を戻そうかの。朱点を倒すに辺り、まずは伊織殿を探すのが一番確実じゃろう。朱点を葬る手立てが見つかっているかも知れんし、見つからぬまでも何かは掴んで居る公算が高い。それにはお那津、お主の力が必要となる。」

 「どういうこと?」

 「お主は儂を通じて、伊織殿と意を通ずることができる力を手に入れた。お主が望めば、お主の思いは伊織殿に必ず届く。まずは、それを試してみるがいい。それがうまくいかなかったら、儂が適当に鬼を見繕うてやるから、修行のつもりで鬼退治を始めるのじゃ。こちらは徒に朱点の気を引いてしまうおそれもあるが、止むを得まい。」


 「ただいまー。なつー、誰か来てるの?」

 玄関のドアが開く音がして、母の声が聞こえてきた。慌てて振り返って時計を見ると、時刻はまもなく午後10時になるところだった。話に夢中になり過ぎて、母が帰って来る時間のことなど、すっかり頭から抜けていた。

 母がリビングに入ってくるまでは、もはや数秒もない。何をするにも手遅れだ。こうなったら、開き直るしかない、そう覚悟を決めた時、母がリビングに入ってきた。

 「あら!清明くん!久しぶ・・・鬼丸・・・?」

 母は朗らかに清明に挨拶をしている最中に、鬼丸に気が付いたようだった。が、鬼丸のことを知っていた。私と清明は驚いて顔を見合わせた。鬼丸の方は、平然として母に手を挙げながらにこやかに挨拶をした。

 「おー、お八重殿。一別以来、ご無沙汰でございましたな!」

 「・・・そうね・・・鬼丸がここにいるってことは・・・そういうことなのね?」

 母は力なくそういうと、その場にへたり込むようにして腰を下ろした。

 私も清明も、あまりに意外な展開に、声を出すことができなかった。

 「・・・さきほどお那津殿と盟を交わしました。今は、お那津殿が我が主。・・・お八重殿には残念のことでござろうが・・・。」

 「話は終わったの?」

 「いえ、いずれお八重殿がお帰りになると、その『板』が申しておりました故、すべてはまだ・・・。」

 鬼丸はテーブルに置かれたスマホを顎でしゃくりながらそう言った。

 「そう・・・。なら、仕方ないわね。私は私の役目を果たすわ。」

 そういうと母は、手にしたトートバッグを床に置いたまま、空いているソファに腰を掛けた。

 「もう、朱点は力を取り戻したのね?」

 母が鬼丸に尋ねる。

 「いえ、まだ全てではございますまい。集まっている手下もまだまだ未熟の鬼ばかりと見受けました・・・。実は・・・お那津殿は既に鬼を一人、切っております。」

 鬼丸の母に対する物言いは、私たちへのそれとは全然違う。私も清明も、二人のやり取りを食い入るように見つめるより仕方がなかった。鬼丸と母の間には、そうさせる何かがあった。

 「そう・・・伊織さんの・・・この子の父親の話は?」

 その問いかけに、鬼丸は無言で首を振る。母はひとつ、ホッと溜息をつくと、隣に座る私に向き直って話し始めた。

 「あなたに話さなくてはいけないことがある。あなたのお父さん・・・伊織さんは生きてる。法律的には、亡くなってることになってるのは事実だけど・・・。そうしたのは、伊織さんの強い意志で、できることなら、那津を渡辺家の宿命に巻き込みたくなかったから。でも、時代がそうはさせてくれなかったのね・・・。」

 母はそう言うと、私をじっと見つめた。今の私は、母にはどう映っているのだろう。

 「うん・・・でも、それが私の決めたことだから・・・。」

 「あなたのお父さんも、そう言っていた・・・。そして大怪我をしたの! 死ぬかも知れないくらいの大怪我よ!その上、あんなことにまで・・・!」

 そこまで言うと、母は顔を覆って泣き始めた。

 「私は、あなたにまで、そうなって欲しくない!あなたに万が一のことがあったら・・・私・・・。」

 誰も口を開かなかった。正確には、開けなかった。私たちは、母が落ち着くまでその様子を見守るしかなかった。

 「・・・ごめんなさい、柄にもなく取り乱しちゃって。こうなった以上、私も覚悟を決めるしかないわね・・・。那津、あなたにはまず伊織さんに会ってもらうわ。伊織さんがアイツを・・・朱点を葬るために集めた物を、受け取ってもらう。」

 「うん・・・ちょうど、その話をしてたところに、お母さんが帰ってきたの。」

 「そう・・・。そのやり方は私には分からないけれど、何か方法があるんでしょ?」

 そういうと母は、鬼丸を見た。鬼丸は静かにうなずいた。

 「・・・ところで・・・清明君は、どうしてここに?」

 落ち着きを取り戻した母が、急に気付いたように私を見てきた。私は事の顛末をかいつまんで話し、清明がここにいるのは巻き込まれたからに他ならない、と説明した。

 「ああ・・・とんでもないことに巻き込んでしまったわね・・・。」

 母は清明を見つめながらそう言った。母親同士も友達で、幼い時から知っている清明を、偶然とはいえ巻き込む結果になってしまったことを、心から悔いているようだった。

 「いえ、むしろ自分から巻き込まれに行ったようなもんですから、気にしないでください。それに、舞台が学校なら、遅かれ早かれいずれは巻き込まれたはずです。先に事情を知っているだけ、対処のしようもありますから。」

 清明らしい答え方だと思う。時々、こんな風にやたらと大人ぶった発言をすることがある。そういうところは、ちょっと憧れる。私は目上の人と話すのが苦手だから。

 「そう言ってもらえると、少しは楽だけど・・・お母さんには・・・ユミちゃんにはなんて言えばいいかしら・・・。」

 「そのことですけど、母にはしばらく内緒にしておいてください。余計に心配すると思うので・・・。」

 「そうかも知れないけど・・・でも・・・。」

 母は、まだ踏ん切りが付かない様子だった。できることがあるのに、しないのは母の性分ではない。

 「いずれ自分の口からきちんと説明します。まだわからないことが多すぎて、今の状態で話しても不安にさせるだけですから。」

 清明も譲らなかった。こう見えて、頑固なところもある。

 

 その後、時間も時間だ、ということになり、清明は家に帰ることになった。清明の家は斜向かいなので、門のところで家に入るまで見送ることにした。母と鬼丸は、リビングで積もる話に花が咲いているようだった。

 「・・・今日は・・・ありがとね。いろいろ、助かった。」

 二人きりになると、私は清明にそう言った。そうとしか、言いようのない出来事ばかりだった。

 「いや、俺の方こそ、那津がいなかったらあの鬼に殺されてたと思うよ。助けてもらったのはこっちの方だよ。それに、その後のことは何気に楽しかったくらいだ。」

 清明は、自分の知らないことを知ると、テンションが上がるタイプだ。それが難題であればあるほど、燃え上がるタイプ。たぶん、そういう意味で言ったんだろうとは思ったけど、私としてはそれより気になることがあった。

 「・・・見たよね?」

 振り返った清明の顔を見て、私の考えは杞憂であるのはすぐにわかった。たぶん、とっくに忘れていたんだと思う。

 「え・・・あ・・・み、見てねーよ!そ、そりゃちょっとは見えたけど・・・『見た』ってほどは見てねー!」

 少なくても、「見えた」のはよくわかった。やっぱり見られてた。

 「しっ!バカ!声でかいっての!・・・とにかく・・・忘れてたんなら、二度と思い出さないことね。誰かに言いふらしでもしたら、絶好だからね!」

 私は小声で釘を刺した。言った後で後悔した。こんな風に言われたら、私ならその光景を何度もリフレインしてしまうはずだから。

 「あ、当たり前だろ! じゃあ、もう行くよ。おやすみ。」

 「おやすみ。」

 そう言って清明はそそくさと家に向かって歩き出した。手を振りながら夜空を見上げると、いつになく星がはっきりと見えた。これも盟を結んだ効果なのか・・・。私は明るく光る月を見て、少し気味が悪いと感じた。

               ※

 「じゃあ、定時の見回りに行ってくる。」

 佐藤良夫はそう同僚に告げ、2時間に一回の構内巡回に出発した。平安高校では、夜間の警備を民間に託している。佐藤は今日の当直で、同僚の安田隆とともに明日の朝7時までの警備を任されていた。警備室は本棟一階に位置し、火災報知器と侵入感知の集合制御盤や、構内各所に取り付けられた監視カメラの映像を確認するモニター、そしてその録画装置が置かれた部屋と、更衣室兼休憩所として利用されている畳敷きの小上がりからなっていた。

 安田は携帯から目を上げて、佐藤に手を挙げて見送ると、すぐに視聴していたゲーム実況の動画に視線を戻した。

 平安高校の構内巡回は、特に異常がなければ2~30分ほどで終わる。見回るのは建物の中のみで、外周は動体センサーが作動しているため、見回りの必要性がない。

 佐藤が見回りに出て10分ほどした頃、安田は警告音で携帯から再び目を上げた。教室棟2階の男子トイレで侵入感知を知らせるランプが赤く点滅している。安田はやれやれと思いながら、無線機に手を伸ばす。システム自体が老朽化しているからか、たびたび誤作動で警告が発せられるのだ。今回もそんなことだろうと思いながら、無線で呼び掛けた。

 「警備室から巡回、教室棟2階の男子トイレで異常発報。確認願う。」

 ちょっとした空電音の後で、佐藤の応答があった。

 「了解。くそっ、今、1階に降りてきたとこなのに、また戻るのかよ!」

 「ボヤくなボヤくな。それがオシゴトでしょ!」

 「そりゃ、そうだな。じゃあ、ちゃちゃっと見てくるから、コーヒー沸かしててくれよ。なんだか今日はやけに冷えやがる。」

 「はいよー。」

 安田は気のない返事をして、コーヒーの準備を始める。ペーパーフィルターを折りながら温度計を振り返ると、室内の温度は23℃と表示されていた。真夜中とは言え、5月も末のこの時期なら、まあそれくらいだろう。

 「・・・冷えるって気温でもないよな・・・アイツ、風邪でも引いたのか・・・。」

 安田は呟くようにそう言って、コーヒーメーカーのスイッチを入れた。

  佐藤は2階に上がり、教室棟のちょうど中央に位置している男子トイレへと向かった。窓から差し込む月明りで、廊下では懐中電灯を点けなくても歩けるほどだ。小声で笑点のテーマソングをハミングしながら、男子トイレの前まで来る。中から物音が聞こえる訳でもなく、異常を示す兆候は感じられない。遠くから救急車のサイレンの音が聞こえ、やがて遠ざかっていった。佐藤は懐中電灯を灯すと、トイレの入り口ドアを押して中に入る。手前左右に手洗い場があり、右側に小便器、左側に個室が並んでいる。正面は窓になっていて、窓の向こうには街明かりも見えていた。懐中電灯で窓を照らしながら、近付いていく。窓は施錠されており、ガラスが割れたような形跡もなかった。

 「ちっ!やっぱり誤報かよ・・・。」

 佐藤はそう呟くと、引き返そうと踵を返して我が目を疑った。さっき入ってきたトイレの入り口が、やたらと遠くなっている。しかも、目の前の空間がユラユラと揺れているような感じだ。

 「な、なんだ・・・!?」

 懐中電灯で周囲を照らすが、点いているはずなのに、ボヤっとしか明るくならない。空間の揺らぎはますます強くなっていき、その都度、色味が薄くなっていくようだ。

 どどどどどど・・・。

 どこか遠くから、太鼓を素早く叩くような音が聞こえて来て、音のした方向を探そうと周囲を見渡した時、それに気付いた。

 揺らぐ個室の壁や開いた上部から、いくつもの光る眼がこちらを見ていた。時折点滅するように見えるのは、瞬きをしているからだ。多くの光る眼は、佐藤をジッと凝視して、何かを探っているようにも見える。尋常でないことが起こっていると認識した佐藤は、慌てて肩に付けた無線のマイクを取ろうとするが、強く握ることができずに取り落としてしまい、カールコードで繋がれたマイクがヨーヨーのように上下した。再びそれを取ろうとするが、上下に激しく揺れるマイクを上手く掴むことができない。その時になってようやく、自分が激しく震えていることに気が付いた。

 「げ、げ、げ、げ、げ」

 光る眼が細められ、小刻みに揺れている。必死にマイクを掴もうとする佐藤の仕草が、無様な踊りにでも見えたのだろうか、やたらと甲高い笑い声が、合唱のように響き渡る。ふいに、ピタッとその笑いが収まると、一匹、また一匹と個室を出て佐藤の前に立ち塞がった。

 思ったよりも、小さい。身長は佐藤の膝あたりまでしかない。極端に顔が大きくて、その顔の半分ほどの大きな口には、これも大きな汚れた乱杭歯が生えている。手が床に着くほど長く、何匹かは、手に棒切れのような物を持っていた。

 その生き物が、合計10匹、佐藤の前に並んで、体を揺すっている。

 声を出そうとするが、喉がヒリヒリに乾いていてうまく唾をのみ込むことすらできなかった。震える左手を動かし、伸縮警棒の抜き出そうと試みるが、一向に抜けない。

 『そうだ・・・ストッパー・・・』

 慌てるあまり、脱落防止のために付けられているストッパーを外すのを忘れていた。ストッパーを外そうと右手を伸ばしかけた時、最初の衝撃が佐藤の右半面を襲った。

 飛び掛かってきた一匹が、佐藤の額から頬に掛けての皮膚を噛み破ったのだ。

 ミリミリと音を立てて、顔の皮膚が食いちぎられた。

 「ぎ、ぎゃーーー!」

 痛みよりも、衝撃の方が大きかった。悲鳴を引き金に、次々に飛び掛かって来る生き物の重さに耐えかね、佐藤は仰向けに倒される。と、目の前に生き物の大きな顔が現れる。その口が大きく開かれ、生臭い息が顔面に吹きかけられたと感じた刹那、佐藤は意識を失った。

 佐藤に無線で連絡を入れてから、もう20分が過ぎた。いくらなんでも時間が掛かり過ぎだ。現場から一番遠い巡回箇所からでも、とっくに第一報は入っていなければならないはずだ。5分ほど前に無線で呼び掛けてみたが、応答はない。安田は規定に従い、会社に連絡を入れた。

 「お疲れ様です。平安高校当直の安田です。0時50分に教室棟から異常発報がありまして、一人が確認に行ったのですが、15分経過しても応答がありません。・・・はい、佐藤良夫です・・・。ええ、何度か呼び出してます・・・。はい・・・これから確認のため、私も向かいます。警備室が無人になりますので、本部の方でモニターをお願いします・・・。」

 安田は懐中電灯と携帯電話を持ち、確認のために教室棟へと向かった。

 そしてそのまま、安田も行方不明となった。

                ※

金曜日(2日目)

 翌日の朝、私はスマホの呼び出し音で目を覚ました。眠い目を無理矢理に開いて画面を見ると、清明からのようだった。

 「・・・もしもし・・・どうしたの?」

 昨夜は清明が帰った後、母と鬼丸と三人で明け方近くまで話をして過ごした。鬼丸の教えに従って父への思念も送ってみたが、特に応答はなく、上手く行ったのかどうかもわからない。いろいろあったせいか、なかなか目が覚めなかった。

 「ライン、見たか?」

 「え・・・見てないけど・・・」

 「今日は臨時休校らしい。噂では、警備の人が行方不明になって、警察が来てるってことだ。」

 「そ・・・そうなんだ?・・・」

 「ああ。学校からのラインでは、電気関係の異常があって工事するってことみたいだけど。鬼丸はどうしてる?」

 そう言われて、私は半身を起こして部屋を見る。床で鬼丸が高いびきをかいていた。

 「・・・まだ、寝てる。」

 「マジか・・・寝ないで大丈夫なんじゃないのかよ。」

 「いびきかいて寝てるよ。昨日はお酒もかなり飲んでたから・・・まるっきり普通のオヤジみたい。」

 「・・・起こして何か聞いてみろよ。っていうか、お前も何も感じないのか?おそらくアイツらが・・・鬼が絡んでるのかと思ったけど・・・。」

 「んー、別に、何も感じないけど・・・。何か感じるものなの?」

 「俺に聞くのかよ!普通、そういう能力者って、なんか感じる力とか、あるじゃん?」

 「あー・・・私には、ないみたい・・・寝てるところ見ると、鬼丸もかな?」

 「・・・もう、いいよ。とにかく起こして事情を話してみろよ。なんかわかったら連絡くれ。じゃあな。」

 清明はこちらの返事を待たずに通話を切った。なんか、不機嫌。

 私は伸びをしながら起き上がって、カーテンを開ける。今日もいい天気だ。すごい寝相で寝ている鬼丸を起こすと、鬼丸もかなり眠たそうだった。

 「・・・なんじゃ・・・もう少し寝かせてくれてもよかろうに・・・。」

 ぐずぐず言ってる鬼丸に、清明から聞いたことを話す。ラインも確認してみたが、清明の言っていたとおり、電気関係のトラブルで全館停電になっているらしい。

 「・・・ふむ・・・何やらきな臭いのう・・・。」

 鬼丸はまだ寝ぼけているようだったが、なにやら考え込むようにそう言った。

 「あ、やっぱり何か感じるの?」

 「いやいや、そういう意味じゃない。『怪しい事が起きたな』という意味じゃ。昨日も話したが、鬼はこの世の中にもたくさんおる。いちいち何やら感じていたら、到底身が持たんよ。もっとも、朱点のような大きい力が動き出せば、話は別じゃがの。」

 「なるほど・・・そういうもんなのね。」

 「そういうもんじゃよ。」

 二人で階下へ降りると、母も今起きたばかりのようだった。お酒のせいなのか、疲労のせいなのか、いつにも増して具合が悪そうに見える。

 「おはよう、今日、臨時休校だって・・・。」

 そう言って、母に学校からのラインを見せ、清明から聞いた話をした。

 「・・・アイツらのせいと決めつけることもできないけど、大の大人が二人も仕事中に行方不明、っていうのは、普通に考えてもおかしいことよね・・・。それで・・・お父さんからは、やっぱり応答がないの?」

 「・・・うん・・・。今のところ、ないみたい。今日もまた試してみる気ではいるけど・・・。ところで、今日、仕事は?」

 「ああ、体調不良で休んだわ。さすがに仕事する気にはなれないもの・・・。」

 「そうだよね・・・私も、休みで良かったかも。」 

 それからコーヒーとシリアルで体を本格的に目覚めさせた。私が朝から空腹感を覚えるなんて珍しいことだと思うけど、それ以上に鬼丸の食欲には驚かされた。

 「鬼丸って、食べたり寝たりしなくていいんだよね?」

 私はつい、そんなことを聞いてしまった。

 「うん? まあ、一緒に生活するなら合わせた方が良いじゃろ。もちろん必要はないんだが・・・。」

 鬼丸は悪びれもせずそういうと、三杯目のシリアルにミルクを掛けた。

 私は母と顔を見合わせる。口には出さないけど、家計のためにもずっと刀のままにしておいた方がいいのかも知れない、と、二人とも思っていたに違いない。


 その頃、清明は自分の部屋でパソコンのモニターを見つめていた。昨日は戻って来てからずっと、「鬼」にまつわるおとぎ話や民間伝承を片っ端から調べていたのだ。調べてみると、鬼と人間の関係性は、鬼丸の言う通り非常に密接と言える。「魂」という漢字にも「鬼」が入っているくらいだから、考えてみれば当たり前なのかも知れない。

 それに、鬼にもいくつもの種類があった。善から悪まで、その振り幅は非常に広く、中には「神」として正式に神社で祀られている鬼までいた。もっとも、やはり「人に災厄をもたらす者」という描写が、圧倒的に多くはある。

 それから、「鬼」と呼ばれる存在にも、数多の種類がある。清明はそれぞれそれを分類し、鬼にも5つの型がある、と結論付けた。

 一つは、民間伝承の地霊や祖霊が「鬼」となったもの、秋田のなまはげなどがそのいい例だろう。さらに、天狗や蔵王権現を始めとした、山岳信仰系の鬼、夜叉や羅刹、地獄の鬼といったような、仏教における悪魔的、あるいは人を戒めるための存在として位置づけられた鬼、そして、人為的要素の強い鬼。盗賊や凶悪な犯罪者が「鬼」と称され、恐れられた場合と、元は善人だったが、怨嗟や憤怒によって鬼へと変わってしまったような場合だ。

 同じように、渡辺綱についても調べてみた。有名なのは酒呑童子と茨木童子の逸話だろう。源頼光の配下として、金太郎のモデルになったとされる坂田金時らとともに、それぞれの鬼を退治、あるいは追い払って、時の帝に感謝される、と言ったような内容だった。いくつもの時代、多くの作者によってこの時の話が語られているが、どの作品にも「髭切」「鬼丸」「鬼切丸」と言ったような名刀の描写があった。

 「結構、有名なんだな・・・。」

 清明は、今まではさして興味も持たずに生きて来ていたが、鬼は現代の生活にも影響を及ぼしている。「鬼盛り」「鬼熱い」などの言葉は、同世代の人間も日常的に使用しているし、毎年節分には豆まきも恒例行事となっている。そういえば、渡辺姓の者は、節分に豆まきをしなくても鬼が寄ってこない、という話も出て来ていた。渡辺綱の鬼退治により、鬼は渡辺姓の人間を避けるのだ、と言う。

 気が付くと、夜はとっくに明けていた。清明はさすがに疲れを覚え、メガネを外して目頭を強く抑えた。その時、通知音と共に学校からのラインが送られてきて、那津に連絡を入れたのだった。

 もしかしたら、昨夜のうちに何か動きがあったかも知れない、と期待したが、那津の返答は大きく期待を裏切るものだった。

 「何も気付かない、とか、有り得ないだろ・・・。」

 清明は、今回の警備員の失踪事件が、間違いなく「鬼」の仕業によるものと、半ば確信していた。鬼について調べていく中で、その手の話はゴマンとあった。いわゆる「神隠し」というやつだ。大体、学校内という限られた場所で、警備を仕事にしている男二人が揃って一晩のうちに行方不明になるなど、普通に考えられる話ではない。

 清明は急に脱力感に襲われ、椅子から降りてベッドに寝転がった。目を閉じると、軽い眩暈とともに、昨夜の光景が瞼の裏に蘇る。目の前に、那津のしなやかな裸体があった。白くて、柔らかそうで、この世にこんなに美しいものがあったのかと、瞬間的に思った。

 こちらを振り向きかけた時にチラッと見えた胸の膨らみと、その頂点に位置する桃色の部分・・・。

 「忘れろったって・・・無理だろ・・・。」

 勃然としてきた自分を恥じながら、清明は眠気を押して起き上がった。

 その時、家のチャイムが鳴った。もしかして、連絡を受けて那津が来たのかも知れないと思い、一瞬心臓が高鳴ったが、応対に出たらしい母親の声で、その思いはかき消された。

 「あらぁ、博正くんじゃないの!まぁ・・・立派になったわねぇ!」

 清明が玄関に降りていくと、母と博正が笑いながら話をしていた。母の肩越しに博正がこちらに気付き、片手を挙げている。

 「よっ!清明!久しぶりだな!」

 約6年ぶりに会う博正は、かなり身長が伸びていて、髪型も「タラちゃんカット」からふわっとパーマを掛けたような長髪に変わっていた。いかにも人懐こそうな笑顔はあの頃と変わらず、笑うと目がなくなるように見えるのも、昔のままだった。

 「おう、久しぶりだな!帰って来るって、昨日の今日でかよ!」

 そう言いながら、清明もまた、笑顔で博正を出迎えた。幼稚園から小学校高学年まで、毎日のように遊んだ親友との再会は、こんな状況でもやはり嬉しいものだ。

 「なんか、たくさん頂いたわよ!お礼言ってね!そうそう、博正君、玄関で話もないから、遠慮しないであがって!」

 「すみません・・・朝から・・・。」

 そう言いながら上がって来た博正は、同じ廊下に立つと清明よりもかなり身長が高くなっていた。玄関ではほぼ同じ目線の高さだったが、頭一つ分くらい、差がありそうだ。

 「お前・・・だいぶ伸びたな!」

 清明は驚きを隠せない。それに、ふわっと何とも言えないいい匂いがする。香水か何かを付けているらしい。

 「そうなんだよ・・・14歳の夏に一気に20cmくらい伸びちゃってさ、自分でも驚いてるよ。」

 二人で廊下を歩きながらそんな話をして、リビングへと向かう。母は飲み物の支度をしているらしかった。

 「ここに来るのも、6、7年振りだよな。変わってなくて嬉しいよ。」

 博正がそう言って、部屋を見回す。

 「おかげさまで、何も変わってないよ。お前の方は?」

 「うーん・・・自分ではあんまり意識してないけど、結構変わったかな。前の家はもうないから、この先のマンションに引っ越したんだよ。まだ荷ほどきもしてないけど。」

 「この先って・・・昔文房具屋だったところのマンションか?」

 「そうそう!あそこでよく買い物したよな!マンションになっててびっくりしたけど、ちょうどいいかな、と思って。」

 「あそこ、賃貸じゃないだろ?」

 「ああ、そうだよ。買ったんだ。」

 「買った!? お前が?」

 「まあ、そうなるかな。名義はもちろん親だけどね。」

 「相変わらず・・・世間離れしてるよなぁ。」

 一緒に遊んでた頃からそうだったが、博正は家族ともども浮世離れした感覚の持ち主だった。と言って、金持ちを嵩にかけるようなところは全然ない。何度もお互いの家を行き来して遊んでいたが、両親ともにいつも笑顔で迎えてくれたし、見たこともないような茶菓でもてなされた記憶がある。

 「そうそう、そういえば、正式に平安高校の二年生に編入することになったから、またよろしく頼むよ。それと、那津は元気?」

 なるほど、そういうことか。そういえば、昔から博正は那津のことが好きだった。ここに来たのも挨拶がてらの情報収集、ということらしい。

 「マジか。向こうで大学まで出たんだろ? なんで今更、高校通うんだよ?」

 那津のことには、あえて触れないで答えた。

 「あ、ああ、大学卒業したって言ったって音大だからね。音楽のことならともかく、普通の勉強なんかほとんどしてないから。」

 「まあ、そりゃそうだろうけどさ。音楽で食べていけるんだから、それでいいんじゃないのか?」

 「うん・・・確かに生活はしていけると思うんだけど、ほら、まともに学校生活って送れてないから。向こうでも同世代の友達なんていないしね。みんな年上ばっかりで・・・。やっぱりこう、人並に学校生活はしておきたいなー、って。」

 「なに、青春を楽しみたいってやつ?」

 「まあ、そんなもんだよ。」

 そう言って、二人は笑いあった。この辺りの息は相変わらずピタっと合う。

 「で、どうなの? 清明は彼女とか、できた?」

 話を戻そうと、博正も必死だ。その考えは手に取るようにわかる。ここで那津と付き合ってるとか言えたら、どんな顔するのか、見てみたい気もする。

 「いやー、そんなの全然だよ。こっちは身長も止まったし、ルックスもこの通りだし。彼女要素どこにもないよ。そっちこそ、向こうで金髪の彼女とか、できたんじゃねーの?」

 「まあ、確かに、何度もデート誘われたし、メールとかやり取りした子もいるけど、彼女にした子はいないよ。だって、全員年上だぜ?」

 博正のいいところ、というか、悪いところ、というべきか、平気でこういう発言をしてくる。もっとも、本人に悪意は全くない。見たこと、感じたことを、そのまま口にするだけで。

 「うらやましい環境だよなぁ。そういえば、昔からモテモテだったもんな。」

 事実、博正は幼稚園の頃から数多くの女子を夢中にさせた。時には、その保護者や教師までが、博正に並々ならない好感を寄せることもあった。

 「そうかな? まあ、そうだとしても、気になった子に振り向かれたことは一度もなかったよ。」

 わかるぞ、わかる。そこで「それは誰?」って聞かれたいんだよな。だけど、そうはいかない。少なくても、俺をダシにはさせない。

 「それが現実だよ。博正も人並みに苦労してみろよ。この年代の男子はみんな、同じ悩み持ってると思うぜ?」

 博正は、露骨にがっかりした様子を見せた。さすがにちょっとかわいそうな気がしてきて、那津の話を持ち出す。

 「そうだ、博正が帰ってくるって、昨日、那津に伝えたんだよ。那津も喜んでたぜ?」

 実際の反応とはちょっと違うが、まあ、これくらいは許されるだろう。予想通り、博正は急に眼を輝かせて、身を乗り出してきた。わかりやすい。

 「そ、そうなんだ? なんて言ってた?」

 前のめり過ぎて、テーブルに膝をぶつける音が聞こえた。

 「あー、なんて言ってたかな・・・通学途中にさらっと話しただけだから・・・。なんだったら、直接会いに行ってみるか?」

 「え! えぇっ! 今から!?」

 今度は大袈裟にのけぞって驚きを示す。今時、ドラマだってそんな露骨な反応しないが、博正にとってはいつものことだ。

 その時、母が紅茶と焼き菓子を手に、リビングに入って来た。

 「ずいぶんと話が盛り上がってるわね。これ、早速だけど頂いたお菓子。一枚先に頂いたけど、とっても美味しかった!」

 博正は情けないような愛想笑いを浮かべてる。さぞかしタイミング悪いと思ってることだろう。

 「それは、良かったです・・・。」

 「で、ご両親はお変わりないの? たまにテレビなんかでご活躍は拝見してるけど、あれっ切りご無沙汰になっちゃって・・・。」

 そこからは母のターンだった。あれやこれやと、次から次へと話題が移る。時折、博正からの目配せにも気付いていたが、知らないフリで紅茶とお菓子を楽しんだ。なるほど、確かにうまい。

 母がパートに出る時間が迫って来た。この辺でもういいだろ。

 「母さん、そろそろ出掛ける時間じゃないの?」

 ハッとした母親は、博正に「ゆっくりしていってね」と告げると、準備のためにリビングを出て行った。

 「・・・おばさん・・・相変わらず話好きだよね。」

 ポツンと博正が言ったのを聞いて、たまらず噴き出してしまった。


 結局、シリアルが空になるまで食べ尽くした鬼丸が、テレビで朝の情報番組を興味津々で眺めていた。まだ調子が出ない母親に休むように促してから、私が食器の後片付けをしていると、鬼丸がリビングから声を掛けてきた。

 「お那津!『板』が何か言っとるぞ!」

 鬼丸はスマホのことを「板」という。教えたが、覚える気はなさそうだった。私は手を止めてスマホと取ると、着信はまたも清明からだった。

 「はいはい、また何かあった?」

 「おぉ、実は家に博正が来ててな。那津に会いたいんだって。」

 そう言った電話の向こうで、「あ、会いたいなんて言ってないだろ!」と言う声が聞こえてきた。声は変わってるけど、話し方で博正とわかる。

 「そうなんだ?お母さんが体調良くなくてまだ寝てるから、30分後にミッキーDでどう?」

 清明が了承して、みんなで会うことになったのはいいけど、鬼丸はどうしたらいいだろう。鬼丸にそのことを尋ねると、どうもハンバーガー自体に興味が湧いたようだ。私の経済状態から考えても、刀にしてカバンに入れていこう。

 鬼丸が短い刀で良かった、と思ったが、持っているリュックではどうしたってはみ出してしまう。仕方なく、クローゼットの奥からスポーツバッグを取り出して、何枚かの洋服で隠すように鬼丸をくるんで持っていくことにした。

 ミッキーⅮは大通りに出て少し行った先のショッピングモールにあった。平日の午前中だと言うのに、駐車場にはそこそこ車が止まっている。

 時間より少し早く着いたはずなのに、入り口の前には清明と博正がもう着いて待っていた。

 「ごめんごめん、待たせちゃった?」

 小走りに近付いていきながら、二人に声を掛けた。

 「全然!全然、今着いたとこ!」

 私が言い終わるか終わらないかのタイミングで、博正が両手を大きく振りながらそう言った。話し方や素振りは確かに博正だけど、背がものすごく高くなってるし、声も記憶してるより低くなっていた。髪型もなんだかおしゃれになっていて、別人を見ているような気がする。

 「うわー、博正!背伸びたね!今、何cmあるの?」

 「あ、180cmちょうどで止まったみたい。那津も、見違えた!すごく大人っぽくなったね!」

 そりゃそうだ、と思ったけど、悪い気はしない。

 「とりあえず、中、入ろうぜ?」

 清明が落ち着いて入り口を促した。博正が先頭で店内に入っていくのを見ながら、清明が目配せしてくる。恐らく、場違いに大きなバッグについてのことだろうと思ったので、私も目配せで鬼丸を持ってきていることを告げた。清明が小さくうなずいたので、うまく伝わったみたい。

 3人で注文を済ませ、それぞれトレーを手にして席に着く。食べたり飲んだりしながら昔話と最近の出来事について、話が弾んだ。博正が平安高校に正式に編入したこと、高校に通いながら、楽団で音楽家としての活動もすること、近所のマンションで一人暮らしを始めたことなんかも、その時に聞いた。

 久しぶりに合っても、昔と変わらない雰囲気がとても心地いい。博正がおどけて、清明がまじめに突っ込み、それを見て私が笑い転げる。それぞれ大きくなったけど、やっぱり幼馴染って、変に肩肘張らなくていいし、昔から知ってる、ってだけで自然と打ち解けられるものがある。

 「そういえば、学校の停電って、直ったのかな?」

 唐突に博正が話を切り出した。博正は本来なら今日から学校に来る予定だったらしいが、停電騒動で初当校は来週に持ち越されていた。

 「まあ、直ってなくても、土日もあるし月曜には普通に登校できるだろ。」

 清明が話題を終わらせようと、ごくさりげない感じでそう言った。平静を装っているが、内心ドキッとしたことだろう

 「僕、まだ学校見てないんだよね。様子見がてら、今から行ってみようよ。通学ルートも知りたいし。」

 博正は清明の気遣いを、物の見事に粉砕した格好だ。とは言え、学校の様子は私も気になるし、清明はもっと気になっているに違いない。私と清明は無言で顔を見合わせた。どう返答したものか、お互いに探りを入れている感じだった。もちろん、私はそういう判断には疎いので、すぐに視線を外して清明に丸投げした。 

 「あ・・・ああ、じゃあ行ってみるか。ここからでいいだろ?」

 好奇心の方が勝ったようだった。

 「うん、それで大丈夫。」

 博正がみんなのゴミをまとめながら返事をした。すぐにでも行きたいようだ。時計を確認すると、時刻は3時を少し過ぎたところだった。

 「そうだ、那津、あの親戚の子、一人で留守番なんじゃないのか?なんだったら、連れてきたら?」

 清明が急に私に話を振って来た。一瞬、何を言ってるのか理解ができなくて、気まずい沈黙が訪れたが、清明の必死の目配せで、鬼丸のことだと気が付いた。

 「あ! あー、そうね! そ、それがいいかも! うん!」

 博正が何か言いたそうだったが、言葉が口に出る前に、続けた。

 「じゃあ、私一回家に帰って連れてくるよ!二人は大通りの交差点で待ってて!」

 「そうだな!そうしよう!」

 なんだか二人だけの学芸会みたいな不自然さだった。私はそそくさと立ち上がり、じゃあ大通りで、と二人に告げて、足早に家路に着いた。自分の部屋まで戻って、鬼丸を人の姿に戻す。カバンの中で事情を聴いていた鬼丸はすぐに了承したが、さすがにこの服装では目立ちすぎる。そこで、私の子供の頃の服で、それっぽいものをいくつか引っ張り出して鬼丸に着替えさせた。靴だけはどうしようもなかったので、家のサンダルを履かせる。

 「なんだか落ち着かんのう・・・。」

 鬼丸は自分の着ている服をしげしげと見つめながら、不満げなつぶやきをしていたが、今はあまり時間がない。

 「ごめん、落ち着かないと思うけど、明日にでも新しいの買うから、今日はそれで我慢して。」

 私は鬼丸をなだめて、待ち合わせをした大通りの交差点へと向かった。鬼丸は時々つまずきながらも、何とか転ばないで着いて来ていた。

 「紹介するね、この子は親戚の子で・・・」

 そこまで言って、固まった。まさか『鬼丸』と紹介するわけにもいかない。名前を考えるのを忘れていた。清明がやれやれ、と言うように俯いて首を振っている。

 「鬼丸じゃ。よろしく頼む。」

 私も清明も、思わず飛び上がりそうになった。が、博正は鬼丸以上に空気を読まない存在だと言うのを忘れていた。

 「へー、珍しい名前だね!僕は、大胡博正。よろしくね!」

 ニコニコと、何事もなかったように鬼丸に手を振っていた。

 「じゃ、じゃあ、行くか!」

 清明が上ずった声で出発を促した。確かに、これ以上二人で話されてるといろいろと神経が持ちそうにない。

 こちらの心配をよそに、博正は鬼丸よりも久しぶりに見る地元の変貌に驚いている様子だった。あそこはスーパーだったとか、本屋だったとか、そんな話をしているうちに、あっという間に学校へと着いた。

 清明の話は、正しかったようだ。ここから見える職員室では蛍光灯が明々と灯っていて、中では数名の職員が何かの作業をしているのが見えた。それに、正門前にはパトカーが止まっており、敷地の中にもパトカーと警備会社の車両が数台、止められている。見慣れないバンやトラックも止まっているが、いずれもどちらかの関係車両だろう。

 「あれ、なんかパトカー来てるね。何かあったのかな?」

 博正が聞いてきたが、二人とも「さぁ」という風に首を傾げて誤魔化した。その時、清明が私の腕を叩きながら、「おい、あれ!」と敷地の片隅を見て呟いた。

 清明の視線の先を見ると、帽子を目深に被った人影が、日除けのための樹木の陰から教室棟を覗き込むようにしているのが見えた。まもなく6月だというのに、コートを着ているのもおかしい。見れば見るほど、怪しい感じがする。

 「あ、なんだろ、あの人。行ってみよう。」

 博正は私たちが止める間もなく、そちらに向かって走り始めた。いかにも怪しい感じなのに、博正にはそういう危機観念まったくなかった。そういえば、子供の頃にもこんな感じで危うく溺れかけたことがあったのを思い出した。その辺は大人になってない。

 「あ、待てよ!」

 清明がそう言った時には、博正は10mも先に行っていて、振り向きもせずに人影の方に向かっている。

 私も清明も慌てて後を追ったが、慣れないサンダル履きの鬼丸は走りにくそうだ、と思っているうちに、派手に転んだ。

 「鬼丸!」

 私が手を差し出すと、鬼丸は一つうなずいて刀へと形を変えた。私は鬼丸をつかみ取ると、振り向いて二人を追い掛ける。博正はもう50m近く先を行っている。私は走る脚に力を込めた。自分でも驚くほどに速く走れる。あっという間に清明を追い抜き、間もなく博正に追い付く、というときに、人影がこちらに気付き、踵を返して走り始めた。走り始めこそ速かったが、そのスピードはすぐに落ち、やがて脚を引きずるような歩行に変わった。大きく肩で息をしているのが、後ろからでもわかる。

 「待ちなさい!そこで何をしてるの!」

 私は博正を追い抜いたところで、人影に大声で呼び掛けた。人影はギョッとしたように立ち止まると、こちらに向き直り、構えた。

 コートの前襟を立て、手には手袋までしている。帽子で表情までは見えないが、口元は大きなマスクを着けているのが見えた。

 「誰!学校で何をしてるの!」

 私も立ち止まり、いつでも鬼丸を抜けるように柄に手を掛ける。そこに博正と清明が追い付いて来て、私の横に並ぶ。

 「ま、待ってくれ!あ、怪しい者じゃ、ない!人を、探していた、だけだ!」

 声からして、高齢の男性のようだった。身長も高いし、スッキリとしたスタイルだったから、てっきりもっと若いものだと思っていた私は、意表を突かれた。少し走っただけなのに、呼吸が苦しそうで、荒い呼吸をしながら、ようやくそれだけを言ったが、息を整えるのに苦労をしているようだ。

 「誰を探してるか知らないが、今日は学校は休みだぜ!」

 清明も呼吸を整えながらそう言った時、空間がグラッと揺らいだ。

 「ま、まずい!」

 誰よりも早く、怪しい男がうろたえて、周囲をキョロキョロと見回す。周囲の景色が、見る見るうちに色を失っていく。直線で構成された建物などが不規則な曲線へと変わっていった。

 「あいつらが来るぞ!ひと固まりになって、姿勢を低くしておけ!」

 怪しい男が、私たちにそう警告して、手袋を外し始めた。その手は骨と皮ばかりに痩せ、色がどす黒い紫色に変色している。ゴツゴツとした指の先には、驚くほど分厚い、まるで猛禽類のような爪が鈍く光を放っていた。

 ふいに、遠くから太鼓を叩くような音が聞こえてきた。時に速くなり、時にゆっくりと大きく、その音が不気味に響き渡る。

 その音が聞こえてくる方向から、蜃気楼のようにゆらゆらと近付いてくる影があった。小さいが、数が多い。 

 「来たっ!みんな、私の後ろに!」

 男はそう言うと、私たちを後ろ手で庇うように、近付いてくる影の前に立ちはだかる。私は清明と博正の前に立ち、ゆっくりと刀を抜き払う。

 「な、那津!危ないよっ!」

博正が私の肩を掴んで引き戻そうとするのを振りほどいて、前へ進み出た。

「清明!博正をお願い!」

私はそう言って、もう一歩前へ出て、怪しい男に並んだ。と、同時に、揺れる影が完全に実体化し、一体、また一体と姿を現す。思った通り、小さいが数が多い。まるで荒削りの木製の鬼の面のように見える、体に比べて顔の大きな鬼だ。

合わせて10体が実体化し、体を揺すって今にも飛び掛かろうと膝をたわめた。

私は鞘を口に咥え、両手で鬼丸を持つ。前回のような強い衝撃はなかったが、両手の甲にこの前と同じ、稲妻のような模様が浮き出ている。

その時、隣にいた男が、素早く前に出て、地面を掃くように右手を振るった。10体の鬼は、それぞれ左右に飛んでそれを避けようとしたが、中心にいた一体はその右手をもろに受け、顔面をざっくりと切り割られていた。男はすぐに向きを変え、左に飛んだ鬼の背中に左手の斬撃を見舞う。鬼は胴体をほぼ両断され、地面にボトリと落ちると、その動きを止めた。

私は右に飛んだ一団に後ろから襲い掛かり、そのうちの一体の背中に切りつけた。手ごたえは浅かったが、鬼は傷口からどす黒い霧を噴き出して、消えていった。

一瞬の出来事に、小さい鬼たちは恐慌を来たしていた。遠巻きに二人を取り囲むようにして、距離を開ける。中には顔を見合わせて、逃げ出す者もいた。これで、残りは4匹となった。

その時、小さい鬼が逃げ去った辺りに、新たな揺らぎが影となって現れ始める。今度のは、大きい。

視線を怪しい男に向けると、男は先ほどよりも荒い呼吸をしており、今にも倒れそうに見えた。帽子とマスクで、相変わらず表情は読み取れないが、苦しそうなのが容易に見て取れる。

そうしている間にも、大きな影が実体化してきて、とうとう姿を現した。身長は3mは優にあるだろう。ボロボロの衣服をまとってはいるが、その上からでも、驚くほどに筋骨隆々なのがわかる。おまけに、右手にゴツゴツしたこん棒のようなものまで持っていた。

大きな鬼の登場で、小さい鬼たりがにわかに活気づく。まるで勝ちを確信したかのように、小躍りして喜んでいるようなのまでいる。

「ごおっ!」

と、大きな鬼が一声吠えた。空間がビリビリするような、重く響く声だった。やにわに、大きな鬼は手にしたこん棒を振り上げ、私たちのいる地面に叩きつける。すんでのところで左右に分かれて飛び、その一撃を避けることができたが、私は着地に失敗し、背中から地面に叩きつけられる格好となった。肺から空気が押し出され、目の前がチカチカした。気が付いた時には、鬼丸が手から離れていた。慌てて探すと、1mほど先の右の地面に鬼丸が見える。私は必死に呼吸をして、鬼丸に手を伸ばしたが、その時、大きな鬼がこちらに向かってさらにこん棒を振り上げているのが横目に見えた。気が付いた時には、完全に手遅れだった。

『やられたっ!』

そう思って固く目を閉じたが、衝撃は襲ってこなかった。

目を開けると、すぐ目の前に怪しい男の背中があり、両手で下から支えるように、大鬼のこん棒を押さえているのが見えた。

「刀をっ!拾えっ!」

私はハッと我に返り、右に飛びながら鬼丸を拾った。男はそれを見届けると、左に大鬼のこん棒をいなして、私の前に転がるようにして大鬼との距離を取ったが、容易に起き上がることができないでいるようだ。帽子が取れ、もつれた長髪が露わになった。その髪の毛は血で濡れていた。恐らく、支えようとして支えきれなかったのだろう。

私は今度こそしっかりと鬼丸を握り、男の陰から飛び出すようにして飛び上がった。勝利を確信して近付いて来ていた大鬼の頭が、足下に見えた。まるで信じられないものを見た、というように、あんぐりと口を開けていた大鬼の脳天に、渾身の力で鬼丸を叩きつける。大鬼は頭の先から突き出た腹までをしたたかに切り下げられ、パクパクと口を動かしていたが、やがて黒い霧に包まれるようにして姿を消した。私は小鬼の方へ振り返り、続いて飛び掛かろうとしたが、固まっていた小鬼たちが弾かれたように逃げ出し始めたのを見て、ホッと息をついた。いつからか、呼吸を止めていたようだった。

その瞬間から、周囲の景色が元に戻り始めた。元の色と形を完全に取り戻す。

「那津!大丈夫か!」

清明がそう叫びながら、走って近付いてくるのが見えた。その向こうで、博正が放心状態で座り込んでいる。私は振り向いて、仰向けに倒れている怪しい男の前に座り込む。息苦しそうに見えたので、まだ口に掛かっているマスクを外すと、今度こそ、その男の顔が露わになった。まるで、骸骨だった。落ちくぼんだ眼窩に光る眼こそ、人間のものだったが、頬は完全にこけ、鼻は異様な角度に曲がっていた。口には唇がなく、むき出しの歯ぐきから、人間の物とは思えない長い牙が、いくつも見えた。

驚くほどに醜く、一度見たら決して忘れることのない顔だった。

だけど・・・。私にはわかった。この人は、私の父親だ。

私は、鬼丸を人の姿にした。鬼丸も茫然と、仰向けに倒れている男を眺めている。

「お・・・おいたわしや・・・伊織殿・・・。」

 絞り出すように鬼丸がそう言い、私の隣に座り込む。

 大男は・・・お父さんは鬼丸と私を交互に見て、力なく何度もうなずいた。

 「お・・・お父さんっ!」

 なんでかはわからなかったが、私の両目から涙がどんどん溢れてくる。頭部への一撃は、両手で支えても致命傷になるほどの衝撃だった。倒れている私を庇いさえしなければ、こんなことには・・・。

 「な・・・那津・・・お、大きく、なった、な・・・。」

 父の、そこだけが人とわかる瞳から、大粒の涙が流れ出てくる。父は、左手で私の顔に触れようとして、直前で思い直し、手を引っ込めた。まるで、この手では私に触れる資格がない、とでも言うように。私はその手を両手で包み、自分で私の頬に触れさせた。ゴツゴツと固くて、まるで木材を肌に当てたかのようにザラザラしていたが、大きくて、温かい。

 「ご・・・ごめんなさい! こんな・・・こんな・・・。」

 私は何かを言おうとして、その何かが言い切れなかった。生まれて初めての感情が、いくつも折り重なって、ぐちゃぐちゃになっていた。

 父は、力なく首を横に振りながら、とても優しい目で私を見つめる。

 「だい、じょうぶ・・・那津は・・・よく、やってる。す、すまない・・・お前・・・にまで・・・。」

 自分の力の無さから鬼を取り逃がし、役目を娘に引き継がざるを得なかった父の悔恨が、無念が、痛いほどよくわかる。言葉にはならなくても、感情が伝わってくる。

 「す・・・朱点は・・・つ、強い・・・ひ、一人では・・・!」

 そこまで言うと、父は激しく咳き込んだ。咳をするたびに、口から血の泡が流れ出てくる。

 「お父さん!もう喋らないで!お、鬼丸!なんとかできない!?」

 私は両手で父の手を強く握りしめながら、鬼丸に懇願した。鬼丸は辛そうに、ゆっくりと首を横に振る。清明が父の頭の後ろに手を当てて、上体を少し起こすようにすると、咳はやがて収まり、呼吸も少し楽になったようだった。

 「コ、コートの・・・ポケット・・・」

 父が私の手を離し、コートの左ポケットを探ろうとして、見つけることができないように左手を宙に彷徨わせている。私はそれに代わって、左手でコートのポケットを探ると、「72」と書かれたキーホルダーの着いた一本の鍵を見つけて、父に見せる。

 「これ?」

 父はうなずき、鍵を指差す。

 「え、駅の・・・ロッカー・・・な、那津に・・・た、頼む・・・。」

 「わかった!わかったから!もう喋らないでってば!」

 父は、口元を歪めて首を振った。もう助からない、と言っているようだった。

 「ダメ!ダメだよ!私、ひとりじゃ・・・・。」

 「仲間・・・見つけ・・・じ、準備・・・しろ・・・。」

そこまで言った時、父が激しく痙攣を始めた。瞳が大きく見開かれ、目、鼻、口、耳・・・あらゆる場所から鮮血が滴る。

 「い、いかん!真の鬼になってしまう!」

 鬼丸が悲痛な叫びを上げた。激しい痙攣の中で、父が私を指差す。

 「じ、時間がっ・・・わ、わたしを・・・刺せっ・・・!」

 こんなことが、あっていいのか。たった今、出会ったばかりの父が、実の娘にその命を絶てと、懇願しているのだ。

 「そ、そんなことっ!できるわけ・・・!」

 私は父から後ずさり、首を激しく横に振った。もう、気が狂いそうだ。

 「那津っ!お主にしかできんことじゃ!生き血が全部抜けたら、伊織殿は鬼になる!人の内に、止めを刺すのじゃ!」

 そういうと、鬼丸は命じもしないのに刀に戻って私の足元に転がった。私は現実を直視することができず、泣きながら激しく首を振っていた。

 父はもはや清明を振り払い、時折人のものではない唸り声を上げながら、私の足元に這いずり寄って来る。その様を、私は激しく震えながら見ているしかなかった。体が言うことを聞かない。その時、下から見上げた父の視線と、私の視線が絡み合った。そこに見たのは、間違いなく人間の憐れみを孕んだ眼差しだった。その目が、瞳が、「頼む」と言っていた。


 ふつん


と、音を立てて何かが切れた。私はやおら立ち上がると、鬼丸を引き抜き、その刃を父の背中に突き立てた。どこか遠くから、悲鳴とも雄たけびとも取れる叫び声が聞こえる。それを自分が発しているんだ、と気が付いたとき、私は真っ逆さまに倒れそうになり、人の姿になった鬼丸に、ギリギリのところで支えられた。

 私は、抱えられながら地面に座らせられた。清明と鬼丸が、父を仰向けに寝かせるのが見えた。清明がこちらを見ながら何かを叫んでいたが、その声は耳に届かない。だが一生懸命に手招きするのが見え、私は文字通り這いずるように、父の元へと向かった。

 今度こそ、死の静謐が父を包んでいた。顔や手が、人のそれに戻りつつある。急速に失われつつある命の灯とは逆に、呪いが解け、人としての「形」を取り戻していた。

 父が、ボーっとした目で私を見つめていた。その顔はひどくやつれてはいたが、安らぎを得た男の顔だった。

 「那津・・・ありがとう・・・辛い思いをさせてばかりで・・・済まない・・・。」

 父はそう言って、薄く微笑んだ。

 「だいじょうぶ。私は、だいじょうぶ。だから・・・ダメだよぅ・・・。」

 子供のように泣きじゃくる私を見て、父が優しく微笑みながら、うなずく。父の身体が、どんどんと形を失い、無数の光の粒へと変わっていった。

 やがてそれは、胸まで達し、胸元で握っていた父の手が私の手から零れ落ちるように消えた。そして、とうとう・・・。父は無数の光の粒になって、まるで蛍が群れで飛んでいるかのように空中へ舞い上がり、空へと消えていった。

 最期の、最後の瞬間に、私は父の口元が「八重」と呼び掛けていたような気がした。 

 その場所を、沈黙が覆っていた。父が消えたその場所から、私も、清明も、鬼丸さえも動くことができなかった。私の手には、コインロッカーの鍵だけが残されていて、私はそれを見つめていた。

 清明が最初に動き出したのが、気配でわかった。博正のことを思い出したらしい。次に鬼丸が、優しく私の肩に手を乗せてきた。

 「お那津・・・。」

 私は鬼丸を振り返り、救いを求めるように尋ねた。

 「わたし・・・おとうさん・・・ころしちゃった・・・。」

 鬼丸は、ゆっくりと首を振りながら、優しい声で私を慰めた。

 「そうではない、そうではないぞ・・・。お那津は伊織殿を救ったのじゃ。あのままにしておいたら、伊織殿の魂は鬼界に落ち、今度は鬼となって・・・朱点の手先となって、儂らに襲い掛かってきたことじゃろう・・・。伊織殿が・・・お那津の父が、それを望むと思うか?」

 私は黙って、首を振った。

 「そうじゃろう?伊織殿の呪いを解き、その魂に安らぎを与え、人が還るべき場所へ、お那津が導いたのじゃ。伊織殿の最期の顔を、安らぎに満ち溢れた父の顔を、忘れぬことじゃ。」

 私は少し迷ったが、やがて力強く、大きくうなずいた。

 これで、悲しむのは最後にしよう。父の思いを背負って、必ず朱点を葬ってみせよう。そしていつか、父に胸を張って報告するのだ。その時こそ、たくさんたくさん、褒めてもらおう。今度は、まごうことなき父の手で。

 私はゆっくりと立ち上がると、清明と博正の元へと歩き出す。その後ろを、鬼丸が飛び跳ねるように付いてきていた。

 博正は、完全にのびていた。いつから意識を失ったのかはわからないが、むしろこれでよかったのかも知れない。

 「とりあえず、移動するか。」

 そういうと、清明が博正の頬をピシャピシャと叩く。だんだん、その叩く力が強くなっていくと、やがて博正は意識を取り戻した。

 「あ・・・あ・・・。」

 目覚めた博正は、驚いたように周囲を見回す。やがて異常がないことにホッとしたのか、視線が定まり、正気を取り戻したように見えた。

 「あ・・・あれ、鬼丸くん、その恰好・・・。」

 言われてみて気が付いたが、鬼丸はいつの間にか元の狩衣に戻っていた。もしかすると、刀に戻すと服装がリセットされるのかも知れない。そうなると、鬼丸に貸した私の服はどうなってしまうのだろう。

 「プフッ!アハハハハ!」

 そんなことを考えた自分と、目覚めて第一声が「鬼丸の服装について」だった博正が、おかしくて、私は思わず吹き出してしまった。清明は、私が本当に気が触れてしまったと思ったらしい。当惑の表情でこちらを見ている。その顔がまたおかしくて、私はツボにはまった。極度の緊張と、深い悲しみと、それを乗り越えた決意と・・・確かに、短い時間にいろいろあり過ぎて、感情のコントロールが出来なくなったみたいだが、たぶん、まだ正気は保っていると思う。ギリで。

 「だ、だって・・・目覚めて最初の疑問が・・・そこっ??」

 私が説明して、清明も博正もおかしさに気が付いたみたいだった。キョトンとして三人を見回す鬼丸をしり目に、私たち3人は、転げ回るようにして笑い合った。

 ひとしきり笑って、笑いの渦が収まると、私たちは博正を抱きかかえるようにしながら、なるべく目立たないように敷地を出た。そういえば、この騒ぎでも誰にも見つからなかったっていうのが不思議だった。警察も警備会社も、すぐ近くにいたはずなのに。こんなことで大丈夫なんだろうか?

 私は、博正を清明にお願いして、今日は博正を清明の家に泊めてもらうようにした。あんなことがあった後で一人になったら、さすがの博正でも何か変調を来たすかも知れない。それに、倒れた時に頭を打った可能性もある。

 私は鬼丸と一緒に家に帰り、事の顛末を母に報告しなければ、と思っていた。

 母はどのように感じるだろう。悲しむのは間違いない。でも、結果的に私が手を下したと聞いた時の反応が、私には不安だった。重い気持ちで玄関を通り、リビングに入ると、母がソファに座って、泣いていた。「泣いていた」という形容は、おかしいかも知れない。虚ろに空間を見つめ、能面のような無表情の顔に、涙だけがとめどなく流れている、という方が、より正確だった。

 「た、ただいま・・・。」

 私は恐るおそる母に声を掛ける。ゆっくりと、ものすごくゆっくりと、母が私の方を向き、じっと無言で見つめていた。

 「・・・お父さんに・・・伊織さんに、会えたのね。」

 質問ではなく、断定だった。私は黙ってうなずくと、母の正面に腰を下ろす。鬼丸はソファの後ろに立ち、事の成り行きを黙って見ていた。

 「さっきね・・・お父さんが挨拶に来たの・・・。私、最初は夢だと思ったんだけど・・・。」

 そう言うと、母は堰が切れたように話し始めた。

 母は、午後になっても頭痛がひどく、薬を飲んで自室のベッドで横になり、うつらうつらとしていたらしい。ふいに人の気配を感じて起き上がると、目の前を一匹の蛍が飛んでいたが、捕まえようとして捕まえ切れず、蛍が進むままにリビングまで追い掛けてくると、そこに父が立っていた。

 「あの頃と変わらない、人を小馬鹿にしたような薄笑いを浮かべててね。」

 母が何かを問いかけようとするが、声が出せず、近付こうとしても体が動かなかったらしい。その様子を見た父が、さもおかしそうに笑い、なんだか腹が立った、と言う。

 そして、長い間苦労を掛けたことを詫び、那津を立派に育ててくれたことに感謝を述べ、これから那津に起こることについて、支えになるよう、頼まれたそうだ。

 そこで急激に目が覚めると、相変わらず自室のベッドで横になっていたらしい。夢でも会えたことが嬉しかった、と母は思ったそうだ。そして、喉の渇きを覚えて、何か飲もうとリビングに出てきた時、

 「お父さんがいつも着けていた香水の匂いがした。」

というのだ。ブルガリのブラックという種類のその香水は、今では廃盤になり、手に入れることはできないらしい。

 「だから、あー、夢じゃなかったんだって!」

 私も、そう思った。父は、母に会いに来ていたのだ。二人とも、笑顔で涙を流していた。ソファの後ろで、鬼丸が洟をすする音が聞こえた。

 「・・・でも・・・ああして会いに来た、ってことは・・・。」

 そう言うと、母は俯いて黙り込んでしまった。

 私は大きく息を吸うと、覚悟を決めてさっき起こった出来事を母に聞かせる。私が父に頼まれたとは言え、鬼丸を使って、父を刺したところまで。

 母は、じっと無言で私の話に耳を傾けていたが、話が終わると、やにわに立ち上がり、私の隣に腰を下ろして、私を強く抱きしめた。

 「あなたには・・・辛い思いをさせたわね・・・。でも・・・ありがとう!あなたはお父さんを救っただけでなくて、私のことも救ってくれたのよ。」

 私は母の胸の中で、赤子のように声を出して泣いた。母も私を抱き締めながら、泣いていた。長い長い時間、二人はただ抱き合って、泣くしかできなかった。

 どれくらい時間が経ったのだろう、気が付くと、辺りはすっかり暗くなっていた。私たちは泣き腫らした顔を突き合わせながら、お互いのひどい顔を見てひとしきり笑うと、いつもの二人に戻っていた。

 

 清明は家に帰ると、仕事から帰って来ていた母に、今日は博正を泊める、と告げた。母は大喜びしながらも、「ろくな準備をしていない」と急に慌て始め、父に追加の買い物を頼むか、何か店屋物を取るかで悩み始めた。

 「あ、お構いなく。急に勝手に決めちゃって・・・。」

 博正は恐縮してそう言い、さらに母を喜ばせた。

 「じゃあ、俺たちとりあえず部屋に行ってるから。夕飯の時に声掛けて。」

 清明は年甲斐もなく身を揉むようにしている母に呆れたようにそう言うと、博正を伴って二階の部屋へと上がった。

 「・・・さてと・・・さっきのこと、どれくらい覚えてる?」

 清明は博正にそう尋ねた。すぐに気を失っていたのなら、なんとか事実を誤魔化すことができるかも知れない、と考えたからだ。だが、博正はほとんど全部を見ていた。気を失ったのは、那津が那津の父を刺したところだったらしい。

 「衝撃的だった・・・あの、那津の声・・・あんなに魂を揺さぶられるような声を聞いたのは初めてだった・・・。ああいうのを『魂切る叫び』って言うんだろうな・・・。」

 博正らしい感想だった。視覚で得た情報より、聴覚で得た情報の方が優先になる。音楽家としての、博正の「才能の片鱗」なのかも知れない。

 「そっか・・・じゃあ、一から説明するよ。・・・とは言え、俺もまだ分からないことが多いんだ。なんせ、初めてが昨日のことだからな。そのつもりで聞いてくれよ?」

 清明はそう念を押してから、昨日からの出来事を話し始めた。博正は時にうなずき、時に大袈裟に驚きながら、話を聞いていた。


 那津は久しぶりに、母と二人で台所に立っていた。せっかくだから、今日は父のために二人で父の好物を作ろう、ということになったのだ。

 料理をしながら、那津は父のことについて母に尋ねた。今までは何となく気まずい気がして、聞いたことがなかったから。

 母は当時の様子を克明に覚えていて、父との出会いから、恋に落ち、私が生まれ、結婚してから離れ離れになるまでの話を、さして思い出すような素振りも見せずに語った。

 「え、じゃあ、私って、もしかして『できちゃった子』?」

 「まあ、順番的にはそうなるけど、間違いなく二人が愛し合ってできた子よ。『できちゃった』って言われるのは、当の本人にでも、やめてもらいたいわ。」

 当時大学生だった母と、その指導者の立場だった父。今なら、道ならぬ恋と世間に言われそうな話だった。

 話に花を咲かせながら、てきぱきと料理を仕上げていく。父が好きだったという玉ねぎなしのハンバーグ、豆腐の煮浸し、定番の肉じゃが。そして、煮干しダシを効かせたみそ汁。

 今日は、鬼丸の分も合わせて4人分を食卓に並べる。こんなに華やかな食卓は、いつ振りのことだろう。

 父のハンバーグには、母がケチャップでハートを描いた。何やら、さっきの母の話の中で、私には聞かせられない部分もあったようだ。それは、父と母でなく、伊織と八重、二人だけの話と言うことらしい。

 母と鬼丸と、そして姿は見えないが父との食卓をゆっくりと楽しんだ私は、鬼丸を連れて二階の自室へと戻った。時計を見ると、9時を過ぎていた。博正の様子はどうだろう?私はスマホを手に取り、清明に電話を掛ける。

 「あ、清明? どう、変わりない?」

 「ああ、こっち大丈夫・・・今、博正に経緯を説明してたところだよ。で、そっちは?おばさんには、話したのか?」

 「・・・うん。さっきまで。それで、二人でまた大泣きしちゃった。」

 「・・・無理もないよな・・・。それで・・・大丈夫か?」

 「うん。泣いたら、なんか少しスッキリした。クヨクヨするより、今はやらなくちゃいけないこともあるし・・・。」

 「だな・・・。とりあえず、明日、コインロッカー調べてみようぜ。」 

 「うん・・・そのつもり・・・。でも・・・。」

 「でも? なんだよ?」

 「・・・また清明たちを危ない目に遭わせるかも知れないから、ここからは私と鬼丸でなんとかするよ。お母さんも協力してくれるって言うし・・・。」

 清明の反応は激的だった。

 「はぁ? 何言ってんだよ! 今更それはないだろ! 俺も博正も、とっくに巻き込まれてるんだぜ? それに、行方不明の警備会社の人たちだって・・・。どっちにしろ、これからも通う学校で起きてることなんだから、無関係じゃないだろ。」

 「それは・・・そうだけど・・・。」

 「おじさんだって、一人じゃ無理だって言ってただろ? 仲間を探せって。今のところ俺たちは何の役にも立たないかも知れないけど、役に立つ場面が出てくるかも知れないだろ。それに、現実問題としてどっちにしろ危ないなら、お前の側にいるのが、一番危なくないって見方もできるんだぜ?」

 やっぱり、この手の議論で清明に敵うはずはなかった。清明の言ってることは、いちいちもっともだった。

 「そうだね・・・。博正も、それでいいの?」

 「もちろんだよ。って言うか、むしろ博正の方が頭に来てるみたいだぜ。」

 「そうなんだ? 博正が怒ってるのって、想像できないけど・・・。」

 「俺も初めて見たけど、鬼界の音が、博正は生理的に受け付けられないんだと。あんな音が蔓延る世界は、ごめんだってさ。」

 「あ、あー。・・・なるほど。博正らしいっちゃ、らしいね。」

 「だろ? とにかく、こっちはそういうことだから。」

 「うん・・・ありがと。博正にも伝えて。」

 「お、おう。じゃ、明日もあるから、お前も早めに休めよ? お前が倒れちゃ話にならないからな。明日は、10時くらいから動くか?」

 「うん、じゃあ、10時に清明の家に行くよ。それでいい?」

 「わかった。準備しておくよ。」

 そう言って電話を切った。清明や博正の思いは、とても頼もしいし、ありがたいけど、私の側にいるのが一番安全、なんてことは、ないと思う。だって、鬼の狙いは私と鬼丸なんだから。それに、清明や博正に何かあったら、二人のお父さんやお母さんは、どれだけ悲しむだろう。そう思うと、私は胸が締め付けられるような思いがする。

 私は私なりの覚悟を決めて、ベッドに横になった。

 何やら感づいた様子の鬼丸が、神妙な面持ちでこちらを見つめていたが、私は知らないフリをして、鬼丸に背中を向けた。

 

土曜日(3日目)

 翌朝、私は8時に家を出ることにした。鬼丸は昨日と同じように、刀にしてスポーツバッグに詰め込んだ。駅には交番もあるけど、見つかったらどう言い訳したらいいんだろう?

清明と博正には悪いけど、やっぱり私は一人で動いた方がいいと思った。学校でも、ちょっと距離を置こうと思う。むしろ、しばらく休んだ方がいいのかも知れない。

 玄関を出て、門から道路に出ると、私の家の塀に寄りかかっていた清明と鉢合わせた。

 「よお、どこ行くんだ?」

 「き、清明!何してるの?」

 「それはこっちが聞きたいな。まさか、一人で駅に行こうとしてたわけじゃないよな?」

 清明は肩に掛けたスポーツバッグをじっくりと見てから、私に視線を戻した。私はモジモジしながら俯くしかない。その様子を見て、清明がため息をついた。

 「はぁ、こんなことだと思ったんだよ・・・。いつになく素直だったからな、博正と交代で一晩見張ってたんだぜ?」

 そう言うと、清明はスマホを取り出して電話を掛け始めた。二、三言で電話を切ると、まもなく博正が清明の家から出てきた。

 「やっぱり。見張ってて良かったね。」

 博正が清明とハイタッチをして、ニヤニヤしながらこちらを見ている。

 「ごめん!私・・・。」

 「いいよ、お前がそう考える気持ちも、わかるんだ。これ以上人を巻き込みたくないんだろう? でも、俺たちは別だぜ。」

 「そうだよ。僕は・・・僕たちは、那津と一緒に戦いたいんだ。」

 「うん・・・。」

 「これで懲りたと思うけど、抜け駆けはもうなしで頼むぜ? こっちも毎晩見張るわけには行かないからな。こっちも那津を信用してるんだから、那津も俺たちを頼れよ、な。」

 清明が私の腕を叩き、これで終わりというように駅の方向に歩き始める。博正も、大きくうなずいて同じように歩き始めた。私も後を追って、三人で並んで歩く。

 土曜日の朝8時台ということもあってか、歩いている人はまばらだった。駅に向かう途中、清明が調べた鬼についての話や、私の御先祖の話を聞かされた。きちんと私の頭でも理解できるようにわかりやすく解説してくれるのがありがたい。それに、鬼にも吸血鬼のような弱点がいくつかあるのだ、という。もちろん実際に試してみないと効果は定かではないが、試してみる価値はあるだろう、ということだった。

 「面白いのがあってね、鬼は、綺麗な音楽が嫌いなんだって。特に、音の高い笛の音が苦手みたいなんだよ。もしかしたら、僕のフルートが何かの役に立つかも。」

 博正が興奮した様子で話し掛けてきた。

 「実際、あの鬼界の音ってのは、ひどいもんだった。太鼓のほかに何か金属的な音もしてたけど、リズムもテンポもめちゃくちゃだし、逆にどうしたらあんな不快なメロディが出来上がるのか不思議だよ。少なくても鬼ってのは、音楽的なセンスはゼロだね!」

 博正が、一気にここまで話すのも珍しいことだと思った。そんな様子を清明が愉快そうに見つめていた。

 駅に着くと、案内板を見ながらコインロッカ―へと向かう。券売機と駅事務所の向かい側に一か所、西口と東口のエスカレーターの近くにそれぞれ一か所ずつあることが分かった。

 とりあえず、一番近い券売機前のコインロッカーから当たってみることにしたが、ここには1番から56番までのロッカーしかなかった。と言うことは、目当てのコインロッカーは東西どちらかの出入口付近にある、ということだ。東口に向かうと、そこは57番から始まっている。コインロッカーの数からして、72番のロッカーはここにあるはずだ。

 「ここみたいだな」

 列の、中央からちょっと左寄り、一番下の、他のロッカーよりも少し縦長のロッカーに「72番」の表示があった。私は鍵を取り出すと、鍵穴にはめて、鍵を回す。カシャっという音とともに、コインが下におちる音が聞こえた。取手に手を掛けると、扉が開く。

 中には、小型のスーツケースと使い込まれたリュックサックが入っていた。

 取り出してみると、スーツケースもリュックも、ずしりと重い。中身は帰ってから確認することにして、私たちはそれぞれ荷物を持って、元来た道を引き返そうとした。

 「ちょっと待てよ。」

 清明がそう言って、財布からコインを取り出すと、72番のコインロッカーの鍵をまた掛けた。中には何も入っていないのに。

 「ほら。」

 そう言って、鍵を私に渡す。

 「え・・・?」

 「おじさんが最後に持ってた鍵だぜ?お守り代わりに持っておけよ。」

 本当のところ、私もそうしたい、と思っていたけど、次に使う人が困るだろうと思って我慢していた。

 「でも・・・。」

 「大丈夫だって。二、三日したら、紛失したことにして届け出るから。」

 「そうだよ。ほら、あそこにも『紛失の場合は3000円』って書いてある。つまり、鍵を無くす前提で作られているんだよ、このロッカーは。」

 その意見には、私も清明も賛同しかねた。でも、それくらいなら私にでも払える。お金で済ますみたいでちょっと後ろめたい気もするけど、これは手から手へ託された、唯一のものだし、これくらいは大目に見てもらおう。

 「それに・・・気付いてたか?その番号。」

 清明にそう言われて、あらためて鍵を見る。

 72番。最初は何のことか分からなかったけど、72つまり「なつ」だ。

 「・・・あっ!」

 「俺は、おじさんが偶然その番号を選んだとは思えないな。たぶん、那津のことを想ってあえて選んだ番号だと思うぜ。」

 そう言われると、このただの鍵が、なんだかとても大切な物のように思えてきた。そうか、お父さんが選んだ番号・・・。

 私は大きくうなずいて、鍵を上着のポケットにしまった。


 それから三人で、博正が住むことになったマンションに行くことにした。どっちにしてもこの先行き来することになるだろうし、中身がなんであれ、保管するのならマンションはセキュリティ面でも一番安全だろう、という清明の判断だった。

 一つ目の自動ドアをくぐると、インターホンと管理会社に連絡を取れる電話が設置された、未来的なデザインの台がある。鍵を持ってない人は、ここで部屋番号とインターホンを押して、中から開けてもらうのだという。博正は鍵を持っているので、特に何をするでもなく、二つ目の木目調の重厚な扉がスーッと勝手に開いた。

 「うわ・・・すげぇな。」

 清明が小声で呟くのが聞こえた。確かに、すごい。右の壁は一面ポストと宅配ボックスになっている。ここでは配送員が入ってこれないのでは、という私の疑問は、「そういうのはコンシェルジュがまとめて受け取って各部屋に配る」という博正の話で、すぐに解消された。その発言を裏付けるように、左には今は無人の受付台が設置されていた。

 エントランスの中央には周囲がベンチになっている植え込みがあり、小さめの樹木と色とりどりの花が植えられていた。奥は一面ガラス張りで、ヨーロッパ風の中庭から明るい陽射しが差し込んでいる。奥に進むと、右に二つの、これもいかにも高そうな応接セットがあり、左には四基のエレベーターが設置されていた。ところどころに卒業式なんかの時に演壇に飾るような、かなり大ぶりの花瓶と、いっぱいの花が生けられている。

 私と清明は、見るものすべてが珍しい、といように、落ち着かなくキョロキョロと周囲を見回していた。

 「こっちだよ。」

 博正に促されてエレベーターの一つに乗る。が、開くと閉まるのボタンはあるのに、階数を表示したボタンは見当たらなかった。博正が持っている鍵を検知して、自動でその階に連れて行ってくれるのだそうだ。他の階に行きたいときは、パネルを開いてテンキーで入力するらしい。これも、鍵がないとパネルは開けないのだが。

 「なんちゅう横着な・・・。」

 清明は感動を通り越して、半ば呆れたようにそう言った。確かに、エレベーターのボタンくらいは押してもいいような気もするが、お金持ちというのは、そういう無駄なところに労力を使わないらしい。

 ティーン

 どうやら、目的の階に着いたようだった。到着の音まで高級な感じがする。扉が開くと、高級感はさらに増した。壁も床も大理石で、中央に毛足の長いフカフカの絨毯が敷かれている。照明はもちろん間接照明だ。どこからともなく優雅なクラシック音楽まで聞こえてくる。

 「・・・さすがに・・・やりすぎじゃね―?」

 清明が私を振り返ってそう言った。私は無言で苦笑いを返した。そんな二人のやり取りを不思議そうに見ながら、博正が先頭に立って歩いていく。万事に広いので、そこそこ歩いてる気がする。

 博正の部屋は、最上階のペントハウス的な部屋だった。この階には2軒しかない。右側に見えたのが、もう一軒のお宅に向かう通路なのだろう。博正の部屋はエレベーター正面の扉の向こうのようだ。と、いうことは、つまり、このマンションで一番「お高い」ということなんだと言うのは、私にでもわかる。

 最後の濃いグレーの扉が開くと、驚いたことに、そこは車が3台は止められそうな広さの芝生の庭だった。その先に見える玄関のドアまではワイン色の舗道が続いている。

 「ここで、犬を飼おうと思ってたんだよ。一人じゃ寂しいから。」

 なるほど、確かにここなら犬の運動場としては申し分ないだろう。室内だけど。

 玄関から中に入ると、短い廊下が横に伸びていて、右側に広い洗面台が見えた。左を見ると、広大なリビングと、その先のガラス張りの壁の向こうは、また庭だ。小さめだが、プールまで付いている。

 「お前・・・ここに一人で住むのかよ。リビングだけで俺んち入りそうだけど。」

 「そうだよね。さすがに広すぎるかと思ったんだけど、学校も駅も近いし、何より馴染みのある土地だから、ここが良かったんだ。」

 博正にとっては、経済的な理由は問題にならない。

 「それに、ほら、演奏の練習するだろ? 他の部屋だと防音工事なんかもできなくてさ。」

 なるほど、それなら納得だ。確かにここなら、音の問題は影響が少ないに違いない。

 リビングには、ソファカウチとテーブルしか置かれていない。他の荷物は壁の一隅を埋め尽くした、引っ越し会社の段ボールやらケースやらにしまい込まれたままのようだった。

 海外からの荷物がまだ届いておらず、片付けるに片付けられないのだ、と言う。だが、船便でヨーロッパから荷物が届くのは、まだ3週間も先のことらしい。

 「それまで、このまま暮らすつもりかよ!」

 「うん、そのつもりだよ。荷物が揃ったら、業者にお願いしてるんだ。ほら、家具とか一人じゃ無理だし。」

 何から何まで、こちらの予想を超えてくる。私は清明と顔を見合わせ、これ以上はこの話題に触れないことにした。

 「それより、ほら、開いてみようよ。」

 博正がソファに座り、スーツケースを引き寄せた。

 おのずとスーツケースを先に開けてみることとなった。

 スーツケースはいわゆる機内持ち込みサイズ、というやつで、スーツケースの中では小型の部類だろうが、拡張され、だいぶ厚みが増している上に、かなり詰め込んである様子なのが外見からでもわかった。ロックは壊れているようで、後付けのダイヤル式のシリンダーキーでチャックのつまみが閉じられている。清明は迷うことなく、ダイヤルを「072」に合わせると、シリンダーが音もなく外れる。

 外周を囲むようにしているチャックを開けるのが、一苦労だった。上から体重を掛けながらでないと、うまく開けることができない。

 「だいぶ詰め込んであるな・・・。」

 清明と博正が、二人がかりでようやくチャックを全開にすると、中身の圧力でケースがひとりでに開いた。

 紫の風呂敷が掛けてあり、それを取り除くと、大量のノート、小型のノートパソコン、細長い木製の古い箱などが見えた。それを取り除くと、その下には防水バッグが二つ、木製の平たい箱が大小それぞれ一つずつ、納められており、その下はビニールに包まれた衣装がいくつも入っていた。外から見ても、時代を感じさせる風合いで、色は違うが、形も鬼丸が着ている物に似ているように見える。

 「こりゃあ、鬼丸に聞いてみないとダメなやつだな・・・。」

 清明が私を見てそう言った。私はうなずき、スポーツバッグから鬼丸を取り出すと、刀から人に変えた。

 「ふむ・・・これが、伊織殿の遺した物か・・・。」

 鬼丸は刀の状態でも、こちらでの動きをある程度まで把握している。どうやら、私を通じて外界の情報を手に入れているらしかった。

 清明はノートの一冊を手に取り開いてみると、図面や注釈が所狭しと書き込まれた、何らかの下書き文書のように見えた。残りのノートもそれぞれ同じような内容で、書き込まれた日付を見ると、15年前の物が一番古く、最後は半年前の物だった。

 平たい木製の箱は、くすんだ墨の字が書きこまれているが、もちろん読むことなどできない。博正が大きい方を開くと、大きな星の付いた、ネックレスのようなものだった。細い鉄鎖で色とりどりの鉱物でできた勾玉が繋いである。

 小さい方の平たい箱には、金と銀の金具の付いた、紫色の細長い布が入っていた。

 「ほう・・・勾玉の首飾りと・・・こちらは鉢鉄であろうな・・・。」

 鬼丸が箱を覗き込んでそう言った。

 最後に、博正が細長い箱を開けると、中には黒と朱色で塗分けられた小さな横笛が一本、恭しく浅黄色の布にくるまれて入っていた。

 「これ・・・龍笛じゃない?」

 博正が鬼丸に聞いた。

 「ほぅ、よう知っておったな。いかにも。これは龍笛じゃな。」

 そう聞くと、博正はたまりかねたように手を延ばし、笛を手に取ると、止める間もなくその笛を奏で始めた。

 鮮烈な音が部屋を満たした。とても澄んだ音にも聞こえるが、荒々しく流れる滝の音のようでもあり、妖艶な女性の歌声のようにも聞こえる。何とも不思議な音色だ。

 何音か吹くと、博正が笛を口から離し、信じられない、と言った表情でまじまじと笛を眺めた。

 「・・・こ、これは・・・。」

 そのまま、博正は固まってしまった。静かに目を瞑り、涙をこぼしている。

 「ど、どうしたんだよ・・・?」

 清明が声を掛けるが、博正は固まったままだ。清明が助けを求めるように私を見てくるが、私も首を横に振るしかなかった。

 「・・・懐かしい・・・なにかは知らないけど・・・すごく、懐かしい感じがするんだ。」

 博正は目を閉じたままで、静かに呟いた。

 「と、とにかく、それを一回置けよ。それが何かわかるまでは、迂闊に触らない方がいい。」

 清明はそう言ったが、博正は笛を離そうとしなかった。3人が無言で見つめ続けて、ようやく渋々と箱に戻したが、名残惜しそうに笛を見つめている。

 スーツケースの底に入れられたビニール袋も全て取り出して、色別に並べてみた。圧縮保存袋に入れられたそれらの衣服は、3人分の平安装束のようだった。

 「もしかして・・・鬼丸の着替えかな?」

 私がそう言うと、清明は首を振って、サイズが違うようだ、と呟いた。

 最後に、防水バッグを開けてみる。中身はさらにジップロックに入れられ、油紙で包まれた、とても古い本だった。

 「これはこのままにしておいた方がいい。ヘタすると全部崩れちまう。」

 本は、全部で13冊。いずれもとても古い物で、とても脆そうだ。


 スーツケースの中身が全て取り出し終わると、今度はリュックの中身に取り掛かる。

 こちらは皮の装丁が施された、バイブルサイズのシステム手帳が一冊、記事の切り抜きを貼ったノート、筆箱、着替え、洗面用具、たくさんの鍵の付いたキーホルダー、通帳や印鑑、期限の切れた免許証などが入ったポーチ、サバイバルナイフやライターなどが入ったポーチ、そして分厚い財布。

 「こっちは日用品とか、生活用品がメインみたいだな。」

 清明はそう言いながら、システム手帳をめくる。

 「・・・これは・・・これが本命だ。入っていた物の、目録みたいなもんだな・・・。入手経緯とか、使い方とか、そんなようなことが書いてある。」

 私が覗いて見ると、どのページも端から端までびっしりと、几帳面な細かい文字が書かれていた。時折、地図や絵図面なども書き込まれていて、後から書き足したような部分もかなりあり、解読するだけでも時間が掛かりそうだ。

 「う・・・わ・・・これは・・・。」

 私は見ているだけで寒気がしてくる思いがした。それでなくても字だらけの本は苦手なのに、これはその中でも最高に文字密度が高い。

 「二人に来てもらって、良かった・・・。」

 私は心からそう思った。システム手帳やノート、そしてパソコンに関しては清明に任せておけばいい。あの笛がどのような物かは分からないけれど、少なくても博正なら吹くことができるのは実証済みだ。私一人では、どちらもどうにもならないことだ。

 「だろ? だけど、この手帳はさすがに俺でも時間欲しいな。とりあえず、2、3時間くれよ。なんとかかいつまんで説明できるようにするから。」

 そう言うと、清明は手帳をテーブルに置き、黙々とページを繰り始める。そうしてすぐ、ペンとノートが欲しい、と言い出した。鬼丸は、時々出てくる昔の言葉を清明に説明するために、清明の隣に座っていた。博正は相変わらず笛に興味津々だ。今のところ、私だけ何もすることがない。

 「じゃあ、私、ちょっとコンビニで買い出ししてくるよ。飲み物とか。それと、ペンとノート以外に必要なものある?」

 「いや、那津はここでお父さんの身の回り品とか、整理してた方がいいよ。何か見逃してる手掛かりとか、あるかも知れないだろ?買い出しは僕が行ってくる。」

 博正はそう言うと、財布とスマホを持って立ち上がる。

 「そう?じゃあ、お願いしていい?」 

 「もちろん。それにここにいると、笛が気になって仕方ないし。」 

 そういうと、博正は出掛けて行った。

 私は、何気なしに父の財布を開いてみて、驚いた。中には札がぎっしり詰まっている。

 「き、き、清明!」

 さも煩わしそうに振り向いた清明に、財布から取り出した札束を両手に持って見せる。

 「わ・・・。」

 さすがに清明も驚いたようだ。目を大きく見開いている。

 「いくらあるんだよ、それ?」

 「し、知らないよ!」

 「とりあえず、数えて全部おばさんに渡せよ。他の、こっちには関係ない物と一緒にさ。」

 そう言って、清明は解読作業に戻った。

 お金は、数えてみると全部で177万6千円。それと小銭がいくらか。

こんな大金、どうしたんだろう?

               ※

  朱点は、苛立っていた。

 体の回復に、ここまで時間がかかるとは、思ってもみなかった。

 『鬼丸・・・だと? ふざけた名前だ・・・』

 あの、刀。切られたところから、どんどん力が抜けていく、恐ろしい刀だ。刀術の心得なんてまるでなさそうな男だったのに。余裕で勝てる相手だった。弱すぎて、逆に油断したのがいけなかった。ちょっと遊んでから殺そうと思ったのが。ほんの少し、髪の毛の筋ほど掠っただけだったのに、結局そこから形勢が逆転して、こんなハメになってしまった・・・。

 思い出すたびに、イライラし、沸々と怒りが湧き上がって来た。

 ずっと以前に、あの男の先祖に負けたときは、数でも負けていたし、全員が恐ろしい手練れだったから、まさか刀が原因で負けたとは考えていなかった。だが、秘密は刀の方にこそあったのだ。

 『だけど、あの男も思い知ったことだろうな・・・。』

 こんな時は、あの男に掛けた呪いのことを思い出して溜飲を下げる。

 鬼殺しが鬼に落ちる、アイツにとっては屈辱的な呪いだ。

 『鬼を殺せば殺すだけ、呪いは強くなる・・・。』

 愉快になってきて、ククッと笑う。とんだ皮肉じゃないか?

 あれ以来、朱点は傷ついた体を癒し、人界の、特にあの刀の情報を集めるために、何人もの人間を攫ってきたが、そのたびにこちらも少なくない犠牲を払ってきた。もっとも、そんなことは些細なことだ。鬼はいくらでも『ある』。

 『それに・・・』

 そのたびに、アイツが一歩ずつ、鬼に近付いていく・・・。

 「あはははは! あっはっはっは!」

 今度は声に出して、高らかに笑った。アイツの苦しむさまを思い浮かべるのは、いつでも楽しい。

 体は未だに幼体のままで、本来の力を取り戻すためには、まだ時間がかかりそうだった。その間は、せいぜい人間どもをいたぶって楽しんでやるつもりだった。

 そういえば、あの『学校』という場所も、若い人間がたくさんいて、いろいろやりがいがありそうだ。もっとも、今は何人か腹心を送り込んでるから、表立っては手を出すことはしないでおく。あそこには、あの一族の係累がいる。それを突き止めるまでは、任せておこう。   

朱点は、声を出して、いつまでもいつまでも笑っていた

              ※

 博正が両手いっぱいに荷物を抱えて帰って来た。清明は飲み物や食べ物には目もくれず、ノートとペンを受け取ると、システム手帳をめくっては戻り、読み込んではまたページをめくり、鬼丸に何かを質問し、そしてペンを走らせる、といった作業を続けている。

私と博正は、清明の邪魔にならないよう、少し離れた場所で主にリュックの中身の確認をしていた。母にそのまま渡す物についてはリュックに戻し、清明に見てもらってから判断した方がいい、と思う物は別に分別しておく。

まもなく2時間が経とうとしていた頃、清明が大きく伸びをして、こちらを振り返った。

「なんとか、大まかな部分は掴めたと思う。これ、もらっていいのか?」

博正が「もちろん」とでも言うようにうなずくと、清明は水のペットボトルを開け、ほとんど一息で飲み干す勢いで、水を飲んだ。

「お疲れ様。・・・それで・・・役に立つ情報はあった?」

私は清明の向かい側のソファに腰掛けながら、清明に質問した。清明は疲れた顔をしていたが、目だけはキラキラと光っているように感じた。

 「ああ、正直、すごい調査能力だと思うよ。那津のお父さんが民俗学の教授だったってことを差し引いても、個人でこれだけ調べ上げるのは、並大抵のことじゃなかったはずだ。」

 そこで、清明は残った水をもう一口飲み、話し始めた。

 「まず、朱点についての話からしようか。朱点って言うのは、いわゆる、酒呑童子のことだ。少なくても俺たちにはそう伝わってる。那津の御先祖、鬼丸の最初の所持者である、渡辺綱と言う武将に、倒されたことになってる。で、渡辺綱は、もう一人、茨木童子という鬼とも戦っていて、こっちは腕を切り落としただけで、取り逃がしたことになってるんだ。」

 私は黙ってうなずいたが、知らない話だった。

 「・・・その顔は知らないってことなんだろうな。まぁ、でもいいや。後でスマホで検索してみろよ。すぐに出てくる。重要なのはそこじゃない。おじさんの調べたところによれば、話が逆だ。倒されたのは茨木童子で、取り逃がしたのが酒呑童子。いわゆる、朱点だ。朱点は、鬼の中でもかなりの古参で、『格』がかなり上なんだ。自分の軍団だけで、一千万の鬼を従えてたらしい。そういう話が、古代中国の多くの文献に出てくる。だけど、日本で言うと卑弥呼の時代くらいから、一切その名前が出てこない。逆に、日本の伝承では、その時代辺りから朱点と思しき鬼の話が出てくるんだよ・・・。」

 清明はそこで話を切ると、私と博正を交互に見つめた。

 「・・・つまり、その頃に朱点が中国から日本に渡って来た、ってこと?」

 博正の話に、清明が相槌を打つ。

 「その通り。少なくても、那津のお父さんはそう考えていた。ところで、卑弥呼については、どんなことを知ってる?」

 「え・・・昔の・・・日本の女王でしょ?元々は、神のお告げを聞く巫女だったとか、中国から正式の日本の統治者と認められて、金の印鑑、もらったとか?」

 私が覚えているのはその程度だった。どちらかと言うと日本史は好きな科目なんだけど、私が好きなのは、もっと後の、戦国時代とか幕末とか、その辺りのことで、卑弥呼の時代はあまり記憶に留めていない。

 「まあ、50点ってところだな。卑弥呼は「鬼道」と言う、呪術とか、そういう方面の術者だったんだよ。「鬼道」だぜ?なんか、ピンと来ないか?」

 「え・・・もしかして、卑弥呼が日本に朱点を呼んだ・・・とか、そんな話?」

 「そうなんだ。実は、そう考えると辻褄が合うことが、たくさんある。まず、卑弥呼がなんで絶対的な権力を手にできたのか。実は、その辺りのプロセスは謎なんだよ。その頃の日本に文字文化はなかったから、頼りは中国の「魏志」っていう国の記録だけなんだ。もちろん外国の出来事なんて、大まかにしか記録されてないから、ごくわずかな資料を基に、ほとんど推測の話が、現代まで伝わってる、と言っても言い過ぎじゃないレベルなんだよ。でも、もし卑弥呼が、朱点の『軍事力』を持ってたら、当時の日本の統一なんて、簡単なことだと思わないか?」

 「・・・確かに・・・。」

 「だろ? 他にも、生涯独身だったとか、常に側で仕えていた大男の弟がいた、とか、死んだときには何万人もの人間が、生きながら卑弥呼の墓に埋められた、とか、そこに「朱点」を当てはめると、なんだかしっくりくるような話も多いんだよ。」

 私と博正は、顔を見合わせた。確かに、そう聞くとそんな気もする。

 「で、な、それだけの権力を持っていたのに、卑弥呼の死後、その弟は忽然と消えてしまう。普通なら当然、後釜に座って権勢を欲しいままにできたはずなのに、だ。そして、日本の歴史はそこから『空白の150年』に入る。つまり、今もって謎なんだよ。日本史の中で、ここだけすっぽりと、何の記録も残ってない・・・。」

 「な・・・なんか、すごい話になってきてない?」

 博正の感想は率直だった。でも、もし、それが朱点が日本中に猛威を奮ったためだ、と言われれば、妙に納得できる話のようでもある。

 「・・・うん・・・俺も、正直そう思うよ。だけど、ほんとに驚くのは、これからだぜ?」

 それから清明は、朱点のことについては一度、母に聞いてから話をまとめた方がいい、と言った。人文学の講師をしている母なら、少なくてもこの三人よりも知識も判断力も優れているだろうし、より詳しい人物への伝手があるかも知れない、というのだ。そこで私は母に連絡を入れることにした。早く家を出たので、何も言わずに留守にしたことを、今思い出したのだ。電話を入れると、母はすぐに電話に出たが、さして心配もしていなかったようだ。そこで私は、コインロッカーから荷物を取り出し、博正の家で中身の確認をしていたことを告げ、清明が母に助言を求めたいことがある、と伝えた。母は二つ返事で了承し、いつでも相談に乗ると請け負ってくれた。

 「ありがと。じゃあ、こっちがある程度片付いたら、みんなで帰るね。」

 そう言って、私は電話を置いた。

 清明は、その後、スーツケースの中身について話を始めた。博正がかなり気にしている笛は、その名も「鬼祓」と名付けられた龍笛で、古くは飛鳥時代に、当時の藤原京に夜な夜な出没した鬼をその音色で泣かせ、調伏した、という逸話を持った笛だと言う。父は何度も実際に試そうとしたらしいが、どうしても音を出すことができなかったらしい。

 防水バッグに厳重に梱包されていた本は、かの安倍晴明が記した書物であり、「記述された内容を全て理解した者は、三界を制す」と言われているのだと言う。三界とは、天界、人界、地界のことらしく、このうち地界というのが、鬼界のことなのではないか、と父は書き記しているが、傷みがひどいことから、修復なしに中身を読み取ることは不可能と判断し保管していた物らしい。

 また、平たい箱に入った首飾りについても、同様に安倍晴明の所有物とされ、勾玉にはそれぞれ晴明が使役した「人ならざる者」が封印されているのだと言う。

 もう一つの、細長い紫の布については、「鉢金」と言い、頭に巻いて使用する防具の一種ということだった。こちらについては詳しい記述はなく、由緒や効果については、今のところ不明、ということになる。清明は、もしかしたらノートパソコンに何か他の情報があるかも知れない、と話していたが、そこまではまだ手を回せない、と言って、後回しになっていた。同じように、3色の狩衣についても今のところ触れられてはいないらしい。

 「とまあ、ざっとこんな感じだ。」

 清明は涼しげにそう言ったが、私も博正も、まったく話についていけないでいた。説明されたところで・・・と言うのが、正直なところだ。

 「そんなに複雑に捉える必要はないと思うぜ?那津に鬼丸がいるように、博正に笛、俺に書物。うまく使いこなしたら、鬼を、朱点を退治できる、ってことじゃないのか?つまり、おじさんの言い残した、『仲間を探して準備する』が、より具体的になった、ってことだろ。」

 博正の顔が、ぱあっと輝いた。

「なるほど!そういうことか!確かに、筋が通ってる!」

 どう見ても、『本筋』を理解しているようには見えなかった。単に『笛が手に入る』感じの流れに喜んでいるだけのような気がしてならない。とは言え、博正はさっき確かにこの笛で音を出していた。たった数音だけだったが、怖いくらいに澄んだ音が出ていた。

 「・・・まあ、確かに。でも、そんな偶然、ある?それに、二人はともかく、なんで私が刀なの?剣道やってるわけでもないのに。」

 「え・・・だって・・・それは、あれだろ。血筋とか、そういうんだろ?」

 清明が歯切れの悪い説明をする。

 「そういえば、鬼丸については?何かないの?」

 「ああ、あったぜ。鬼丸は、ホットドッグとソフトクリームが好きらしい。」

 「は? それだけ?」

 「まあ、今のところは・・・。」

 「なんでよ。なんで鬼丸だけ『どうやって作ったか』とか『こんな効果が』とか、ないの?だって、刀なのに、人になるんだよ?ある意味、一番謎じゃない?」

 「いや、それは俺に言われても・・・。」

 清明はそう言って頭を掻いた。そういうわけで、私の服の行方は、今もって謎のままだ。

 それから4人で、荷物を抱えて私の家に帰った。母は、博正の変貌ぶりに驚き、また博正も『巻き込まれた』と知って、暗い顔になった。

 「・・・そう・・・博正君まで・・・。」

 博正はそんな母を労わるように、『鬼祓』の話をし、これは自分の役目で、世界で僕よりこの役目に適した人間はいない、とまで言い切った。労わりが、いつの間にか自己陶酔に近い話に発展し、母も目を丸くしながら、笑っていた。

 私たちは、まず父のリュックを母に返し、あらためて事の経緯を伝えた。それから、清明が父のシステム手帳と大量の下書きノートを渡し、母からの職業上の意見を聞きたい、と伝える。

 母がシステム手帳を開いた。すぐに食い入るように読み始め、やがて自分の部屋からノートと筆記具を持ってくると、無言で何かメモを取りながら、またシステム手帳を読み込む作業に戻る。いつもはおどけているか、不機嫌な顔をしているかの母が、時に真剣に、時に笑みを浮かべながら、システム手帳に向かい合っている。まるで、父と会話してるみたい。

 私たちは母の邪魔にならないよう、ダイニングに移り、小声で取り留めのない話をして過ごした。主に、今後の学校生活についての話題だったような気がするが、実はあんまり覚えてない。母の様子が気になって、仕方がなかった。

 あっという間に時間が経ち、気付けば時計は午後6時を示していた。

 「ピザでも頼もうか?」

 私はそう提案して、スマホを開く。母の集中力は、まだ衰えを見せていない。むしろ、どんどんのめり込んでいるような雰囲気さえある。

 宅配ピザが届いても、それを食べ終わっても、母はまだ顔を上げようとしない。お腹が満たされた博正と鬼丸は、テーブルに突っ伏して寝息を立てている。

 時計がまもなく午後10時を示すころ、ようやく母が顔を上げ、思い切り伸びをした。時計を見て、自分でも驚いているようだった。

 「ごめんなさい!夢中になっちゃって!」

 その声で、博正と鬼丸が目覚めた。私と清明は、リビングに戻る。

 「疲れてない?大丈夫?」

 私が母に問い掛けると、母は笑顔で首を振った。

 「大丈夫。とても興味深い内容だった・・・。さすがは、伊織さんね・・・。」

 母は感慨深げにうなずくと、人文学者としての母の意見を披露した。驚いたことに、概ね清明が読み解き、推測した内容と同じだった。

 「確かに、朱点という鬼が卑弥呼と深い関りを持っていた可能性を強く示唆してるわね。でも、残念だけどこれをこのまま学会に持ち込むことはできない。そのためにはまず、鬼の存在を科学的に証明しなければならないから。そんなことは、まず無理でしょ?」

 「・・・そうですよね・・・。歴史に確かに足跡は残しているけど、物的証拠が何一つない、って言うのが・・・。」

 清明は、母の発言を予想していたようだ。

 「その、学会で、鬼丸を見せたらどう?」

 私は大真面目に言ったつもりだったが、母も清明も、それを笑顔で否定した。

 「そう簡単じゃない。手品か何かと思われるのが関の山だよ。」

 「そうね。科学的に解明する、って言うのは、いわば人間ができる限りの検査をして原理を解明する、っていう側面があるの。鬼丸がバラバラにされて、一部を削られて成分分析されて、結果は『不明』で終わりよ。謎は謎のまま、次の世代に託される。そしてこの件は、闇に葬られる。」

 「なんでよ?」

 「あのね、およそ学者なんて生き物は、『わからない』が一番不名誉なことだと感じるものなの。自分の能力の限界を目の当たりにするからでしょうね。そんなことが世の中に知らされるくらいなら、積極的に隠そうとするわ。『まだ調査中』で、いつまでも時間を掛けられて、終わりよ。」 

 「えー、なんか汚くない?」

 「そんなもんなのよ。世の中。まあ、今は少し変わって来てはいるけど、そもそも研究のためのお金を出す人がいない研究は、誰もやりたがらない。途中で研究を終わらせなくちゃならないし、そうなったら、途端に職を失うのよ?」 

 「結局、お金なんだ?」

 「それだけじゃない。時の施政者って言うのは、『こういう話題』が嫌いなんだよ。世界が危ない、とか危機が迫ってる、とか、そういう治世を脅かす話題が。しかも、それが『わからない』とくれば、自分の無能を曝すだけだからな。宇宙人だって幽霊だって、そうだろ?昔から存在が囁かれてるのに、誰も積極的に解明しようなんて思わない。そういうことを言う人を、奇人変人扱いにして面白おかしくバラエティにすることはあっても、学術的な研究なんて誰もしない。もう片方で、神や仏は積極的に研究されてるし、政治に取り入れてくる。どっちも形のない『わからない』ものなのに、だぜ?要は、金と大衆の支持を得られるか。それだけなんだよ。政治も研究も。」

 清明は不満そうにそう言い捨てると、ソファに身を投げ出すようにした。

 「・・・耳が痛いわね。でも、清明君の言う通りよ。結局、人間は自分が信じたい物しか信じない生き物なの。それ以外のことは、耳にフタをするか、露骨に反対するか、このどちらか、なのよ。だから、那津の意見は、残念だけど却下ね。」

 私は大いに不満だったが、そういう大人たちに鬼丸をいいようにされるのはもっと気に食わない。そんな大人を全員鬼界に連れていってやりたい。あの巨大な鬼を前にして、それでも科学がどうの、とか言えるのだろうか。

 「ところで、清明君、春先に奈良で巨大蛇行剣が出土した話、知ってる?」

 「・・・いえ、知りませんでした。」

 「そう・・・奈良の、富雄丸山古墳という、おそらく4世紀後半頃の古墳から、長さが2mを超える巨大な鉄剣が出土したのよ。」

 「2m・・・。」

 「ええ、正確には、確か2.36mだと思ったわ。もちろん、用途も誰の物かも不明なんだけど・・・。これって、何か匂わない?」

 「・・・。」

 「その頃の日本で、鉄の剣はいわば最新鋭の武器なのよ。何かの儀式用にしても、贅沢過ぎる気がするの。でも、人間が使いこなせる長さじゃない。重さだって相当のものだと思うし・・・。普通の剣は、大抵身長の半分以下だから、武器として使ったとすると、およそ5mの身長のある人物じゃないと、使いこなせない、ってことになる・・・。」

 「・・・5m・・・酒呑童子や茨木童子の描写が、ちょうどそのくらいですよね?」

 「でしょ?偶然かも知れないけど、見方によっては、偶然にしても話が出来過ぎてる気もする。それにね・・・。」

 「・・・それに?」

 「一緒に出土した木棺の長さが5mくらいなのよ。中身は空だったけど。そして、ここからは未発表の部分なんだけど、一緒に角の生えた大きな埴輪が出土しているの。いわゆる一般的なたくさんの埴輪に取り囲まれるようにして。」

 そういうと、母はじっと清明を見つめた。全員が固唾を飲んで清明を見つめる中、清明はあごを手で撫でながら、沈思していたが、やがて口を開く。

 「・・・もしかしたら、それは鬼の墓かも知れない、と?」

 母は強くうなずくと、話を続けた。

 「ここからは、私の推論。私はね、卑弥呼は朱点を鬼道の術によって使役していた、と捉えているの。つまり、朱点の意に反して、術の力で言うことを聞かせていた、ということね。朱点は卑弥呼の死によって自由になり、人間に復讐を始めた。それが原因の一つとなり、いわゆる『空白の150年』が生まれた。そもそも人間は、その時に絶滅寸前まで追い込まれたんじゃないかと、私は思ってる。そして、大陸から新たな人間が日本にやってくる。隣国で猛威を奮っていて、いつ自分たちの国に飛び火するのかを恐れた時の権力者が、朱点を倒すために送り込んだのかも知れない。実際、空白の150年が経過すると、日本の技術レベルはそれまでとまったく違う物に進化しているのは事実だから、何かはあったはずなのよ。」

 「それが、朱点の暴走によるものだと?」

 「ええ。そして、朱点は倒された。倒した人間は、朱点が二度と暴れないように、その霊を慰めるために、王並みの墓を準備して埋葬した。彼の武器と共に。それが、富雄丸山古墳なんじゃないか、と。」

 「・・・筋は、通ってますよね。時系列的な裏付けと言えるものも、ある。」

 「私もそう思うわ。もちろんこれだけじゃ断定することはできないけど、自分でもかなり的を得ている、とは思ってる・・・。ところが、よ。朱点は蘇ってる。もしかしたら完全に屠るには、『ただ倒すだけ』では、ダメなのかも知れない。考えてみれば、朱点が絡んでると考えるに不思議でない鬼の事例が、いくつもあるのよ。たとえば役小角の逸話とか、藤原京の鬼、その後も平安、鎌倉・・・実に昭和や平成にまで、『もしかして』と思うような事件がたくさんある。いちいち挙げていたら、それこそキリがないくらいに。」

 「実は僕も、その辺りは近いうちに調べよう、と思ってたところなんです。時代を遡れば『鬼』は、今でいう祟りとか物の怪とか妖怪なんかと混同されてることが多いんですが、戦国時代辺りからそれが今のような形に細分化されつつあるんですよね。でも、逆にそういった物の怪や妖怪の類の中にも、いわゆる『鬼』と捉えられる描写はいくつもあるんです。もちろん、盗賊や漂着した外人、いわゆる人由来の鬼もたくさんあるんですけど・・・。」

 「・・・そういう話題に、朱点が隠れて紛れてる、ということね?」

 「そうです。少なくても江戸時代辺りから今までの、地方はともかく首都圏で起こった出来事なんかは、その時代ですら鬼の仕業、なんて言ったら『馬鹿げてる』で終わっちゃってることが多いんです。科学が発展するにつれて、その傾向は強くなってる。これはむしろ、朱点が隠れるのには好都合なんじゃないか、と。そこに、何かを見出せないかな、と考えてて。」

 「・・・その視点は、間違えてないと思うわ。そっちの方は、私が調べてみる。大学には資料も豊富だし、ネットワークもあるしね。それと・・・話のついでで言っちゃうんだけど、防水バッグに入った古文書の類、あれの取り扱いを間違えなかったのは、さすがだわ。おそらく空気に触れただけでバラバラになっちゃうような代物もあると思う。それで、あの一連の資料は、大学で調べたいの。防水バッグのままで中身を透視することができる装置があるのよ。」

 私は、二人の話にまったくついていくことができないでいた。博正と鬼丸はとっくに諦めていたようだが、これは私も諦めざるを得ない。あとで清明から簡潔にまとめてもらおう。と言うか、この類は清明と母に完全にお任せした方がいいかも知れない。

 「実は、それを期待していたんですが・・・大丈夫ですか?」

 「・・・手伝ってくれそうな研究員を知ってるのよ。もちろん、中身を見たら即、バレるでしょうけど、この際、その辺りのリスクは止むを得ないわ。娘のためなら、塀の向こうでも・・・。」

 お任せしよう、と思って気を抜いたとたんに、なんだかキナ臭い話になってきた。

 「・・・ねぇ・・・それって、どういうこと?」

 私の問いに、母も清明も意味ありげに見つめ合うだけで、答えようとしない。私も負けじと、交互に二人を見つめる。やがて根負けした清明が、重い口を開いた。

 「・・・あの、防水バッグの古文書な・・・いや、スーツケースの中身ほとんど全部と言っていいんだけど・・・。」

 そこで言い淀んだ清明に、無言でプレッシャーを掛ける。どういうことかはわからないが、父に続いて、私のために母まで何かあるなんて、とんでもないことだ。

 「・・・盗まれた物なんだよ。色んな博物館やら、資料館やら、大学やら、日本中から集められた、盗品の山なんだ・・・。」

 「えーーーーっ!」

 私の声に、博正や鬼丸まで飛び上がるように反応した。

 「つまり、お父さんが盗み出した物、ってこと?」

 「・・・まあ、そうなるのかな。実際はわからないけど、少なくても容疑者の一人であることは、間違いなさそうだ。」

 「ダメよ!ダメダメ!そんな危ない事、お母さんにさせられない!」

 「那津!落ち着いて!事が片付いたら、必ず元の場所にお返しするわ。それまで、ちょっとお借りするだけよ。いい?今のあなたたちには、恐らく必要になるものだからこそ、お父さんが盗み出した物なの。正式な手順で申し込んだって、簡単には借りられないものばかりなのよ!いえ、どんなに頼んだって、貸してくれる訳がないものばかり、と言った方が正しいかも知れない。それくらいの物よ。どうせ、中身の研究なんかしないで飾っておくか締まっておくかだけの物なら、有効に活用した方がいいわ。それに、私もみんなも完璧なアリバイがある。見つかったところで、裁判で有罪になんてできっこないわ。」

 そう言われれば、そんな気もする。私たちは持ってるだけで、盗み出した訳ではない。父にしたところで、社会的には故人なのだから、そもそも犯罪を行えないのだ。

 「・・・ほんとに?」

 それでも、私は念を押した。

 「ほんとよ!ほんと!ごめんなさい、私がつまらない例えをしちゃったもんだから。とにかく、そういうわけだから、防水バッグの中身は私が預かるわ。その他の品物はそれぞれあなたたちが持っていて。でも、見せびらかしたりしちゃ、ダメよ?」

 その話は、それで終わりだった。時間も時間なので、今日は解散しようということになった。今日はみんながゆっくり休んで、明日はお昼くらいから集まって、ノートパソコンをメインに調べることにして、解散した。

 二人を見送ってリビングに戻ると、母がまたシステム手帳と下書きノートに目を走らせている。さっきと違うのは、片手に琥珀色の液体が入ったグラスを持っていること。母がお酒を飲んでいるところを見るのは、これが初めてだった。

 「珍しい。お酒飲んでるの?」

 「ん?・・・ええ、これは、お父さんがよく飲んでたウイスキーなの。なんか、いろいろ思い出しちゃって、まあ、私なりの供養、かな。」

 「そっか。じゃあ、邪魔しないように、上に上がるね。二人で、ごゆっくり。」

 「・・・ありがと。娘に気を遣わせちゃって、悪いわね。」

 そう言いながらも、母はまんざらでもない様子だった。私はサッとシャワーを浴びて、二階に戻る。鬼丸は、すでに床に長々と伸びて、寝息を立てていた。寝顔はまるっきり子供のそれで、これが刀の精だとはとても思えない。

 「・・・おやすみ。」

 私は鬼丸にそっと毛布を掛け、ベッドに横になった。この三日間、あまりにもいろいろなことがあり過ぎて、ヘトヘトなはずなのに、うまく寝付けず、真っ暗な部屋で一人悶々と天井を見上げていた。ふと、自分の手の甲を見ると、まだ稲妻のような蚯蚓腫れの跡が残っている。もしかして、一生このままなのかな、などと考えてるうちに、いつの間にか眠りに落ちていた。

日曜日(4日目)

 翌朝、自然に目が覚めた時は、すでに11時を回っていた。こんなに長い時間、ぐっすりと寝たのは、いつぶりのことだろう。鬼丸はすでに起きていて、床に足を投げ出して、旅行雑誌を眺めているところだった。

 「おはよ。」

 鬼丸に声を掛けると、鬼丸も立ち上がって伸びをした。

 「よう眠れたようじゃの。なによりじゃ。」

 軽く身支度をして、階下に降りると、リビングに清明と博正がもう来ていた。

 「よ、朝飯買って来たから、みんなで食おうと思ってさ。」

 清明がそう言って、紙袋を差し上げる。

 「早かったね。ゆっくり休めたの?」

 私の問い掛けに、清明は興奮して眠れなかったと答え、博正はいつも通りのルーティンをこなしてきた、と答えた。

 二人が買って来たハンバーガーを頬張りながら、それぞれ集めた情報を披露してくれた。博正は龍笛について、基本的なことを調べていた。雅楽における管楽器の中で、一番古い歴史を持ち、オクターブも広く、メインのメロディを奏でることもあればベースラインを固めることもある、万能楽器ということらしい。その後も専門的な音楽用語を使ってあれこれ説明してくれたが、私にはどれもよく理解することができなかった。

 清明は昨日の母の推測を裏付ける調べ物をして、ますますその説が有力と思える伝承や逸話をいくつか披露してくれたほか、学校で失踪した二人のことについても調べようとしたが、そもそも事件性はない、ということで終わりになっているらしい。単に仕事を放棄してどこかへ行ってしまっただけ、で片付けられており、報道も数社が小さく取り上げているだけだったということだ。

 こうやって、未解決事件として片付けられている事件の中に、おそらくたくさんの鬼の関与した事件があるんだろう、と清明は話を締めくくった。これも、昨夜の説を裏付ける一つの証拠だ、と。

 その後、母も合流してノートパソコンの調査を始めたが、目新しい情報はなく、システム手帳の情報を補強する図面や写真、地図などが多く見つかった。また、『借りて来た物』についての入手先やその後の動きが一覧になっており、用事が済めば、父がその品物を返すつもりであったことがわかった。

 「ノートパソコンは写真や地図のデータ保管の用途で使われてたみたいね。」

 ノートパソコンを閉じながら、母がそう言った。その時、ほぼ同時に3人のスマホから通知音が聞こえ、学校が明日から平常通りに登校するように呼び掛けていた。

 「そういえば、明日からはどうするの?」

 私は清明と博正に質問し、話をすり合わせておこうと考えたのだった。

 「僕は、まず登校してみないと、なんとも言えない。クラスがどうなるかの問題もあるし。でも、基本的には今までと同じ行動を取りながら、情報を集めるしか、ないんじゃない?」

 博正はどのクラスになるか、まだ不明だった。私や清明と同じクラスになるかどうかは、四分の一の確率だった。

 「鬼丸は、どうする?」

 清明が言った。いつものように刀にしてスポーツバッグに入れていくことはできるが、ごくまれに所持品検査もあるし、教室移動のある授業などでは、スポーツバッグを持っていくことはできない。

 しかし、今までのことを考えると、『鬼と学校には何かのつながりがある』と判断するのが賢明な気がする。できれば、いつでも戦えるようにしておきたい。では、どうするか?

 「鬼丸、何か、手立てはないの?」

 鬼丸は口をモグモグさせながら、不思議そうな顔でこちらを見た。

 「いきなりなんじゃ。なんの手立てだ?」

 そうだった。私の考えてること全てが鬼丸に通じる訳ではないんだった。付き合いは短いけれど、ずっと一緒にいるような感覚があって、勝手になんでも通じると誤解してしまった。

 「明日から学校なんだけど、人のままのあなたを連れてはいけないし、刀も常に身に着けているワケにはいかないのよ。でも、今までのことを考えれば、また学校に鬼が現れるかも知れないから、近くにいて欲しいんだけど、何か方法はない?」

 わざとらしくクドクドと説明してみる。

 「そういうことか。ならば、「学校」の間、儂は『狭間』に居るようにしよう。」

 「狭間?」

 「その名の通り、人界と鬼界の間のことじゃ。まあ、風景なんかは人の世界なんじゃが、迷い込んで来ない限り、人も鬼もおらんからな。そこで那津の近くにおれば、いいじゃろ。」

 当たり前のように言っているが、何のことか、よくわからない。たぶん、そんな顔をしたんだろう。察した清明が助け舟を出してくれる。伊達に鬼丸より付き合いが長い訳ではない。

 「そこから那津がどこにいるか、わかるのか?出入りはどうする?」

 「儂は、人でもないし鬼でもない。いわば、儂こそが『狭間の存在』なんじゃよ。つまり、狭間こそ、儂の世界というわけじゃ。抜かりなく、大丈夫じゃ。」

 鬼丸は面倒くさそうにそう言った。清明の質問に答えているようで、答えていない気もする。

 「・・・質問に答えてねーよ。でも、大丈夫なんだな?」

 清明も同じように考えたようだった。

 「うむ。いざと言う時は、名を呼んでくれればそれでよい。すぐに人界に戻ってくるわい。」

 「よし、じゃあ鬼丸問題は解決だな。あとは、極力目立たないようにすることと、できるだけ単独行動は控えるようにする、くらいのことじゃないか?今のところ、他に打つ手がない。・・・それと、おばさんには古文書の解読をお願いします・・・。お手伝いできること、ありますか?」

 「大丈夫よ。と言っても、日中に堂々と、という訳にもいかないから、作業は夕方から夜に掛けて、ということになるわね。明日からしばらく、帰りが遅くなるから、そのつもりでね。」

 私は母に十分気を付けるように伝え、お互いにこまめに連絡を取ることを約束した。

 その後、私たちは全ての荷物を博正のマンションに移すことにした。留守中に万が一のことがあってはいけない。その点、博正のマンションなら、家よりは安心と言える。

 それから、みんなで気分転換にモールにあるゲームセンターを訪れた。清明と博正は久しぶりに格闘ゲームで対戦し、みんなで車のゲームで遊んだ。鬼丸はダーツに興味を持ったようで、清明の指導を受けながらダーツを投げてみると、これがなかなか上手だった。

 「なんのことはない、『礫打ち』と一緒じゃな。投げるのが石か手矢の違いだけで。いつの時代も、子供は何かを投げるのが好きなようじゃな!」

 そう言いながらも、実は自分が一番大はしゃぎで、一投ごとに大袈裟に喜ぶ様子は、どっちが子供か、わからないくらいだった。それにしても、昔の子供は河原で石を投げ合って遊んだらしい。雪合戦ならぬ、石合戦だ。そんな物騒な時代に生まれなくて良かった、と心から思った。

 

月曜日(5日目)

 翌朝、私たち3人は一緒に登校した。清明と博正が家まで迎えに来てくれた。鬼丸は玄関で『狭間』に行ったが、姿は見えなくても気配はなんとなく感じることができた。

 少し早めに学校に着いたが、校門付近にいつもより多めの教職員がいること以外、特に変わったところはなさそうだった。私はちょっと立ち止まり、一昨日父と共に戦った辺りを見てみたが、朝練の陸上部が、いつものようにストレッチしている姿を見て、内心ちょっと複雑な思いがした。

 昇降口で職員室に向かう博正と別れ、清明と私は自分の教室へと向かう。平安高校では、1年生が3階で、年を追うごとに下の階に移動することになる。2年C組は、2階の中央寄りに位置していて、中央階段からすぐのところにある。

 「博正、何組になったかな?」

 教室についてすぐ、私は自分のリュックを椅子の背に背負わせ、清明の元へと向かってそう言った。

 「どうだろうな。人数的には、ウチかD組だろうな。」

 その後、後から教室に入って来るクラスメイトに挨拶をしながら、小声で学校の様子について話をしたが、二人とも特に気付くようなことはなかった。それぞれの友人や教職員から、それとなく噂やおかしな点を聞いて回るしかなさそうだ、ということになり、お互いの話を聞けそうな友人やグループを共有して聞いて回り、放課後に博正の家で情報交換しようか、という話になったとき、その日の日直だった女子生徒が、勢い込んで教室に入って来た。

 「ちょっと、ちょっと!転入生、転入生!しかも、超絶イケメン!」

 途端に沸き起こる、黄色い歓声。自然とその女子生徒のところに、お話し好きの女子生徒や、女子が集まったところでおこぼれに与ろう、という男子生徒が集まった。皆、好き勝手に質問し、女子生徒は集めた情報について、推測も含めて披露する。ところどころに、「音楽家」や「帰国子女」「海外で大卒資格」などという単語が聞こえて来て、私は清明と顔を見合わせた。声には出さなかったが、

「博正のことじゃん」

と、お互いの表情が物語っていた。騒がしくなった教室を出てみると、廊下や他のクラスでも、それぞれの日直がもたらした情報で、あれやこれやと盛り上がっているのがわかった。

 「極力目立たないように、じゃなかったっけ?」

 清明に小声で話し掛けると、清明は苦笑いするだけで無言だった。

 そのうち、「直接職員室に偵察に行ってきた」という、女子と話がしたいためだけに、芸能記者ばりの行動力を示す男子生徒数名が廊下に現れた。その行動力を他に活かせば、もしかしたらガールフレンドの一人くらいはできるかも知れないのに。

 「どうやらC組みたいだぞ!」

 途端に新たな歓声と落胆の声。でも、その情報は役に立つかも知れない。私は清明から離れ、男子生徒の思惑通りに会話に加わって質問してみた。

 「なんでC組ってわかったの?」

 「ああ!教頭と校長室から出てきたら、教頭がそのままミマサのところに連れて行ってさ、その後は転入生とミマサで何か話をしてたから、固いと思うぜ?」

 ミマサ。三浦雅子先生。つまり、C組の担任だ。教科担当は現国と古文で、純日本人だと言うが、見た目はハーフっぽい濃い目の顔で、特に鼻が高い。魔女と呼ばれることもあり、本人もたまに大きめの帽子をかぶって登校してきたり、掃除の際には箒でふざけたりもする。案外気に入っているのかも知れない。

この話が本当だとすれば、博正がC組に来る可能性は高いと思う。

その時、予鈴がなり、廊下にいた全員が、期待と興奮を抱いたまま、それぞれの教室へと入っていった。

教室はそれぞれ席に着きながら、なおも噂話に熱がこもり、騒然とした雰囲気だった。

そして、男子生徒の話の通り、博正はC組に転入することになった。女子生徒は軒並みこぼれんばかりの笑顔になり、男子生徒の中にはなぜかわからないが不貞腐れたような態度を取るものもいた。それは、教室内のヒエラルキーが、ガラッと変わった瞬間でもあった。

「はいはい、しーずーかーにー。今日からC組の仲間になる、大胡博正君です。知ってる人もいるかも知れないけど、すでに音楽家としての活動もしています。ですが、ここでは皆さんと同じ高校生なので、サインをねだったり、一緒に個人的な写真を撮ったり、なんていう行為はしないようにね!じゃ、大胡君、自己紹介して。」

そう告げると、三浦先生が一歩脇にどき、教壇の中央に博正が立つ。それだけのことで、教室がまたざわめく。芸能人か。

「大胡博正です。よろしくお願いします。英語は得意ですが、漢字や国語は苦手なので、三浦先生の元でしっかり勉強したいと思います。日本での生活が久しぶりなので、おかしなことをするかも知れませんが、そういうことは皆さんに教えていただきたいと思っていますので、早く友達になっていただけるよう、がんばります。」

博正がそう言って、最後にニコッ、と笑う。そしてまた歓声。心なしか、三浦先生までが今まで見たことないような顔つきになってる気がする。

「聞いたー?挨拶からして、素晴らしくない?もう、国語のことならつきっきりで指導してあげるから、いつでも言っておいで!」

途端に上がる不満の声。博正の前に、教師も生徒も関係ないようだ。

博正の席は、中央列の一番後ろと決まった。近隣の女子生徒は、それだけでもう卒倒しそうだった。

これは、とんでもないことになったかも知れない。幼馴染だっただけに、そういう目で見たことはなかったが、確かに博正は女子ウケする要素をふんだんに兼ね備えている。イケメン高身長、浮世離れした肩書、約束された将来。これで、あの天然ぶりで話をされたら、メロメロになる子は少なくないだろう。いわゆる、ギャップ萌えというやつだ。

これは、対策を講じなくてはならない問題が、また一つ増えたかも知れない。ふと清明の方を見ると、清明も同じことを考えているようだった。

その日は一日騒然としていた。授業中はまず、それぞれの教科担当が興味津々で様々な質問をして教室を騒がせ、休み時間になれば他クラスどころか、上級生や下級生までが廊下からクラスを覗いている。C組の女子生徒は団結力を発揮し、博正を囲うように人の壁を作って、自らの優先交渉権を確保するのに必死のようだった。

そんな中で、事件は起こった。できる限り博正と距離を置いて過ごしていたのだが、恒例の授業前の小テストを行っていた英語の授業の時、博正は消しゴムを落としてしまったらしく、それが私の足元に転がって来た。

「那津!ごめん、消しゴム取ってくれる?」

博正なりに、小声で話したのは評価できる。だが、テスト中の静まり返った教室内で、博正の声は想像以上に大きく響いた。途端に、教室の全員が一斉に私の方を振り返った。テスト中だと言うのに。ただ一人、額を手で押さえて首を振っている清明を除いて。

 それはそうだろう、それまで、私は博正と話をしていない。それなのに、いきなり下の名前で私を呼んだのだ。いかにも気安げに。

 私は視線の集中に戸惑った。困惑の表情を浮かべている者、驚いた表情の者、意味ありげにニヤニヤする者。でも、大半は殺気を孕んだ憎しみの目だった。

 かなりぎこちない動きで消しゴムを取り、席をひとつ挟んだ博正に渡す。

 「ありがと!」

 椅子から腰を上げて消しゴムを受け取った博正は、満面の笑顔でお礼を言ってきた。私は返答に困り、動作以上にぎこちなく、

 「ど、どういたしまして!」

と、上ずった声で言うのが精一杯だった。

 さらに悪いことに、英語の後は昼休みに入る。私は速攻で教室を後にしようと試みたが、廊下に出る前に女子生徒の一団に捕まってしまった。彼女らの尋問は執拗を極めた。ただの幼馴染と説明したが、一向に理解してくれようとしない。同じ内容のことを、言い方を変えてクドクドと質問され、さすがに腹が立ってきたところで、突然相手方の主力が頭を抱えてうずくまった。どうやら、急激な偏頭痛に襲われたらしい。保健室へと連れて行かれる隙に、私は廊下に逃れることができ、そのままトイレに駆け込んだ。

 「どうじゃ、うまく逃げられたじゃろ?」

 閉めたトイレの扉から、鬼丸が顔を出した。

 「鬼丸の仕業だったの⁉」

 「うむ。困っているようだったからの。」

 「ありがと!助かったよ!」

 「しかし、あやつら博正への執着はかなりのものだぞ。執着は鬼の性とも言えるものじゃ。鬼に魅入られんと良いがの・・・。」

 鬼丸は不吉にそう言い残すと、また狭間に戻って行った。

             ※

 「転入生?2年C組に?」

 その頃、大江田統司は屋上の一角で数人の女子生徒とともに昼食を摂っていた。成績優秀でスポーツも万能、生徒会長を務め、静かな物腰と彫りの深い端正な顔立ちで、男女問わず人気があり、教職員からの信頼も厚い。そのことを自分でも認めており、「平安女子の九割は虜」と自負している。いわば、学内ヒエラルキーの頂点に君臨している存在だ。

 特に、「大江田ランチ」と呼ばれる昼休みのこの時間は、「生徒間の距離を縮めるための時間」として、昼食を摂りながら生徒の悩み相談や要望を聞き取り、今後の生徒会活動に活かすという大江田自身の発案で行われているが、実際は大江田と距離を縮めたい女子生徒が、手作り弁当とプレゼント持参で何とか気を引こうとする時間となっており、陰で「ホストクラブ」と囁かれている。

 「そうなんです!それが、ものすごいイケメンで、海外の音楽大学を卒業してるのにわざわざ日本の高校で勉強し直すらしいですよ!」

 「そうそう、すでに音楽家として海外でもコンサートしたりしてるって!」

 「英語とドイツ語がペラペラなんだって!」

 女子三人で盛り上がる会話に、大江田はイラだっていた。

 『俺を目の前にして、他の男の話かよ』

 内心ではそう思っていたが、それを表に出さないだけの自制と余裕は持っている。

 「そうか・・・じゃあ、一つこれから挨拶してこようかな。生徒会長として、ね。」

 『生徒会長』のところを、わざと強調する。そう言って、昼食の場から立ち上がったものの、3人の女子生徒は止めるわけでもなく、夢中で大胡博正の話を続けている。

 『僕も舐められたもんだ・・・。近付けすぎるのも、考え物だな。』

 今後はこの会の在り方について、見直しを検討することにして、大江田は2年C組へと向かった。

 教室の前は、黒山の人だかりといった様相を呈していた。ムッするような女子の体臭が鼻孔をくすぐる。

 「ちょっと、そこを空けてくれないか。転入生に挨拶に来たんだ。」

 大江田の存在に気付いた女子生徒が、急いで場所を空ける。後に、女子生徒の間で「神々の邂逅」と伝説になった、イケメン同士のファーストコンタクトだった。

 教室内も大江田の登場にざわめきが広がるが、女子生徒が集まった一角だけは動きがない。どうやらあそこが、話題の転入生の席らしい。

 「すまない、挨拶に来たんだ。」

 その声に振り向いた女子生徒たちの顔には、『何しに来たのよ』と書かれているようだった。困惑したような表情を浮かべる者に紛れて、露骨に迷惑そうな顔をする者までいた。どうも面白くない。とは言え、ここでそれを表に出すことはできない。

 「やあ、はじめまして。生徒会長の大江田・・・。」

 そこまで声に出して、初めて椅子に腰掛けた大胡博正を目にした大江田は、言葉を失った。不覚にも、一瞬だが見惚れてしまった自分に気が付いて、激しく自分を罵った。

 「あ!わざわざすみません!今日から2年C組に転入することになりました、大胡博正です!」

 スッと立ち上がり、無駄の無い所作で右手を差し出してくる。非常に洗練された美しい動きであり、はにかんだような笑顔はさらに均整が取れていて美しい。

 「あ・・・ああ、何か・・・困ったようなことがあったら、相談してくれ。」

 「はい!ありがとうございます!」

 大江田は、差し出された右手を軽く握り、自制心を総動員して何とか笑顔を作ったが、自分でも引きつった笑顔になっているのがわかる。どうにか取り繕ってその場を離れ、逃げ込むように生徒会室に入った。この時間の生徒会室には誰も入ってこない。大江田本人が鍵を管理しているのだから、当たり前のことだったが。

 「今日の大江田先輩、なんかおかしくなかった?」

 「えー、そう? いつも通りの美しさだったじゃない!」

 「あ、でも、なんか逃げるように出て行ったよね?」

 「あれじゃない?ウワサ聞いて、余裕ぶってぶちかまそうとしたら、逆にぶちかまされちゃった、ってやつ!」

 「やだー、ウケるー!」

 一連の流れの目撃者となった女子生徒の多くが、口には出さなくても、敏感に世代交代の予感を察知していた。奇しくも大江田は、自分でその舞台に上がり、交代を迫られる主役を演じてしまったのだ。

  生徒会室で一人になった大江田は、怒りと情けなさで吐きそうになった。あれほど多くの観衆の前で、ひどい醜態をさらしてしまった自分が憎い。自分の席に座り、何度も机に頭を叩きつける。

 「くそっ、くそっ、くそっ!」

 積み上げてきたイメージが、プライドが、一瞬にして崩壊してしまった。しかも、それを自分の手で、自らが進んでそうしたのだ。怒りが収まって来ると、今度は羞恥と悔恨の波が大江田を襲い、収まりかけた怒りが矛先を変え、またゆっくりと鎌首を持ち上げてくる。

 「アイツさえ・・・アイツさえ現れなければっ!」

 そう言って、握手を求めてきた博正の笑顔を思い出し、怒りの感情がまた膨らんでくる。憎い、恨めしい、消えて欲しい!・・・コロシテヤリタイ! シネ! シネッ!

 ふと、周囲の雰囲気が変わったのを感じた。騒がしく聞こえていた昼休みの喚声が止んでいる。机から顔を上げて、大江田は驚いた。そこは確かに、生徒会室のようだが、まるで昭和初期のテレビ映像を見ているような色の荒さがある。よく見ると、机やロッカーが歪んで見える。

 「な・・・なんだ?」

 自分の頭がおかしくなったのかと思った。机に頭を打ち付けたせいで、脳に悪い影響を与えてしまったのかも知れない。

 「何が、そんなに憎いの?」

 唐突に後ろから声を掛けられ、大江田は驚いて振り向いた。慌てて振り向いた拍子に机にぶつかり、机の上の品物が床に落ちる。倒れた石柱に、男の子が腰掛けて、不思議そうにこちらを見ていた。一体、どこから現れた? この石の柱は・・・? 

 「ねぇ、何が、そんなに憎いの?」

 驚愕して辺りを見回す大江田を全く意に介すことなく、男の子が同じ質問をしてきた。小学校高学年くらいだろうか。着物を着ていて、長い髪を、突起の付いたカチューシャのようなものでまとめていた。額の中央に、インドの人が付けるような赤い点が付いている。

 「だ、誰だ! ここは、どこだ!?」

 「ここは、僕の世界だよ。誰だ、って、聞きたいのはこっち。そっちが勝手に来たんだから。」

 男の子はひょいと地面に飛び降り、こちらに近付いてくる。大江田は後ろに下がろうとして、また机にぶつかった。

 「こ、こっちに来るな!」

 虚勢を張っては見たが、脚がガクガクと震えて、力が入らない。机に寄りかかるようにして、何とか立っているような状態だ。

 「そうは行かないよ。ここは、勝手に来ていいところじゃ、ないんだ。」

 男の子はそう言って、どんどん近付いてくる。顔に残忍な笑みすら浮かべて。男の子は、目の前まで来ると、右手を伸ばし、大江田の頭を鷲掴みにする。避けようとしたが、体はまったく言うことを聞かなかったし、悲鳴を上げることすらできなかった。5本の爪が、頭に食い込んでいく感触があったが、不思議と痛みはない。それどころか、奇妙な安息感が大江田を包み込んだ。

 「・・・ふうん、なるほど、そういうことか・・・。」

 そう言うと、男の子は右手を離した。大江田は腰から崩れ落ち、机にもたれかかるように座り込んだ形となった。そこに、男の子が腰を下げ、大江田の顔と顔を突き合わせるようにする。

 「いいよ、手伝ってあげるよ。その代わり、体を頂戴。」

 男の子は、満面の笑みでそう言った。なんて嬉しそうな顔をするんだろう、と大江田が思った時、目の前が真っ暗になった。

 ハッとして目が覚めると、生徒会室の机の脇で仰向けに倒れていた。慌てて起き上がり、周囲を確認すると、いつもの見慣れた生徒会室の風景だった。時計を見上げると、5分ほど気を失っていたらしいことがわかった。机に打ち付けた頭が、鈍い痛みを発していた。

 「力任せにぶつけ過ぎたか・・・。」

 大江田は何度か首を回してみてから、立ち上がった。眩暈などはしないから、もう大丈夫だろう。さっきまで、なんで頭に来ていたのか、わからなくなっていた。洗面所で顔を洗い、髪を整えてから教室に戻ろう。気を失っている間に、何か夢を見ていたような気もするが、何も思い出せなかった。

                ※

 「もう!初日からめちゃくちゃじゃない!」

 私は博正のマンションで、清明と博正、それに狭間から出てきた鬼丸を前にして、喚いていた。

 「いや、僕だってあんなことになるなんて、思ってなかったよ!」

 博正は言い訳がましくそう言ったが、想像以上の学校での反応に、まんざらでもないと感じているに違いない。

 「・・・まあ、予想するべき事態だったな。俺たちには当たり前のことだけど、考えてみたら、博正はドラマの世界設定で日常を生きてるみたいなもんだからな。」

 「なんだよ、それ。褒めてるの?」

 「そんなことより、明日からどうするのよ?今日だって博正はずっと取り囲まれてるし!まさかマンション前まで押し掛けてくる連中がいるとは思わなかったわ!」

 「そうだよなぁ。アイツら、いつまでも帰らない勢いだったしな。」

 博正の人気は相当のものだった。すぐにファンの集団が作られ、奪い合ってでも一言話がしたい女子生徒の一団が、博正のマンションまで付きまとい、博正が中に入ると出待ち状態になってしまった。博正は聞かれるままに一人暮らしのことや、部屋が最上階のペントハウスであることを正直に答えてしまい、乙女心とは程遠い、欲深い女の執念に火を着けてしまったのだった。

 私も清明も、住人の誰かがたむろしている女子高生の集団に苦情を言うまで、マンションに近付くことすらできなかった。特に私は、あの消しゴム事件があった後ということもあり、誰かに博正のマンションに入るのを見られたら、近いうちに後ろから刺されるハメになるに違いない。そういうのは、せめて鬼だけのことにして欲しい。

 「まあ、しばらくはこの状態が続くだろうけど、長続きはしないだろ。今日も誰かが苦情言ったみたいだし、学校だっていつまでも騒がしいままにはしておかないはずだ。それまでは成り行き見守るしかないな。とりあえず、博正が校内で孤立することはないだろうから、その間は二人で情報集めしようぜ。」

 「それはそうだけど、問題は博正だよ!調子乗ってペラペラ話しちゃって!まさか鬼のこととか、話してないよね?」

 「さすがにそれはないよ!僕だってそれくらいはわかる!」

 「まあまあ、博正も悪気があったわけじゃないし、その辺で許してやれよ。」

 清明は私たちを落ち着かせようと、そう言った。私もそれくらいはわかってるんだけど、悪気がないのが逆に腹が立つ。思い切り文句を言う訳にもいかないから。

 「わかったわよ・・・とりあえず、しばらくは距離を置いてほとぼり冷まさないといけないわね。リア充系女子の、私への態度、見た?」

 「・・・あれは、ひどいよな。露骨に風当り強くなったもんな。」

 私はそれまで、いわゆるそちら系の女子からは「射程圏外」の存在だった。まあ、「運動バカ」くらいのことは陰で言われてただろうけど。それが、今日の出来事で一変した。私はいきなり「敵性存在リスト」のトップに躍り出てしまった。その効果はすぐに現れ、今まで言われたことのない「クラスの平均点を下げる」だの、「せめて居眠りするな」だの、余計なお世話の忠告をされたり、いきなり後ろからぶつかって来られたり、挨拶を無視されたり。明日辺りは上靴に何か仕掛けられてるかも知れない。そんなことを思い返しているうちに、鬼丸の一件を思い出した。

 「そうだ、鬼丸、昼休みのあの子の頭痛、どうやったの?」

 「なぁに、狭間からあやつの頭を叩いてやっただけのこと。痛みよりも驚いた方が強かっただろうよ?」

 「そんなこともできるんだ?」

 「狭間は、いわばこの世から半分ずれた世界なんじゃ。多少の影響なら及ぼすことはできる。その辺は、まあ塩梅というやつじゃな。」

 鬼丸は得意満面にそう言うと、ソファにふんぞり返る。

 その後は、みんなで情報交換をして過ごしたが、校内の噂話でこれといったものはなく、自然とただの世間話で時間が過ぎていった。そろそろ仕事も一段落の時間だろうと思い、母にラインを送った。すぐに返信が来て、お互いに異常がないことが確認できた。

 「よし、それじゃ今日はこの辺にするか。」

 清明が宣言し、その日は解散することになった。私と清明は正面からの出入りを避けるため、一旦地下の駐車場まで降りてから外に出ることにした。博正が気を利かせて、スペアキーを渡してくれたので、これからは今日のようなことがあっても時間を無駄にしないで済む。表は日も陰り始める時間で、マンション前の人だかりは消え失せていた。2人はいつもと変わらない取り留めのない会話をしながら、それぞれの家路に着いた。

                ※ 

 渡辺八重は、自室の窓から眼下の駐車場を眺めた。18時を過ぎ、主だった教職員は帰宅しているようだったが、それでもまだ半分ほどの車が駐車場に止まっていた。

 タイミングを慎重に測る。小うるさい教授連中がいるうちは難しいが、かと言って目当ての人物が帰宅してしまっては元も子もない。そろそろ動き出す頃合いだろう。

 八重は大きめのトートバッグに防水バッグが見えないように入っていることを確認すると、念のため羽織っていたカーディガンを脱いで、トートバッグに被せた。

 八重の研究室は4階にあった。目当ての場所は地下にある。本来なら、この時間に地下に降りる必要性はまったくないのだが、誰かに会ってしまった時のために、それらしい理由も考えていた。

 大きく息を吸ってからドアを開き、廊下に出る。ただこれだけのことで、心臓が鼓動を速めた。左右を見渡しても、歩いている人はいない。これからエレベーターホールに行ってエレベーターに乗るまで、誰にも会わないように祈りながら、八重は歩き出した。

 エレベーターの下ボタンを押す。1階から上がって来る僅かの時間が、とても長く感じられる。扉は開いたが、中には誰もいない。待機状態で呼んだのだから、当たり前のことなのに、ホッと息が出た。乗り込んで、地下のボタンを押す。次は途中で誰かが乗ってこないことを祈る。しかし、その祈りもむなしく、エレベーターはすぐに減速し、2階に止まった。扉が開いて、職員二人が乗り込んできたが、知り合いではなかった。スマホを見ているフリをしながら1階で降りる二人を見送りつつ、閉まるボタンを連打した。ここで誰かに乗られたら、まずいことになる確率が大きく高まる。

 やがて扉が閉まり、エレベーターが動き出した。また一つ問題をクリアしたが、降りた先に誰かいても困るし、目当ての場所まで約30m進む時も危ない。

 鼓動はいよいよ高まってきたが、扉の先には誰もおらず、廊下もしんと静まり返っていた。よし、いい兆候だ。自然と速足になって、目当ての場所まで来ると、金属製のドアをノックした。インターホンは記録が残るので、使いたくない。

 三度目のノックで、扉が開いた。中から見慣れた人物が顔を覗かせた。

 「あれ、渡辺先生。どうしたんですか?」

 白衣を着た銀縁メガネの彼女は、湯浅由乃。大学院で考古学に理系でアプローチする様々な研究を行っている。学生時代から、八重とは様々な場面で一緒に活動することが多く、卒業論文の作成に当たっては、大いに議論を交わした。それが縁となり、湯浅は就職を取り止め、大学に残る決意を固めるキッカケとなったし、八重も出土品についての科学的調査を湯浅に頼んだりと、お互いに助け合う存在となった。

 だが、今は研究中の題材もないし、貴重な資料が数多く保管されているこの場所に、八重が来るべき用事はなかった。

 「お願いがあるの。とにかく、中に入れてくれる?」

 八重がそわそわと周囲を見回すのを察知して、湯浅が体を避け、八重を室内に導き入れると重い扉を閉めた。

 中に入ると、八重は扉にもたれかかり、胸に手を当てて大きく息を吐いた。

 「何かあったんですか?」

 心配そうにしながら、湯浅が水のペットボトルを差し出した。

 「ありがとう。誰かに見つかりはしないかと、ドキドキだったのよ。」

 そう言ってボトルのフタを開き、水を一口飲む。ほどよく冷えた水が胃に落ちていくのがわかり、それとともに八重は落ち着きを取り戻した。

 「・・・実はね。助けてもらいたいことがあるの。」

 そう切り出した八重は、これまでの経緯を『信じられないと思うけど』と前置きした上で話した。この若くて鋭敏で、将来有望な若者を巻き込むに辺り、それは最低限の礼儀だと思ったし、またその方が、湯浅は協力してくれる、と踏んだのだ。それと、もう一つ。万が一自分に何かがあった時のため、真実を知る研究者を作っておきたかった。

 思った通り、最初は目を丸くして、次にニヤついて話を聞いていた湯浅だったが、八重の真剣な眼差しと話の熱量に圧倒され、最後の方には時折質問を差し挿みながら、静かに話を聞いていた。

 「・・・それで、分析したいという古文書はどこですか?」

 八重が話し終えると、湯浅はむしろ強い興味を覚えたようだった。

 「ここに・・・。」

 そう言って、八重が防水バッグを取り出す。慎重にジッパーを開き、中を覗き込むと、さらにジップロックで小分けにされた数冊の本が見えた。いずれもかなりの年代を経過している物であることは、すぐにわかった。

 湯浅は防水バッグのうち一つを受け取ると、研究室の奥の、さらにガラスで区切られた一角へと進んで行く。

 「ねえ、さっきも話したけど、これは盗品なのよ。それを調べるっていうことは・・・。」

 八重がそこまで話したところで、湯浅が振り向き、指を上げて制止する。

 「大丈夫です。これから起こることは、この部屋から外には出しません。それに、私は事情を全てわかった上で、協力するんです。たとえちょっと経歴に傷がついたとしても、このチャンスを逃すことはできません。信用して頂いて、大丈夫です。」

 そこまで言われては、八重に返す言葉もない。

 奥の扉を開け、さらに中に進むと、右奥に放射線マークのついた重厚な金属扉がある。あの中に、今回の目当ての機械が収まっている。

 X線CTスキャン装置。それまでのX線スキャンでは透視することのできなかった、墨書の透視スキャンが可能な装置だった。インクと紙と違い、墨も紙も同じ炭素のため、通常のX線スキャン装置ではテキストだけを抽出するのが不可能であったのだが、この装置はそれらを分類し、三次元的に再構成することで、ページごとに「何が書かれているか」を明らかにすることができる。専門的に言うなら、位相コントラストを用い、屈折率の違いを検知して撮影することができ、墨と紙の僅かな密度差、組織変化を検出する画像解析が可能となった装置、ということになる。

 この装置の登場で、古代日本や古代中国のいわゆる「墨書文化」で書かれた古文書の解析が、飛躍的に進むことになったのだが、問題はその使用電力の多さと、サーバーコンピューターの占有率だった。そのため、使用に当たっては、本来、学長の許可が必要となる。

 湯浅は最初に電子顕微鏡を用い、それぞれの冊子のページ数をざっと計算した。ページ数が多くなれば、それだけスキャンにも再構成にも時間がかかることになるからだ。計算の結果、全ての防水バッグをスキャンするのに、18時間から20時間の時間が必要になる、ということだった。

 「誤魔化しながら装置を作動させられるのは、恐らく一日あたり一時間が限界ですね。ざっと3週間から4週間、というところでしょうか・・・。」

 湯浅は顔を上げると、そう言った。

 「やっぱり、それくらい掛かっちゃうわよね・・・。」

 「お急ぎなら、時間を半分にする方法も、ないではないんですが・・・。」

 「それは? どうするの?」

 「今の時間は、撮影と解析を私が一人で行った場合の時間なんです。でも、解析を誰かに手伝ってもらえれば、単純に時間は半分で済みます。」

 「・・・魅力的な提案だけど・・・危険は増すわね?」

 「事情を知る人が増える、という点ではそうですが、時間的な問題で事が露見したり、作業を中止せざるを得なくなる、という危険度は減ります。実は一人、適任と思う人がいるんです。」

 その人物は、湯浅の後輩に当たる人物で、今年から院生としてこの研究室に参加することになった、上椙千英という人物だ。X線CT装置の事実上の開発者の娘であり、本人もこの装置のエキスパートだと言う。

 「・・・実は・・・私の、彼女なんです。見た目は、ちょっとアレなんですけど、この装置で解析をさせたら、日本一の腕だと思いますよ。」

 これも時代だと思うが、最近では教え子でも同性愛のカップルが多いので、驚きはしない。それに、湯浅の言うことももっともだった。一ヶ月もの間、この作業を隠し通せるものなのか、大いに不安がある。さらに、その間に新たな「正規の」研究依頼が舞い込めば、ここも多数の関係者が出入りすることになり、こちらの動きは止めざるを得ない。

 「わかったわ。じゃあ、二人でお願いできる?」

 「はい!じゃあ、連絡入れてみますね?たぶん、今は資料室にいると思うので!」

 驚くほどすぐにスマホが繋がり、さらに驚くほど速く、上椙は研究室に戻って来た。

 そしてその外見に、私はもっと驚かされた。耳、鼻、口の端、至る所にピアスがこれでもかと付いている。顔だけで相当の重さになる気がする。髪型はショートボブで、緑色のメッシュが入り、目の周りが真っ黒に化粧されていた。派手な英語の書かれたTシャツの裾からへそが見え、下はジーンズのショートパンツだが、これもあちこちダメージが入っている。下着が見えないところを見ると、もしかして下着は付けていないのかも知れない。

 彼女はムスッとした顔で涼しげに部屋に入って来たが、私を見つけると途端にたじろいで、モジモジし始め、湯浅の後ろに隠れてしまった。

 「彼女が上椙千英です。・・・実は、先生の大ファンで・・・。」

 「ほんとに? 一度も研究室に来たことはないわよね?」

 研究室どころか、ゼミでも、もちろん授業でも会ったことはなかった。この外見なら、一度会えば忘れるわけがない。

 「あ、あのっ!『北海道と本州における縄文式土器の態様差異』すっごく勉強になりました!デーノタメ遺跡の論文も!」

 予想したよりだいぶ高い声だった。声変わり前の男の子の声に似ていた。私の研究論文の中でも、歴史のある、あまり有名でないものを挙げてきたところからすると、かなりコアなファン、ということらしい。

 「ありがとう!そう言ってもらえて、とても嬉しいわ!それでね・・・。」

 私は途中まで事の経緯を説明し、その後のことは湯浅が噛んで含めるようにして説明していた。その間もチラチラこちらを見ながら、クネクネしている。

 「わかりました!全力全開でやりますっ!」

 両の手を握りこぶしにして、縮こまるようにしながらキラキラした目でそう言われる。その気はまったくない私でも、カワイイと思える仕草だった。

 「あ、ありがとう。でも、ちゃんと理解してる?場合によっては放校処分になるかも知れないくらいのことよ?・・・もっと悪いかも。」

 「大丈夫です!せんせぇの頼みで、由乃もやるなら、刑務所入っても全然大丈夫です!」

 間違いなく、「せんせぇ」と聞こえた。ますますかわいい。

 時計は7時の少し前を指していた。今日は8時までなら問題なく作業ができるらしい。二人はてきぱきと準備をし始め、5分も経たないうちに装置のスイッチが入れられた。予想していたよりも音が大きい。ブーンという重い低周波の音が、耳を刺激する。装置のアイドリングに約10分、やがて装置が稼働し始めると、ウィーンというような機械音も混ざり、音はますます大きくなった。

 湯浅の撮影した画像が、次々とモニターに映し出される。それを見ながら、上椙が「2ポイント戻して」とか「右1度角度付けて」などとヘッドセットで湯浅に指示を出していく。その間も上椙の手は動きを止めず、画像を回転させたり、重ねたり、ずらしたりを続けている。なるほど、速い。前に同じ作業を見学した時は、3人掛かりで意見を交換しながら、驚くほどの時間が掛かっていたが、湯浅と上椙のコンビはほんの数分で1ページを仕上げた。

 「・・・先生、ちょっと見てもらっていいですか?」

 上椙がまじめな顔で私を呼んだ。先ほどとは打って変わって、研究者の顔をしている。モニターに出ていたのは、最初のページだった。

 「・・・これ・・・サンスクリット語じゃない。」

 書かれていた文字は、日本語ではなかった。サンスクリット語、つまりは梵字だが、横書きのまま書かれていた。ということは、中国を経由していない文典ということだ。サンスクリット語は、はるか古代に中国で縦書きに直され、日本に多く伝わっているのも縦書きの物だ。通常は左から右に読むが、「逆からも読める」文字であり、読み方で意味が変わる、という性質を持っている。しかし、縦書きに直されたことで「真の意味」が伝わっていない可能性が、前々から指摘されていた。これはいわば「原典」で、歴史的にも非常に重要な発見となる可能性がある。時代測定はしていないが、中国を経由しないで日本に渡来した可能性のあるものだった。

 その後も次々とページが形となっていき、8時少し前に、最初の一冊25ページがプリントアウトされた。区切りもいいので、今日はここまで、ということになった。3人で頭を突き合わせるようにプリントアウトを覗き込んだが、まったく読めない。現代の文字とは形が違うのだ。

 「せっかく作業してもらったけど、これじゃ読めないわね。」

 八重は自嘲気味に笑ってプリントアウトの束を振った。解読できる人間を探さなくてはならないが、それには様々な問題がある。読めそうな人間を当たってみるか、という湯浅の問いに、八重はノーと答えた。それにはこのプリントアウトを見せなくてはならない。書いてある内容がわからない以上、危険なことだ。先ほど八重が気付いたことにその人間が気付きでもしたら、それを大々的に発表されたら、大変なことになる。

 「それにしても・・・世紀の発見となるかも知れない文献が、なんの研究もされずにしまい込まれていたなんてね・・・。」

 八重は大きくため息をつくと、荷物をまとめて3人で部屋出た。

              ※

 「ただいまー」

 考えていたよりも早く、母が帰って来た。

 「お帰りなさい!」

 珍しく玄関まで出迎えに出た娘を見て、母は驚いたらしい。

 「どうしたの? 珍しいわね。」

 そう言いつつも、まんざらでもないようだ。二人で部屋へ入り、私は母の夕食を準備する。準備と言っても、スーパーで買って来たお惣菜をレンチンして、みそ汁を温めるくらいのことだけど。リビングでテレビを見ていた鬼丸が期待の眼差しでこちらを見ていたが、私は首を振り、鬼丸の分はもうない、と目顔で告げた。

 「学校は、どうだった?」

 部屋着に着替えた母が、コピー用紙の束を持ってダイニングに入って来た。私は学校での一連の出来事を母に伝え、母の笑いを誘った。

 「それは、大変だったわね。そっか、博正君はやっぱりモテるか。」

 「もう、大変な騒ぎよ。それで、お母さんの方は?」

 「そうそう、今日は最初の一冊を形にできたんだけど・・・。」

 そう言って、母がコピー用紙を手渡してくる。まるで、毛虫が這いずり回った跡のような記号が、ずらずらと書かれていた。

 「何、これ?」

 「サンスクリット語っていう文字なんだけど、まったく読めないの。元々、暗号的要素の強い言語ではあるんだけど、文字自体もかなり古い物なのよ。」

 「お母さんでも読めないの?」

 「そうね。見覚えのある形はあるんだけど、それが今の読み方で合っているかどうかがわからないから、一つ一つ解読していくしかないわね。」

 私は、正直がっかりした。学校で何も進展がなかった分、期待していたから。それから、母から湯浅さんと上椙さんの話を聞いた。どちらも信用できるし、この手の作業なら日本でもトップクラスの精確さを持っているらしい。大学で隙を見ながらの作業になるので、ある程度の時間は掛かりそうだったが、いずれ必ず作業は終了するはずだ。

 「とにかく、気を付けてね。」

 私はそう言って、それから世間話を少しして、鬼丸を連れて二階へと上がった。

 「そう落ち込むでない。何も進んでいないようで、しっかり前へ進んでいるはずじゃ。明日、清明に見てもらうと良い。」

 「ありがと。鬼丸って、刀の精って言うけど、かなり人間味あるよね。こうやって慰めたりしてくれるし。」

 「そうかの? まあ、いろいろ見て来ているからのう。知らず知らずのうちに、身についてしまったようじゃの。」

 言いながら、鬼丸は部屋の床にごろんと横になる。

 「ねぇ?そういえば、ソフトクリーム好きなんだよね?」

 むくりと起き上がり、こちらに向き直る。

 「ぅん? うむ、好きじゃ。大好きじゃ。」

 「じゃあ、明日は博正の部屋に行く前に買っていこう。」

 「まことか!久しぶりじゃのう!ばにらで頼むぞ?」

 「わかった。」

 それだけのことだったが、鬼丸はとても嬉しそうだった。こんなに喜ぶなら、今日買ってあげれば良かった。部屋の明かりを消して、寝る体制に入る。今日はなんだか、心がポカポカして、よく眠れそうだった。


火曜日(6日目)

 翌日、学校では特に変わったことはなかった。「博正フィーバー」は継続しており、上級生や下級生まで噂が広まったせいか、廊下の人だかりはむしろ昨日より多いくらいだった。下校時のホームルームの時間、さすがに看過できなかったのか、教頭から異例の全校放送で校内でみだりに騒いだり、特定の教室や人物の周囲に集まらないように、と指導があり、明日以降は教室移動や部活動の連絡など、特段の用件のない生徒は他クラスへの入室を禁ずる、ということになった。騒がしくなくなるのは歓迎だったが、私たちの情報収集にも制限がかかる。

 学校から帰ると、私服に着替え、昨日のプリントアウトを持って博正のマンションに向かう。ちょっと遠回りして、鬼丸のためにソフトクリームを買った。そのまま人気のない路地裏に入り、狭間から手だけを出した鬼丸にソフトクリームを手渡す。

 マンション前に人だかりはなかったが、私は念のために一旦地下駐車場に降り、そこからエレベーターに乗った。

 博正の部屋に入ると、清明がすでに着いていて、二人で父のスーツケースの中身を検分しているところだった。鬼丸もすぐに出てきて、興奮した様子でソフトクリームの美味しさを清明や博正に力説して、二人の笑顔を誘った。

 「博正が例の『鬼祓』が気になるらしくてな。ちょっと触らせてたところだ。」

 清明もそう言いながら、自分も例の豪華な首飾りを手にしていた。

 「うん。やっぱり、こっち方面から調べていかないとダメかも。これ見てみて。」

 そう言って、私は例のプリントアウトの束を清明に差し出す。清明はそれをいろいろ角度を変えて見ていたが、文字を読むどころか、どちらが上なのかもわからない様子だ。

 「なんだ、これ?中東の文字みたいだな。」

 「サンスクリット語って言うんだって。でも、今と文字の形がかなり違うみたいで、お母さんでも、解析を手伝ってくれた人でも読めなかった、って。」

 私はそこで、あらためて昨日母から聞いた話を清明に伝える。博正は笛に夢中で、話を聞く気はないらしい。

 「残りの冊子も、こんな感じかな? これ、読める人実在するのか?」

 清明はプリントアウトをパラパラとめくって、ため息を吐いた。清明も期待していた分、ショックが大きいようだった。今、眼前に広がっている品々についてのヒントも、この冊子にあるということだったので、それはつまり、こちら方面からのアプローチもうまく進まないことを意味する。

 私が暗い顔をしたのが気になったのか、清明は努めて明るく、こう付け加えた。

 「まっ、こうなったら適当に触ってみるしかないかな。博正も気にしてるし・・・。」

 途端に、それまで無関心だった博正が反応を見せた。

 「これ、吹いてみていいの?」

 「じゃあ、ちょっとだけね。少しでも異変を感じたら止めてね。鬼丸も、何か感じたら声掛けてくれる?」

 鬼丸はソファに座って足をパタパタさせながら、了解の印に手を挙げた。

 すぐに、低音から高温の音階が博正の手で奏でられた。音階の幅はだいぶありそうだった。博正は指の位置だけでなく、口の当て方や笛の角度をこまめに調整しながら、笛を吹き続けた。そのまま数分、博正が吹くままに吹かせているが、異変は起こらない。鬼丸を振り向いてみても、首を振るばかりだ。

 「なんか・・・確かに音色はきれいだけど、これもただの笛っぽいね。」

 小声で清明に耳打ちすると、清明も苦笑いを浮かべてうなずいた。ようやく博正が笛から口を離し、驚きの目で手の中の笛を見る。

 「これ、すごいよ!デタラメに吹いただけだけど、4オクターブは出そうだ!」

 博正は興奮して笛の説明を始める。口を付ける口孔が2か所あり、角度が少し違うらしい。指孔も全部で12あり、もしかしたらそのうちの一つは口孔かも知れない、ということだった。一般的な龍笛でもなく、古今東西、こんな特殊な笛は見たことも聞いたこともない、と言う。さすがに音楽や楽器については、博正の知識は確かなものだろう。

 「すごい笛」なのはよくわかったが、これがこれから始まる鬼退治に、どのような役割を担っているのか、知りたいのはそこだ。父が法を犯してまで手に入れたのだから、何かはあるはずなのに、それがわからないのがもどかしい。

 「じゃあ、俺はこっちを試してみるか・・・。」

 そう言って、今度は清明が首飾りを手に取る。サイズ的には、男性物のような気がする。いわゆる止め金具はついておらず、鎖の端についている球状の金具を、もう一方の受けの金具にはめて首に掛けるようだ。清明が不慣れな手つきで首飾りを首に回し、パチンと音を立てて金具がはめこまれた。サイズ的には、清明でも少し大きめな感じだった。中央の星型の金具が、鳩尾近くまで来ている。

 「・・・どう?なんか、感じる?」

 博正が聞いた。

 「・・・いや・・・特に・・・何も・・・。」

 清明はそう言いながら、しきりに目を瞬いたり、室内をあちこち見渡したりしていたが、やがて不審そうに掛けていたメガネを外す。

 「待て!嘘だろ!視力が元に戻ってる!」

 言いながら、メガネを掛けたり外したりしていたが、やがて確信したようだ。

 「うん、間違いない。メガネなしで、ハッキリ見える!」

 そう言うと、清明は首飾りを外そうとした。これがこの首飾りの効果なのか、確かめようと言うのだろう。だが、どうしても外せなかった。やがて私と博正も加わって、二人がかりで試みたが、やはりびくともしない。球状のものが、6本爪の籠のような金具にはまっているだけなのに。

 「ダメ。どうしても外れない。」

 「油かなんか、ないのか?滑らせたらどうだ?」

 清明が提案するが、油などない。スマホで検索すると、ハンドクリームが有効と書いてあった。それなら持っている。だが、結果は同じだった。『外れそうに』すら、ならない。3人とも、嫌な予感がしてくる。RPGなんかだと、これはつまり『呪われたアイテム』という結末が待っているパターンだ。

 その後も、熱してみたり、冷やしてみたり、金具以外のチェーンの部分をペンチで切ってしまうことまで試してみたが、いずれもダメだった。ほんの2~3mmの鎖が、どうしても切れない。

 「これは、やっぱり・・・。」

 博正が口に出すべきでないことを言い出しそうだったので、私は慌てて提案した。

 「ちょっと!ひとまず落ち着こう!もっとよく見てみるから、清明、一旦座ってくれる?」

 ソファに腰掛けた清明の後ろに回り、金具の部分を持ち上げようとした時、清明がいきなり前に倒れ込み、私の両手は空を切った。

 「な、なによっ!」

 清明の様子を確かめようと覗き込むと、清明がプリントアウトを手にしていた。よく見ると両手が小刻みに震えている。

 「ど、どうしたのよ・・・。」

 明らかにおかしな清明の様子に、私は不安を感じた。

 「よ、読めるんだよ・・・。意味が、わかる!」

 「えーーーーっ!」

 私と博正の声が、室内に響いた。

 清明はその後も一心不乱に、という感じでプリントアウトを読んではめくり、あっという間に読み終えると、確かめるようにもう一度最初から読み直した。わたしも博正も、鬼丸さえもその様子に釘付けになる。こういうのを、鬼気迫る、と言うのだろう。声を掛けてはいけないような雰囲気だ。

 「完全に、読めた・・・。」

 清明はプリントアウトを手にしたまま、大きく息を吐いてソファにもたれかかった。自分でも信じられない、というような顔をしている。

 「で、なんて書いてあったの?」

 博正が声を掛ける。清明が明らかに消耗した顔してても、博正には関係ない。

 「・・・ああ、これは、インドの・・・マガダ国の記録だ。六本腕で赤い体の女の鬼が暴れ回って、王が派遣した600人の精兵を一人で全滅させた話だ。それを、一人の旅の僧侶が女の赤鬼を封じ込めて、王から国の4分の1を褒美にもらって、そこに巨大寺院を建てた、と書いてある。」

 「・・・すごい。これが、首飾りの効果?」

 「いや、それは分からないけど、まるで日本語を読むように読めるよ。ちなみに、誤字が一か所あった。ここだけど。」

 そう言って清明はプリントアウトの一か所を指差したが、私にわかるはずもない。

 「そ、そうなんだ・・・。この調子で、他のも読める、ってことかな?」

 「わかんないけど・・・そうだといいな。そうしたら大きく前進することになる。」

 清明は、そう言って首飾りに目を落とす。もう外したい気持ちはどこかに行ってしまったようだった。

               ※ 

 自分の研究室で、そわそわと落ち着かない気分で明日の講義の準備をしていた八重は、那津からのラインを読んで目を大きくした。プリントアウトの解読に成功し、それにはスーツケースに入っていた首飾りが一役買っているらしい、と書いてあった。

 「伊織さん・・・。」

 この結果をもたらした伊織に、その識見の確かさに、あらためて尊敬の念が沸き起こってくる。と、同時に、父親としての娘への愛に感動を覚えた。あのとき、あのリビングで、伊織は娘に後難を与える結果になってしまったことを詫び、何一つ父親らしいことをしてあげられなかったことを悔やんでいた。だが、その後難に立ち向かうための準備は確実にしてくれている。まだ数日しか経っていないと言うのに、那津も、その仲間たちも、ものすごい速度で成長しているのが、感覚でわかる。その種を撒いたのは、間違いなく伊織だ。

 「あなたができなかったことは、必ずやり遂げて見せるわ。那津と、私でね。」

 八重は、トートバッグを掴むと、地下へと降りる準備を始めた。 
       

 「ほんとですか!? それは、すごいですね!」

 那津からの連絡を湯浅に告げると、湯浅も上椙も手を取り合って喜んでくれた。この子達にとっては、せっかくの大発見の機会をみすみす見逃すことになると言うのに、そういった思惑はまったく感じられなかった。

 「じゃあ、じゃあ、こっちもはりきってスキャンしないと、ですねっ!」

 上椙は相変わらずのはしゃぎようだ。研究に向き合ってる表情とのギャップがすごい。

 時間は早いが、今日はスキャニング作業を開始することにした。湯浅が他の研究室のスケジュールを確認してくれたおかげで、夜間を待たずとも作業ができる「隙」を見つけることができたのだ。今日は電力もサーバーも余裕がある、貴重な一日だった。明日はほとんど隙がなく、明後日は午前中に隙がある。

 二人の作業は、まるで二重奏を見ているような気分になるほど、息が合っている。これは、上椙の作業の速さが常識外れなためだ。通常、スキャン途中では調整の難しい位相コントラストを、まるで全て見通しているかのように指摘し、調整していた。そのため、撮影回数自体が極端に少なくて済む。もちろん、湯浅が上椙の指示を的確に実行する撮影能力を持っていることも、効率に大きな影響を及ぼしている。

 4時過ぎにスキャンを開始し、8時前には最初の防水バッグに入っていた8冊のうち4冊分のスキャンが終わり、プリントアウトの枚数は90枚に達した。漢字で書かれた物、わけのわからない記号が規則的に並んだもの、そして神代文字で書かれた物が2冊分。昨日分と合わせて、13冊のうち5冊の復元に成功した形となる。二人はまだ作業を続ける様子だったが、二人に濃い疲労の影を見た八重が作業を止めた。

 「あなたたち、もしかしたら世界一の技術者かも知れないわね・・・。」

 八重は感じたことを、素直に表現した。世界広しと言えど、4時間に足らない時間で90枚分のスキャンができる人間など、いるわけがない。

 「ねぇ、今日はみんなで飲みに行かない? もちろん、私がおごるわ。それに、いずれ必ずお礼もさせてもらう。あなた方には、本当に申し訳ない・・・。」

 そこまで言って、八重は嗚咽が抑えられなかった。自分のために、自分たちのために、彼女たちはこの偉大な功績を表に出せない。研究者として、その悔しさ、無念さは痛いほどわかる。それなのに、これだけ精力的に作業をこなし、疲れた顔ひとつ見せようとしないのだ。

 「ちょ、ちょっと先生!やめてください!」

 深々と頭を下げた八重を、湯浅が慌てて起こそうとする。上椙は突然のことに、面食らっているようだった。

 「だ、だって!あなたたち・・・こんなに・・・こんなにすごいのに・・・。」

 「それは、先生のためだから、です。他の人のためなら、いえ、自分のためでもここまで集中はできないと思います。それに、私たちもしっかり経験を積ませてもらってますから、ご心配なく!」

 「そ、そうですよ!時代も紙質も様々、おまけに文字も見たことないのあったりして、この経験はこれからの研究に、大いに役に立つはずです!」

 「・・・ありがとう、ありがとう。」

 それから、なぜか3人で泣き疲れるまで泣き、結果、八重の家で宅飲みすることになった。さすがにこれだけの貴重品を持って、その辺の居酒屋に行くわけにもいかない。

              ※

 母からの連絡で、スキャン作業が大いに捗り、今日はその功労者を労うための食事会を催す、と言う。私たちにも合わせたいそうだ。

 「そういうことなら、僕の家に来てもらえば?もしかして、ここにある品物のヒントを持ってるかも知れないし。」

 博正はとぼけているようで、時々こういう「ど正論」をかます時がある。数々の文物を見てきた研究者の目なら、確かに何かヒントになるものが得られるかも知れなかった。

 「いいの?じゃあ、それで連絡入れるよ?」

 こうして、博正のマンションに、我々4人と母たち3人が集合することになった。間もなく帰って来た3人は、抱えきれないほどの寿司とピザ、飲み物を抱えてやってきた。私たちはその飲食物の多さに度肝を抜かれたが、3人は博正の部屋の豪華さに度肝を抜かれたようだ。

 「ここに、高校生一人で住んでるの!?」

 挨拶もそこそこに、開口一番、湯浅さんが口にした言葉だった。驚きと羨望と、多少の妬ましさが入り交じった表情だ。上椙さんと紹介された女性の服装は、清明と博正には刺激が強過ぎただろう。私も驚いた。あれだけ穴だらけのパンツなら、履いてないのと同じだ。逆に、上椙さんは鬼丸に夢中だった。鬼丸が狼狽するくらい質問攻めにし、撫で回し、抱き締めていた。

 母は二人の凄さと、これまでの経緯を簡潔にまとめて話してくれた。こちらも、清明の首飾りについて報告し、博正が笛について説明を繰り返し、鬼丸は狭間に出入りして二人を驚かせた。

 「・・・実際に目にすると、やっぱり驚きますね・・・。疑っていた訳ではないんですが、全部本当の話、なんですね・・・。」

 湯浅さんはあらためて母を見つめ、母は黙ってうなずいた。上椙さんの方は、そこまでショックは受けなかったようだ。話を聞いてみると、実は子供の頃に鬼に出会ったことがあるらしい。研究に没頭していた父の背後にいたのだ、と言う。だから、母からこの話を聞いた時に、「やっぱりいるんだ」と思ったそうだ。

 「科学が万能でないことを、科学的に証明する」

 これが、上椙さんが生きているうちにやりたいことなのだと言う。

 その後、食べたり飲んだりをしながら、本日分のプリントアウトを清明に見せた。思った通り、清明は全てのプリントアウトが「読める」ということだった。15分ほどでざっと目を通すと、漢字で書かれた物は「鬼祓」の数々の逸話を集めた話で、使用説明書のような意味合いがあると言う。記号の羅列は、今でいう楽譜だそうだ。そして神代文字で書かれた2冊は、清明の首飾りについてのものだった。記したのは、安倍晴明本人のようだ、と言う。

 「さらっと流し読みしただけだから何とも言えないけど、どうやら鬼と戦うための術が書いてあるみたいだ。」

 とうとう、本題である「鬼退治」に近い話が出てきた。嫌が上でも緊張が走る。そうなると、残りの古文書についても同様の内容の可能性がある。

 「これは・・・ますます本気にならざるを得ませんね・・・。」

 湯浅さんがそう言うと、上椙さんも力強くうなずいた。

 清明も博正も、顔つきが変わって来た。「鬼と実際に戦う」という現実が、確実に近付いている気がする。鬼丸だけはいつもと変わらず、日本酒を飲みながら、寿司に舌鼓を打っていた。

 

 それからの三日間、母と湯浅さん、上椙さんのチームは、精力的にスキャンを進め、プリントアウトが毎日届いた。清明はそれを次々と自分の物にしていき、博正も手に入れた楽譜で、鬼祓で奏でられる曲が徐々に増えていく。

 そして金曜日の夜遅く、とうとうスキャン作業が完了し、全ての古文書が解析されて私たちの手元に届いた。その内容は、ほとんどが清明の首飾りに関する記述だった。この首飾りには安倍晴明の魂の欠片が封入されていて、使用者たる、と認められれば、強大な力を手に入れられる、という。ただし、心願成就までは決して外れることがない、というおまけがついていた。

 首飾りに付けられた勾玉には、それぞれ晴明が鬼や魔物を退治する際に使役した「式神」が封入されており、その式神についての記述が4冊、さらに晴明本人の術式について記載した物が1冊、一番分厚い古文書に書かれていたのは、鬼界と人界を永遠に隔てる術式を事細かに示した物だったが、そのために必要な材料が、現在では手に入らない物が多数あるため、実際には実行不可能だと判断された。

 鉢金についての記載もあった。頭に巻いて使用する防具の一種で、使用者の身体に強力な守護の力をもたらすのだと言う。

 その他、鬼や魔物の出現場所やその様子などを記載した絵地図、時の帝から晴明に下された、魔物調伏依頼の詔、またその感状、晴明が「心気を高める」ために行っていた生活の方法が書かれたものなどがあった。

 鬼丸について触れられた古文書は、ついに1冊もなかった。

 「本当に、お疲れさまでした。大学の方は、大丈夫そうですか?」

 母を含め、スキャンチームの疲労は極限状態にあるようだった。湯浅さんのふわふわの髪が、パサパサに乾いてしまっているようだったし、上椙さんは今にも倒れそうな顔色をしている。

 「来月の電気代が大学に請求されてからが勝負ね・・・。そこのところは、私が偽装を考えてるから、それで誤魔化すわ。」

 母は強気にそう言っているが、不安の色は隠せない。

 「皆さんにはなんてお礼を言ったらいいか・・・。でも、おかげさまで『向こう』の様子もだいぶわかりましたし、僕達も那津と一緒に戦えるだけの準備はできたと思います。」

 清明が神妙な面持ちで、3人にお礼を述べた。

 「・・・電気代のことなんですけど・・・万一の場合は、僕が寄付する、ということでいかがでしょうか?」

 博正が気づかわしげにそう提案する。一見突拍子もない案に思えたが、母や他の二人に疑惑の目が向いた時に、博正がスポンサーだったことにして大学側に実害が及ばなければ、何らかの処分が下されたとしても、軽微なもので終わる可能性はあった。つまるところ、『札束で黙らせる』というやつだ。大抵は悪役の所業だが、今回は仕方ない。

 「やっぱり、博正君ってお金持ちなんだ?」

 湯浅さんがふんわりした笑顔で言った。目は笑ってないように見えたけど。

 「音楽会社や楽団との契約金とか、演奏の印税もあるので。」

 博正も存分に「金持ち具合」を発揮している。「いくらあるか」ではなく「わからないけどたくさんあるよ」なのだ。そのうち誘拐とかされるんじゃないかと心配になる。

 「じゃあ、万が一の時は、頼らせてもらうわね・・・。」

 母は笑顔だったが、その奥底には大きな不安が眠っているようだ。ここから先の戦いに、母は入り込めないのだ。手伝えることは、終わった。

 「話は、済んだか?」

 そこに、鬼丸が手にお盆を持って現れた。お盆には、瓶子と人数分の盃が乗っている。清明が古文書から手に入れたレシピで作成した、疲労回復と活力増加に効果のある酒が入っている。これで、『固めの盃』を交わそうと言うことだ。

 全員の盃に酒が満たされた。そこでみんなが交互にみんなを見る。だれが乾杯の音頭を取るのか、で、無言の攻防が繰り広げられていたが、やがて全員の視線が清明に向けられた。清明は驚いた顔をしたが、全員の期待のこもった眼差しに、覚悟を決めたようだった。

 「えー、では。これからは僕たちの戦いになります。でも、常に皆さんと一緒に戦ってるつもりです。敵は歴史上に何度も登場する『災い成す者』ですが、必ず打ち倒して帰って来ますので、それまで、待っていて下さい! 解析作業お疲れさまでした! 乾杯!」

 「乾杯!」

 全員が盃を空けた。お酒の味がわからない私たち3人は、一様に「うえっ」という顔をしていたが、母たちは反応が違う。

 「な、なにこれ!美味しい!」

 「初めての味です!濃厚なのに、爽やかで!」

 「うっま!」

 「むぅ・・・さすが、『晴明酒』じゃのう・・・。」

 鬼丸は早速瓶子を取り上げると、自分の盃を満たし、それから母や湯浅さんの盃も満たした。そんなやり取りが数回あった後、とうとう瓶子は空になったが、皆が名残惜しそうに瓶子を見ていた。

 「あ、また作っておきますから!今度は・・・少し、多めに。」

 大人チーム全員が笑顔になった。鬼丸だけが一人瓶子を持ち上げ、さかさまにして口に付けていた。

土曜日(10日目)

 翌日、私たちは得た力の成果を試すため、『狭間』に入っていた。清明が「土鬼の術」とやらで、鬼のダミーを作り出し、実際に術や博正の笛を試してみよう、ということになったのだ。『狭間』は、一言で言うなら、「あらゆる生き物のいない人界」だった。時折、何かの拍子で迷い込んだ生き物に出遭うこともあるらしい。鬼界のような歪みもないが、空の色は見たことのない奇妙な青と赤のマーブル模様だった。

 「準備、いいか?」

 清明の質問に、二人ともうなずいて答える。鬼丸は刀になって、私の手に握られていた。清明もうなずき返し、胸の前で次々と『印』を結びながら、聞いたこのない言葉で『呪文』を唱えていた。ある程度のプロセスは聞いていたが、実際に目にするとなんとも奇妙な光景だった。

 変化はすぐに現れた。目の前の地面がボコボコと煮立ったように波打つと、それはどんどん人の、いや鬼の形を作っていった。わずか数秒で、鬼の彫像が形作られた。

 「できた・・・ほんとにできた・・・。」

 一番驚いているのは、当の清明だった。

 「で、これを壊すの?」

 博正が身も蓋もないような発言をする。

 「まだだよ!いいか、動かすぞ?」

 清明が短い呪文を唱えると、彫像が動き出し、こちらに向かってきた。今度は博正の鬼祓を試す手はずにはなっているが、いざとなれば切りかかれるように身構える。そんな私の気持ちを知ってか知らずか、博正は落ち着いた態度で優雅に鬼祓を取り出すと、静かに目を閉じて瞑想を始めた。まったく、演奏会じゃないんだから、そういうデモンストレーションはいらないって言うのに。

私は博正と鬼との距離を測りながら、今か今かと笛の音が聞こえるのを待っていたが、博正は鬼祓を咥える気配すらない。いよいよ間に合わない、と私が跳躍しようとした瞬間、嫋々と笛の音が響き渡った。途端に土鬼はビクンと震えて後ろに後ずさり始め、やがて頭を抱えるようにしてうずくまり、その動きを止め、やがて元の土塊へと形を移した。

「見たか!『鬼殺し』の笛!」

博正が、鬼祓を突き出すようにしてポーズを決める。これからずっとこの調子なのだろうか。どうも博正は芝居じみた動きをしないと気が済まないらしい。と言うより、幼少期から「人を魅せる」ことが身に沁みついているのかも知れない。とにかく、博正の鬼祓も効果を発揮することはわかった。

その後も、清明が土鬼の数を増やしたり、動きに統率性を持たせたりしながら、清明の術や博正の他の曲など、いろいろと試すことができた。都合30体目くらいを倒し終わると、清明が急に地に膝を着いた。

 「やば。MP不足・・・。」

 なるほど、実際にMP不足になると、人はこうなるものなのか。こういう時、ゲームなら回復アイテムを使って瞬時にMP補給ができるけど、もちろんそんな便利なアイテムはここにはない。

 「ちょっと・・・式神、試してみるか・・・。」

 清明はそう言うと、首飾りの勾玉をひとつ外して少し先の地面に投げた。

 「顕現!」

 地面に落ちた勾玉に向かって指を突き出し、そう唱えると、勾玉はみるみるうちに大きくなり、やがていわゆる「牛車」と呼ばれていた四輪車に姿を変える。ちょっと違うのは、牛が牽くのではなく、大きな亀が2匹と、その周囲につながれた小さな無数の亀が牽く、ということだ。豪華な御者台もついていて、乗り降りは左右と後面からできるようだ。「元亀車」と言うらしい。名前からして元気が出そうだが、その通り、中に入ると傷や疲れを癒す効果があるらしい。後ろの扉を開けてみると、中は外見からは想像がつかないほどに広い。軽く八畳はありそうだった。

 「うわ・・・豪華・・・。」

 天井には色彩に溢れた天女や天人が描かれた天井画があり、壁は一面の金箔張りだった。右側には箪笥が並び、左側には机がしつらえられ、これまた豪華な椅子が二脚。中央の床はいかにもフカフカの敷物が敷かれていた。

 中に入ると、ほんのりと温かく、甘い香りが漂っていた。確かにここで過ごしたら元気になりそうだ。博正が箪笥の一つを開けてみると、中には様々な果物やお菓子が並んでいる。

 「これ、食べていいのかな?」

 博正はピンク色の餅のようなお菓子を手に取る。見るからに美味しそうだ。

 「いいんじゃないか? 滋味に溢れる食物らしいぞ。」

 それを聞いた博正がお菓子を口に入れ、一口かじった。見ているだけでその柔らかさがわかる。

 「うまい・・・。すあまだよ、これ。」

 私たちは敷物に座り、それぞれ菓子皿から饅頭や米菓子を手に取って食べた。どれもとても美味しい。試しに蜜柑も食べてみたが、甘味と酸味のバランスが良く、とてもみずみずしい。3人が3人とも、あっという間に元気を取り戻した。心なしか、陽気な気分になってきている。

 そうやって、いろいろ試しては疲れたら休み、を何度か繰り返した。驚いたことに、元気車の中と外では時間の経過も違うことに気が付いた。中で30分ほど休んだつもりでも、外に出てくればほんの数分しか時間が経過していない。

 「いやはや、とんでもない力が手に入ったもんだな・・・。」

 清明がしみじみとそう言った。確かに、清明も博正も急激に力を付けた。まだ実際の鬼と戦ったわけではないにしても、それは大きな自信となったようだ。今日一日で、土鬼を300体は倒したに違いない。私はそのうち50体ほどは切っただろう。前回、鬼と戦った時よりも滑らかに動くことができる。これも『盟』の効果の一つなのだろう。鬼丸の経験が、そのまま私の経験となっている、ということがよく理解できる。体の感覚や反応速度が高まったことと相まって、「対多数戦闘」も難なくこなすことができた。

 「そろそろ、帰るとするか。」

 清明が元亀車を元の勾玉に戻して、首飾りに付けた。

 「そうだね。明日もあるし。」

 博正は鬼祓を拭き上げると、薄絹に包んで大切そうに箱にしまう。

 私は鬼丸を人に戻し、狭間の出口を作ってもらうようにお願いした。

 「土鬼とは言え、だいぶ稼いだのう!」

 鬼丸も上機嫌だ。帰りにソフトクリームを買ってあげよう。


 こうして、私たちの土日は訓練に明け暮れて終了した。清明は術の練度を上げ、呪文や印を簡略化することに成功したし、博正は鬼祓の様々な曲を独自にアレンジして、新たな曲を作り上げていた。私は日曜日の最期に、清明に無理を言って、土鬼の百人斬りに挑戦した。目指す朱点の勢力は、総数1000万鬼だと言われている。百人斬りを10万回しなくちゃならないってことだ。対決までどれくらいの時間があるのか分からないけど、この辺りで私にも、何か自信になる物が欲しかった。実際にやってみると、そこまで大変でもなかった。まあ、土鬼だから、ということもあるのだろう。次の休みには、千人斬りを試そう。

月曜日(12日目)

 月曜日、事件はお昼に学校で起こった。警察が学校に事情聴取に来たのである。当初は昼休みだけで終わる予定、と放送が入ったが、予定が伸び、4時限目の授業は全校自習となった。2年C組からも、何名か事情聴取に呼ばれた。全員がすぐに戻ってきたが、その話によると、3年生の女子生徒2名が失踪しているのだと言う。どうやら1名は金曜日に、もう一人は日曜日に、部活の大会帰り、学校で用具の片づけをしている最中に姿が消えたと言う。

金曜日の出来事については、校内か校外か不明だが、日曜日の分は間違いなく校内で、ということらしい。私物が残されている上、残されている防犯カメラの映像を解析しても、その女子生徒が学校から出て行く様子が確認できていないと言う。

 当然、先週木曜日の警備員2名の失踪についても、関連性が疑われていることだろう。

 博正が意味ありげにこちらを見てくる。私はわからない程度にうなずいた。博正も微かにうなずき返し、聴取を受けた女性生徒に近付いていく。博正は校内での知名度を逆手にとって情報収集に活かすことにしたのだ。それを見た清明が、さりげなくこちらに近付き、すでに離席して空いている私の前の席に座ると小声で囁いてくる。

 「いよいよ、動き出したんじゃないのか?」

 「そうに違いないと思う。こんなに立て続けに、なんて、誰でもおかしいと思うよ。」

 「だな。」

 そう言って、二人で博正の方を見た。すでに博正を中心に人だかりができていて、事件についての議論が交わされていた。博正は適当に相槌を打ちながら、聞けるだけの情報を聞くつもりのようだ。

 結局、その日は午後から学校閉鎖となることが決まった。どうやら本格的に警察の捜査が入るらしい。明日については、午後6時までに生徒全員に一斉メールで連絡が行くことになっている、と三浦先生が話していた。

 「いい? 今日は全員真っ直ぐ帰宅して、自宅学習としてね。早引けだからってあちこち遊び回らないように。それから、このことはみだりに言い触らさないように、と警察からもお願いされてるから、各自、節度のある行動を取ってね。違反者には厳しく対応するから、そのつもりで。絶対に動画投稿とか、ツィートとかしちゃダメよ? 必ずバレるからね!」

 さすがにいつものおちゃらけた様子がない。先生も不安なのに違いない。同時に生徒のことを深く気遣っているのが、よくわかる。

 そのまま、解散となり、私たちはそれぞれ別々に帰宅し、その後博正のマンションに集合することにした。私は家に着いて私服に着替えると、出がけに、母に今日の出来事とこれからの予定をラインで送っておいた。既読はつかない。この時間なら、講義中だろう。

  博正のマンションに集合すると、早速博正が集めた情報を整理する。一人は生徒会の役員を務めていて、全校集会でも何度か登壇したことがある3年生だった。既に海外の大学への推薦入学が決まっており、家庭環境からも失踪する理由が見当たらない、と言う。もう一人は弓道部の3年生で、同じくこれといって失踪する理由はなかった。部室の鍵を返しに、実習棟から本棟に向かい、そのまま行方不明となったらしい。その後一緒に遊ぶ約束をしていた生徒数名に荷物を預けており、いつまでも戻らないことに不審を覚えたその数名が、職員室に様子を見に行って事態が判明したということだ。

 「・・・一人目が最後に見かけられたのは、いつなんだろうな。」

 清明が呟く。博正はそこまでの話はなかった、と答えた。もしかしたら、警察もその辺りを聞きたかったんだと思う。だからこそ、事が露見することも厭わず、広く生徒から事情聴取をしたのだろう。

 「気になるのは、二人目の生徒だ。実習棟から本棟までなら、時間にして10分も掛からないだろ? それに、渡り廊下を通ったはずだ。」

 渡り廊下。私たちが、最初に鬼に出遭い、鬼界に引きずり込まれた場所だ。失踪が鬼の仕業である可能性が、一気に高まった。

 「鬼丸、鬼界と人界が繋がるのに、回数は関係あるのか?・・・つまり、一度繋がった場所は、また繋がりやすい、とか、そういったことを聞いたことは?」

 「ふむ・・・。可能性としては大いに有り得る。少なくとも、歪みが余韻となってしばらく残ることは間違いない。」

 「じゃあ、そういう歪みの余韻が、何かの拍子にあっちと繋げてしまうことは?」

 「有り得る。昔から、鬼が出た場所は札や塚で封じるのが普通じゃ。」

 そこまで聞くと、清明はじっと何かを考え込んだ。やがて、意を決したように顔を上げると、清明は考え付いた作戦について、一気に話し始めた。


 内容はこうだ。まず、みんなで渡り廊下から鬼界に入る。鬼界に着いたら、極力目立たないように行方不明になった生徒を探す。可能性は低いだろうが、鬼に見つからずに済んでいるかも知れない。清明の式神に、大山犬の「米呂院」と言うのがいるらしく、物探しが得意なのだという。犬だけに、嗅覚で人や物を探すのだろう。そのため、行方不明になった生徒の匂いの付いた品物を持っていく必要がある。これには鬼丸に一役買ってもらい、生徒の家から何か私物を持ち出してもらう。無事に救い出せれば御の字だが、そうでない場合でも、何かを見つけることができれば、少なくても鬼が絡んだ失踪事件と断定することができる。

ただし、場合によっては戦闘になる可能性もあり、そうはならなくても目を背けたくなるような事実と向き合う必要が出てくるかも知れない、と清明は言った。鬼は、人を喰うのだ。どちらにしても、ある程度の時間で捜索は打ち切り、戻ったら清明の札で厳重に渡り廊下を封じる。これで、今後の失踪事件を防ぐのだ。

 「ことは一刻を争う。できればこれからすぐに動き出したい。反対の者は?」

 説明が終わると、清明はみんなを見ながら意見を求めた。3人とも、清明の作戦に異論はない。

 これが、私たちの最初の出撃、ということになる。清明は博正に弓道部の生徒の情報を集めるように指示をした。家がどこなのかを突き止めなくてはならない。私は鬼丸と狭間経由でその家に入り込み、匂いのついた品物を持ってくる。清明はここで渡り廊下を封じる札を作りながら、ブレーンの役割を果たすのだ。ほどなくして、博正が住所ではないが、この辺りだ、という情報を掴んだ。弓道部の後輩で、家が近所ということでいつも一緒に帰宅していたらしい。とある十字路で、彼女は右に曲がり、行方不明になった生徒、川島美佳は左へ曲がるのだと言う。清明はパソコンを開き、住宅地図を呼び出して該当する家を探す。その間に、私はダッシュでその方面に向かい、自分でもその家を探す。ここからなら、ダッシュで20分の距離だった。

15分で問題の十字路に着き、左に曲がる。川に突き当たるまでの範囲で、同じ川島姓の家は3軒あると言う。もちろん、それは戸建ての話で、マンションやアパートについては調査中、ということだ。その間に、私は指示された一軒目に向かう。人気はないようで、駐車場に車もなかった。清明に報告を入れ、次に向かう。

次の家では、駐車場に車が止まっており、中からも人の気配がする。それに何より、家の前にライトバンとセダンが駐車していた。通り過ぎながらさりげなく中を覗くと、セダンの助手席に無線機のマイクが見えた。そこを探れ、という指示で、鬼丸が狭間から住宅内に侵入する。私も行きたかったが、家人と警察の人間がいるとすれば、鬼丸一人の方が何かと都合がいい。すぐに鬼丸が戻って来て、間違いなくここが川島美咲の自宅だと判明した。

 鬼丸が手に弓道着と、下着を数枚持っている。

 「ちょっと、なんで下着まで持ってくるのよ。」

 「匂いの濃い物を選んだまでじゃ。何かいけないのか?」

 そう言われてはどうしようもない。私は清明に報告を入れ、再びダッシュでマンションに戻った。

 

 「し、下着かよ!」

 清明は狼狽したようだったが、鬼丸が私にしたのと同じ説明をすると、黙り込んだ。すでに札も完成しており、3人はそれぞれの持ち物を持って、学校へと急いだ。学校の近くから一旦狭間に入り、渡り廊下で鬼界に入り直すのだ。

 渡り廊下に人の気配はなかった。全員が狭間から出ると、清明が私たちを囲むように床に木炭で丸を描く。

 「いいか、行くぞ?」

 清明の合図にうなずく。私は鬼丸の鯉口を切って身構えた。清明が印を結んで呪文を唱えると、やがて周囲の風景が鬼界のそれに変わって行った。

 「・・・いつ来ても、嫌な感じね・・・。」

 周囲を見回して直近の脅威がないことを確認した私は、小声でそう言った。清明が首飾りから灰色の勾玉を取り外すと、式神を顕現させる。今度のは大きなワンちゃんだった。『ワンちゃん』と言うには大きすぎる気もするが。

 「米呂院、この匂いの持ち主を探せ。」

 清明はそう命じて、鬼丸が持ち帰った衣服の匂いをワンちゃんに嗅ぎ取らせる。ほんの数秒で米呂院と呼ばれたワンちゃんは行動を開始した。風の匂いと、地面の匂いを比較しながら進む方向を決める。

 「何か感じたみたいだな。」

 3人で米呂院の後を追う。米呂院は小走りに駆けたかと思うと立ち止まり、また匂いを確認しては駆け出すという行動を繰り返した。ほぼジグザグに、元の場所から500m程は進んだだろうか、米呂院がピタっと立ち止まり、小さく唸る。その方向を見ると、鬼がいた。後ろを向いているが、濃いグレーの体色で、頭髪と背中の毛はくすんだ黄色だ。座り込んでいるので身長はわからないが、小山のように体格が大きい。

 「こちらには気付いてないみたいだな。他に鬼もいないようだし、慎重に近付こう。」

 3人は無言で鬼に近付いていく。米呂院は少し後ろから、姿勢を低くして着いて来ていた。15mほどまで近付いた時、鬼が動いた。全員が同時に足を止める。鬼は右側のお尻をちょっと上げて、右手でお尻を掻いた。3人とも拍子抜けしてホッと息を吐いた。

 その時、人間の声が聞こえて、3人はハッとなって耳を澄ます。間違いなく、人間の女性の声だ。何を話しているのかまではわからないが、緊張感は感じられない。清明が不審そうに眉を顰める。

 「ハクシュン!」

 博正がくしゃみをした。ゆっくりとこちらを振り返った鬼は、不思議そうに首を傾げていたが、私が鬼丸を抜き払うと、素早く立ち上がった。巨体なのに、機敏だ。

 だが、最も速く反応したのは米呂院だった。猛ダッシュで鬼に向かうと、鬼に飛び掛かる。鬼は左手を挙げて攻撃を防ぐが、その腕をがっちり米呂院に咥えられてしまった。

 「あ、い、ででで!」

 鬼が手を振って米呂院を振り払おうとするが、米呂院は口を離さない。私はその向こうに、へたり込んで驚いた顔をしている女性を見つけた。あれが川島さんかも知れない。すぐに私も飛び出し、回り込むようにして女性の元へ向かう。

 「川島さん!?」

 私の問い掛けに、女性はハッとしたようにこちらを振り返る。

 「あの犬の飼い主ですか!?離すように言って下さい!」

 意外過ぎる言葉に、さすがに私も驚いた。気を取り直して清明に米呂院を制止するように伝えると、ほどなく米呂院が口を離したが、引き続き低く警戒の唸りを発している。

 「おー、いでで。いぎなり、なにすんだ。」

 鬼が腕をさすりながら、そう言った。

 鬼の名は、『ばんどう』と言った。どういう字を書くのかは分からないが、母が人間の、鬼と人間のハーフであるらしい。鬼でも人でもない「ばんどう」は、他の鬼たちから蔑まれ、孤独な毎日を送っていたらしいが、たまたま通りがかりに川島さんを見つけ、母を思い出したそうである。川島さんの話によれば、寄って来た小さな鬼たちを追い払い、川島さんを守ってくれたそうだ。川島さんがお礼に差し出したお菓子がとても気に入ったようで、その後も川島さんの守護を買って出たそうである。清明がなぜ人界に帰さないのかを尋ねると、「ばんどう」は「おでには、できねんだ。」と寂しそうに首を振った。

 川島さんは疲労の色は濃かったが、どこもケガなどはしていないようだった。清明は元亀車を顕現させ、川島さんとばんどうを乗せると、自分も乗り込んだ。博正が御者席について元亀車を入って来た場所に移動させる。先ほど木炭で丸く囲った場所は、清明が短い呪文を唱えると、上空に淡く光を放ち始めた。あそこを目標に進めば、元の場所に帰ることができる、ということだ。

 私と米呂院は元亀車の左右で護衛の形をとる。鬼界の風景はいつものように殺風景で、ところどころに歪みがある。空は相変わらず気持ちの悪い赤色をしていた。時折遠くから、風に乗って太鼓のような音や、金属がこすれるような音が聞こえていたが、鬼は姿を現さなかった。

 元亀車は、遅々として進まない。牽いてるのが亀にしては速い方なのだろうが、私の歩く速度を落とさないとすぐに追い越してしまうことになる。それでもなんとか無事に印を付けた場所まで戻って来た。博正が元亀車の中に声を掛けると、川島さんとばんどうが降りてきた。

 「ここでお別れだ。さっき教えたのは、覚えてるな?」

 清明がばんどうに尋ねると、ばんどうは嬉しそうにうなずいた。

 「だいじょぶだ。なんだが、すまねぇなぁ。」

 「いいんだよ。川島さんを守ってくれたお礼だ。お願いしたことも、忘れずに頼むよ?無理はしなくていいけどな。」

 「わがった。おら、がんばってみっから。」

 ばんどうは、それから川島さんと別れの挨拶をして、何度もこちらを振り返りながら帰って行った。

 「さて、川島さんの方も、大丈夫ですよね?」

 「ええ、言われた通りにするわ。心配しないで。」

 清明は大きくうなずくと、不思議そうにやり取りを見つめていた私と博正には何も告げず、再び印を結んで鬼界を離れた。

 渡り廊下に戻ると、川島さんは喜びの歓声を上げた。

 「戻って来れた!本当に、いろいろありがとう!きちんとお礼がしたいけど、そうもいかないわね・・・。」

 「言いつけを守ってもらえれば、それが何よりのお礼です。」

 「そうね・・・じゃ、早速・・・。」

 そう言うと、川島さんは手にしていた一粒の丸薬を口に含んだ。1分もしないうちに、トロンとした顔つきになり、目は焦点を失ったように見える。清明が川島さんを渡り廊下に横たえると、大きめの付箋のような黄色の札を4枚取り出す。

 「鬼門清浄、四神臨機、六道金剛・・・。急急如律、令!」

 最後の掛け声で手から離された4枚の札が、ハラハラと地面に向かって落ちている途中で急激に浮かび上がり、それぞれの方向に分かれると、渡り廊下の四隅に貼り付き、やがて染み込むように見えなくなる。これでこの渡り廊下は封じられた。同じ封印が全員の家に施してある。何度かこの目で見ているので、清明から説明はなくても、それはわかった。

 「さ、帰ろう。詳しい話は帰ってからだ。」

 そういうと、清明は狭間の入り口を開き、私たちは清明の言うまま、帰路に着いた。


 博正のマンションに着くと、作戦が首尾よく成功を収めた喜びが湧き上がってきた。何より、一人でも無事に救えたのが大きい。ばんどうのおかげも多分にあるとは言え、上々のスタートを切ったと言えるだろう。

 「最初の作戦は、大成功ね!」

 「ほんとに、あそこまで順調に進むとは思ってもみなかったよ。ばんどうは想定外だったけど、いい方に想定外だったからな!」

 「僕は、何もしてないよ・・・。」

 「くしゃみしただろ!あれで全て始まったんだからな!」

 不満げな博正をしり目に、私たちは大笑いした。どうやら、米呂院のしっぽが顔を掠めたらしい。次こそ活躍して見せる、と意気込む博正に励ましの言葉を掛けた。

 「で、な。元亀車での話、伝えておくよ。」

 そう言って清明が話し始めた。

 まず、川島さんだ。川島さんには、ここ数日の記憶を消す薬を服用してもらったらしい。川島さんにとっても忘れたい記憶だから、むしろそうしたい、と言っていたそうだ。私たちとしても、鬼界での出来事などをあれこれ話されたら対応に困ることになるから、これはお互いにとってプラスになることだった。

 次に、ばんどうだが、元々は人界で生まれ、そこで育っていたが、子供の内はさておき、大きくなってくると周囲の人間にも恐れられるし、鬼に攫われただけの母までがひどい扱いをされるのに耐え兼ね、とある高僧に頼んで鬼界に落としてもらったのだと言う。ところが、鬼界は人界以上にひどいところで、いつも人界に戻りたい、と思っていたそうだが、他の鬼と違い、鬼界と人界の出入りを自由にできないばんどうは、それもできず、他の鬼から離れて孤独に暮らしていくしかなかったと言う。清明は、鬼界にまだ人間がいるかどうかを探って、可能なら川島と同じように守ってあげて欲しいと依頼し、お礼として狭間に出入りするための力をばんどうに与えたのだそうだ。

 「ばんどうがうまくやれるか、そもそも、もういないかも知れないが、情報交換のために時々狭間で会うことも約束したんだ。話し相手も欲しいだろうからな。」

 清明はそう言って、少し悲しそうな顔をした。中学時代の一時期、ひどいいじめを受けた経験のある清明は、ばんどうの境遇に自分の過去を重ねたようだった。人界でも鬼界でも、恐れられ、疎んじられる生涯、と言うのは、確かに察するに余りある。

 沈黙が、その場を満たした。

              ※ 

 朱点はいい知らせを受けた。それは、人界に潜り込ませた手下からもたらされた。とうとうあの男の係累を見つけ出すことに成功したのだ。忌々しいあの刀は既に向こうの手にある上、怪しげな術を使う男もいると言う。だが、以前のような失敗はしない。こちらも新しい若い体を手に入れた。完全に元の力を取り戻すことはできていないが、力の源ならいくらでも手に入れられる。それに、刀を無力化する策も巡らせてある。

あいつらは『狭間』に出入りする力もあると聞く。いつここに現れるか、知れたものではない。急がねばならない。急がねば。

朱点は・・・大江田統司は残忍な笑みを浮かべると、一番手近にいた鬼を捕らえ、頭からかぶりついた。

               ※

火曜日(13日目)

 前日の夕方、まもなく6時という時間に、明日は通常登校という連絡が入った。私たちは次の作戦について話をしていたところだったが、朱点についての情報が得られていない状況では、さすがの清明でも有効な作戦は考え付かないようだった。

 今日の教室は、昨日の事件の噂があちこちで囁かれてはいたが、全体的に沈んだ様子だった。やはり学校を中心にこれだけ失踪者が出ている状況では、みんな心のどこかで漠然とした不安を感じているに違いない。何人かの生徒は、学校に来ていない。三浦先生の話によると、状況が落ち着くまで家庭学習に切り替えた保護者も少なくない、とのことだった。変わったことがもう一つ。校内の各所に私服警官や警備会社の人間が配置された。学校側の保護者への配慮、と言う意味合いもあるのだろう。

 臨時の全校集会が開かれ、校長から現在までの状況が知らさた。そこで、名前は伏せられていたが、川島さんが無事に保護され、今は病院で検査入院をしている旨が告げられた。

 次に、生徒会長の大江田さまが、他の生徒会役員とともに登壇した。いつものテキパキした動作は見られず、心なしかやつれているように見えた。公開捜査に切り替わったものの、未だ行方不明の生徒会書記、乙坂さんの心配をされているに違いない。

 「・・・皆さん・・・先ほど校長先生から、嬉しいニュースがもたらされましたが、未だ生徒会で書記を務めてくれていた、乙坂純恋さんが、未だ見つかっていません・・・。警察の方も懸命に捜査を行ってくれていますが・・・。些細なことでも構いません、何か知っていることがあれば、教えて下さい・・・。もしも!もしも言い難いことがあるなら、匿名でも構いません!秘密は必ず守ります!・・・だから・・・どうか・・・。」

 大江田さまが泣いていらっしゃる。生徒会で苦楽を共にした同級生が行方不明というのは、やはり辛いのだろう。周囲にも、涙を拭っている生徒がいる。

 「・・・私は今日から、乙坂さんが見つかるまでの間、全ての休み時間と、放課後も午後6時まで、生徒会室で過ごします・・・。協力を、お願いします・・・。」

 それだけ言うと、副会長に支えられるようにして降壇する。

 その姿を見て、すすり泣きをする女子生徒が多くいた。私は悲しいというより、使命感に燃えていた。何としても早く乙坂さんを救い出して、大江田さまの笑顔を取り戻さなくてはならない。


 放課後、いつものように博正のマンションに集合するや否や、私は清明に詰め寄るようにして考えていたことを提案した。

 「ねえ、今日も鬼界に行かない?」

 博正は驚いたような顔をしたが、清明は呆れたように私を見た。

 「アイツに感化されたのかよ。闇雲に鬼界に行っても、余計な鬼の関心を引くだけだ。」

 「昨日は鬼に遭わなかったじゃない。気を付けて探せば、大丈夫じゃない?」

 「探すって、どこを?言っておくけど、鬼界の広さは人界の三十三倍、と伝えられてるんだぞ?」

 「でも!このままじゃ・・・」

 私はなおも食い下がろうとして、博正に制止された。

 「那津、さすがに無理だよ・・・。今は、我慢しよう。」

 それを聞いて、何かを言い掛けた清明も言葉を飲み込んだ。その様子を見ていた鬼丸が、心配そうに声を掛けてきた。

 「なんじゃ、お那津、少し落ち着け。今のところ、上手く行きすぎなくらい、上手くいっておる。焦りは禁物じゃ。」

 鬼丸にまで心配されてしまった。認めたくはないけど、清明の言ったとおりだ。明らかに大江田さまに感化されている。

 「ごめん・・・わかったよ・・・。」

 そう言うと、清明と博正は顔を見合わせた。

 「やけに、素直だな・・・まさか、一人で鬼界に行くつもりじゃないだろうな?」

 「ま、まさか!さすがにそれはないよ!心配しないで。」

 私は両手を胸の前で振って清明の発言を否定した。さすがにそれがどれほど危険なことかはわかる。こっちで一人で駅に行くのとはワケが違う。

 「・・・なら、いいんだ・・・。よし、じゃあこれからの動きについて、俺が考えてることを披露するよ。もう少し固まってからにしたかったけど、仕方ない。」

 そういうと、清明は父のノートパソコンを起動して、一枚の図面を呼び出した。

 「これは、渡り廊下を中心にして、鬼界での学校の敷地近辺を地図にしたものだ。真ん中の×印が渡り廊下、こっちの△印は、那津の父親と一緒に戦った場所だ。」

 そう言って、清明が図面の印のところをマウスのポインターで指し示した。図面には、他に大小の〇で囲まれた部分がいくつもある。

 「首飾りの式神の中に、『紅尾』という鳥の形の式神がいる。実は、そいつに鬼界を偵察させてる。この〇印の場所は、いずれも鬼の集落だったり、空間の歪みが強い場所だったり、建物や構造物がある場所だ。空間の歪みの強い場所、って言うのは、最近人界と繋がった可能性のある場所。で、これに学校の見取り図を重ねると・・・。」

 そういうと清明は透過処理した学校の見取り図を、×印と渡り廊下、△印と教室棟前の植え込みを合わせるようにして重ねた。

 「こうなる。ここと、ここ。教室棟の中央、ちょうどトイレのある辺りと、その斜め向かい側。ここは、3階が特別活動室、2階が生徒会室、1階が教育相談室に割り当てられている場所だ。」

 「すごいじゃない!探す場所がだいぶ絞り込めた。これなら・・。」

 私がそこまで言い掛けると、清明がそれを制するように話を被せる。

 「そんなに単純じゃない。いいか、渡り廊下と、ここ。ここは、川島さんをみつけた場所だ。渡り廊下からだと、直線距離にして約20mしか離れてない。だけど、俺たちはそんなにすぐに彼女を見つけたか?」

 「・・・確かに・・・結構、歩いたよね?」

 博正が考え込むようにして、そう言った。

 「そうだ。さっきも言ったが、鬼界は人界より広い。言い伝えは、ほぼ正確だった。計算すると、実際は約35倍くらいになる。教室の広さが80㎡として、35倍では2800㎡だ。わかりやすく言うと、いつも言ってるモールの敷地の、3倍の広さを探す必要がある、ってことだ。」

 3人は顔を見合わせた。確かに、すぐに探しに行ける広さではない。

 「だから、もう少し範囲を絞ってから言うつもりだったんだが、せっかちなのもいるしな。それに、あまり悠長にしてると、次の失踪事件が起こらないとも限らない。大変だが、やってみるか?」

 「もう少し範囲を狭めるのは、どうするつもりだったの?」

 「一つひとつ教室を当たるつもりだったよ。人界側の歪みを調べるつもりでいたんだ。だけど、博正のおかげで校内の移動がままならなくなったし、警察や警備員がそこら中にいるだろ?まあ、狭間を使えばいいんだが、さすがに昼間あれだけ人目のある場所で狭間に何度も出入りするのは、な。」

 「・・・しばらくは、この状態だろうね。それに、監視カメラも増えただろ?夜でも監視の目が光ってちゃ、夜に狭間を使うのも、安心はできないよね。」

 それで、決まりだった。私たちは、再び鬼界に潜行することになる。決行の日は、明日となった。それぞれの保護者に連絡を入れてもらい、3人とも当面の間、「自宅学習」に切り替えることにすれば、使える時間が増える。こういう時は、母の大学講師という職業が役に立つ。私の家で、母に勉強を見てもらう、という形にすれば学校側も納得するしかないだろう。


水曜日(14日目)

 母が清明の親と話し、自宅学習の了解を得た。双方が学校に連絡を入れ、正式な許可が降りた。博正の方は簡単ではなかった。両親ともに演奏旅行でニューヨークに滞在中だということだったが、時差もあり、連絡が取れなかったのだ。
 ようやく連絡が着いた時には、すでにお昼を大きく過ぎた時間だった。博正は登校せず、私たちと一緒にいたが、その状態で鬼界に赴くこともできず、無為な時間が過ぎた。
 夕方の連絡を学校に入れた後、狭間でばんどうと会ったが、まだこれといった情報はなかった。
 だが、鬼界の広さやばんどうの鬼界での立場を考えると、無理をさせる訳にもいかない。

 こうしてその日は、終わりを迎えた。

  

木曜日(15日目)

 一日余計に掛かってしまったが、ようやく3人が自由に行動できる時間ができた。この日は清明の提案で、首飾りの式神を全員で確認する機会にした。清明は当然ある程度は理解しているが、私たちが敵味方の判別ができないと、困る。それに、清明自身もその能力について、実際にこの目で見てみたい、と考えたらしい。

 狭間に着くと、清明が首飾りから勾玉を外し、次々と顕現させていく。すぐに8体の式神が狭間に姿を現した。元亀車と米呂院はすでに知っていたので、自由にさせておいた。最初に目を引いたのは、とても大きなムカデだった。全長20mはあるに違いない。小さいと気持ち悪いが、こんなに大きいとそこまででもない。全体的に金属的な銀色の身体で、頭以外は給湯器なんかに付いてる金属のホースとあんまり変わらない。

 「こいつは『アダタラ』見た通り、ムカデだ。地面を掘り進むのが得意で、口から溶解液を吐く。」

 次は、薄いブルーの裾の長い着物を着た、とても美しい女性と、その後ろに隠れてこっちを見ている小さな女の子。

 「『奥入瀬』と、陰に隠れてるのが『つむじ』だ。奥入瀬は水の精で、水を使っていろんなことができる。つむじは子天狗だ。一応、風と雷を扱うんだが、今のところ戦力として計算はできないな。」

 「戦力として計算できないような女の子が、どうして式神になったんだろ?」

 博正が相変わらず不躾な質問をする。本人を目の前にして。

 「むーーーーっ!」

 つむじはそう言うと、手にした葉っぱを博正に向かって突きつけた。博正の足元に旋風が巻き起こり、宙に浮いたかと思うと、見事に転ばされた。それを見たつむじがぴょんぴょん飛び跳ねて笑い転げている。確かに、これでは鬼を倒すと言うより、せいぜい怒らせるくらいしかできなさそうだった。清明は呆れたようにして、次の式神の紹介に移る。

 「この、いかにも強そうなのが女阿修羅の『ゼルマ』だ。最初の古文書に登場した、あの鬼の末裔だそうだ。見た通り、6本の武器で攻撃をする。炎の化身でもあって、口から火の玉を吐くこともできる。」

 「ヤドブ・ウープセン・ゼルマダ」

 ゼルマと呼ばれたその女性は、そう言うと清明の前にひざまずいて恭しく礼をした。

 「今のは、『ゼルマです、よろしくお願いします』みたいな意味だ。」

 清明が翻訳してくれた。見た目よりかなり礼儀正しい。そして、その隣にいる鳥みたいなのが『紅尾』だろう。大きさはそれほどでもないが、一本しかない脚と、翼を支える腕は太くてかなりの筋肉質だ。幅の広い長い尾は、燃えるような紅色だった。見たままを名前にしたようだ。異質なのは頭で、鳥にしては非常に大きく、顔の中央に大きな一つ目があり、その下に申し訳程度の嘴が付いていた。

 「そして、これが『紅尾』。飛行能力が高い。視覚と聴覚に優れていて、俺はこいつで鬼界を偵察していたんだ。」

 紅尾が「クルルル」と鳴いた。見た目とは裏腹の、とても可愛らしい声だった。  

 「そして、最後が・・・」

 先ほどから、清明に首をすり寄せるようにしてピッタリくっついて離れない。かなり懐かれているようだ。大きさも体もポニーに似ているが、青みがかった白い色で、たてがみや尾は様々な種類の青色だ。頭に、黒地に赤の模様が入った角が二本、羊の角のように丸まって生えている。

 「名前がなかったんだ。古文書によると『稚児麒麟』となってるんだが、呼びにくいから『あおすけ』にした。空間を走ることができる。そしてその声が、かなり特殊だ。」

 清明はあおすけの下あごを撫でていたが、その手を止め、何事かを語りかける。あおすけオオカミが遠吠えする時のように顔を高々と上げた。

 「ひゅ、きょーーーーーん!」

 とても細くて、高い声だ。いや、高いなんて生易しいもんじゃない。高過ぎる。

 「すごいよな?ほんの囁き程度でこれだぜ?本気で吠えると、岩は粉々に砕け、水は煙になるそうだ。大人になると千里四方に響き渡るってさ。」

 その声に、博正のスイッチが入った。やにわに鬼祓を取り出し、あおすけに負けない細くて高い音を奏でる。あおすけが不機嫌そうに首を上下に振って、足を踏みかえた。まるで今にも突進して来そうな動きに見えた。

 「ちょ!博正!」

 私は博正の袖を引いて、笛を口から離させた。博正も理解したのか、挑発的な高音を出すのは止め、陽気な曲を吹き始めた。あおすけは不思議そうに博正を見ている。反応を見せたのは、奥入瀬とつむじだった。特に、つむじはうっとりしたような表情で博正を見ている。人とか天狗とか、関係ない。あれは恋する女の子の顔だ。

 その後、清明が土鬼を出して、それぞれがいわゆる「必殺技」を繰り出して見せた。さすがに安倍晴明の式神、言うだけのことはありそうだった。

 それ以外にも、清明は様々な能力テストのようなことを繰り返し、それぞれの得手不得手の掌握に努めていた。スピードは米呂院、力はアダタラ、物理的な攻撃力ならゼルマの独壇場だ。それに、紅尾もかなりの力を持っていた。倍以上の大きさの元亀車を軽々と持ち上げ、いつもと変わらない様子で飛行して見せた。奥入瀬の優雅な舞は水の礫を高速で飛ばし、袖を振れば、それが薄く広がって攻撃を防ぐ役割をした。あおすけとつむじについては良くわからなかったが、他の式神にはない「かわいさ」があった。役に立つかどうかは別として。

 心強い味方が、また増えた。結局一日を費やしたが、私たちはより一層、自信を深めることができた。

 「ちなみに、日本語は話せないけど、言っていることは理解するから、言葉には気を付けろよ?」

 式神を勾玉に戻し終えた清明がニヤニヤと博正を見ながら言った。

 「遅いよ!」

 博正の抗議の声が、狭間に響いた。


金曜日(16日目)

 その知らせは、早朝にもたらされた。危惧していた、新たな失踪者が出てしまった。しかも、今度は一度に7人も。そのうちの一人は、大江田さまだった。

 母が博正のマンションから自宅学習の定時連絡を入れた際、応対に出た教師からその旨を伝えられ、詳細はのちほど一斉メールでお知らせする、と言われたそうだ。

 既に集合していた私たちは、顔を見合わせた。

 「しまった・・・まさか、こんなにすぐに・・・。」

 清明は、拳をテーブルに叩きつけた。

 「しかも、今度は7人も・・・。」

博正も唇を噛んで悔しがる。私は、半ば放心状態だった。何を話したらいいのか、わからなかった。

「場所は、どこなんだろうな?」

「一度に7人かな?それとも、何回かに分けて?」

清明と博正が、それぞれ疑問に思ったことを口にする。状況が不明なのがもどかしい。

「よし!まずは状況を確かめよう!」

清明はそう言うと、出掛ける支度を開始した。

「どこに、行くの?」

私はようやく、それだけを口に出すことができた。母が私を気遣い、肩を抱いてくれている。

「狭間から学校に行ってくる。式神で集められるだけ情報を集めてみる。」

「僕も行くよ!」

「いや、博正はここにいて、那津の様子を見ていてくれ。絶対に一人でどこかに行かせるな。鬼丸も、頼むぞ。俺が戻って来るまでは、ここから動くなよ。」

「この状況で、一人で行くのかよ!さすがに無茶だろ!」

珍しく、博正が声を荒げた。その時、玄関のチャイムが鳴った。博正がインターホン越しに応対に出ると、来客は湯浅さんと上椙さんだった。どうやら、母から私たちの状況を聞き、激励に来たようだった。ピリピリした雰囲気に面食らった様子だったが、母から状況を説明されると、さすがに慌てたようだった。

「それなら、私たちが清明君に着いていくわ。と言っても、その狭間とやらには、できることなら入りたくはないけど、千英の車を前進基地にすれば・・・。」

 湯浅さんの提案はこうだ。上椙さんの車は古いアメリカのバンタイプで、荷室はかなり大きいらしい。その車で学校の近くで待機しておいて、そこから狭間を経由して校内に出入りすれば、人目に付かないからいろいろと便利だろうし、いざと言う時の連絡や救援も、一人よりはいいだろう、と言うのだ。

 清明はその提案を受け入れ、学校の近くで待機してもらうことにした。

 

 湯浅さんは、学校のちょうど裏にあるコンビニに車を停めた。運転手が乗っている状態なら、しばらくは大丈夫だろう。上椙さんの車の後部は、まるで映画に出てくる諜報機関のバンのようだった。中央部の両側は大型のパソコンと複数のモニターが置かれたコンソール、左側には様々な通信装置や金網で囲まれたガンラックまである。

 「へへ、驚いた? 私のささやかな趣味なんだ。サバゲーとのぞき。」

 なるほど、壁の一角にSWAT装備に身を包んだ湯浅さんと上椙さんの写真が貼ってあった。

 「私はここで警察無線をモニターしてみるよ。あ、これ内緒ね。」

 「上椙さん・・・もしかして、ハッキングとかもできます?」

 「え・・・まあ、できなくはないけど・・・。」

 「じゃあ、学校のパソコンに入って生徒名簿、調べてもらえますか?」

 「なんだ、警察のサーバーに忍び込めとか言われるのかと思ったよ。それなら、余裕。」

 「じゃあ、お願いします。できれば教員名簿も手に入れたいです。」

 上椙さんはうなずくと、コンソールに座って作業を始めた。

 「気を付けて行って来てね。何かあれば、これで。」

 そういうと、湯浅さんが無線機とスマホを手渡してくれた。

 「跡が残らない特殊なスマホなの。カメラを起動したまま置いてくれば、継続的に情報取れると思うよ。」

 ウィンクされた。これも内緒と言うことなのだろう。那津の母親からは大学院生と聞いていたが、どちらもタダモノではなさそうだ。

 バン後部の荷室エリアに移動し、そこから狭間に入る。目指すは教員室だ。

 無人の校長室で人界に戻り、細目にドアを開けて教員室の様子を探る。教員室は大騒ぎになっていた。見慣れない人間も多数いる。おそらく警察関係者や警備会社の人間も混ざっているのだろう。馴染みの顔は、校長までが電話対応をしていたが、取り切れない電話がいつまでも着信を知らせ続けている。ここでは、目指す情報を得られそうにない。

 また狭間に入り、廊下に出る。時々人界に戻って様子を窺いながら、警察官の動きを追っていった。ビンゴ。生徒会室に警察官が多く集まっている。鑑識作業をしている警察官も多数いる。失踪現場はここで間違いない。生徒会長の失踪とも、紅尾の情報とも合致している。あとは、失踪した生徒の情報だ。この規模の事件なら、校内のどこかに現地指揮所が作られていておかしくない。そこでなら、目当ての情報が手に入るだろう。

 また狭間を出入りしながら、その場所を探す。こうやって歩いてみると、学校も意外に広い。しばらくあちこち歩き回って、ようやく場所を突き止めた。教員室の隣の進路支援室だった。この時期ならほぼ使うこともないから選ばれたのだろう。タイミングよく、無人だった。ドアは施錠されているから、少しは時間があるはずだ。

 布の掛けられたホワイトボードに、失踪者の名前と関係性が写真入りで貼り付けられている。写真を見て、驚いた。生徒会長の他にも、『知っている』人間が失踪していた。布を捲って自分のスマホで写真を数枚撮り、布を元に戻した。他に何か情報がないか机を探してみたが、その他の情報はどこかにしまってあるのか、メモの類すら見つからず、整然としていた。置かれているパソコンは2台、管理番号を写真に撮る。

 湯浅さんから手渡されたスマホを設置するなら、ここが適所だと思った。周囲を見回すと、キャビネットの上に積まれた段ボールに目が行った。少し遠目にはなるが、全体を見渡すことができそうだ。位置を合わせ、机のボールペンで、段ボールに不自然に見えないように穴を開けた。レンズを穴に合わせ、セットしてみる。よし、外からは中のレンズは見えない。無線機のスイッチを入れ、小声で連絡を入れる。

 「こちら清明。スマホをセットしたんですが、そちらから確認できますか?」

 「こちらYU。映像を確認した。状態良好。」

 簡潔明瞭な無線通話だった。声からすると湯浅さんのようだが、いつもの柔らかな感じのない、無機的な声だった。

 これで、学校で欲しい情報は集まった。

 上椙さんのバンに戻ると、湯浅さんが水のボトルを渡してくれた。飲み始めるとほとんど一気に飲み干した。自分でも気が付いていなかったが、緊張で相当喉が渇いていたようだった。

 「お疲れ様。首尾は上々みたいね。」

 湯浅さんがモニターの一つを指差した。さっき設置したスマホからのものと思われる映像が映っている。既に録画も開始されていた。上椙さんは未だコンソールに向かい、軽快にキーボードを叩いていた。口からチュッパチャップスの棒がのぞいていて、口の中のキャンディの動きに合わせて上下に動いている。

 「もう少し・・・待って・・・ね・・・とっ!」

 最後の『とっ!』と同時にリターンキーをひと際大きな音で叩くと、モニターにエクセルデータが表示された。中身は、生徒名簿だった。別タグに年別の教員名簿もあるようだ。上椙さんはデータをダウンロードすると、接続を切った。

 「よし。ここでやれることは、おしまい?」

 「そうですね。戻りましょう。急いだ方が良さそうです。」

 帰りのハンドルは上椙さんが握った。マンションまではすぐだったが、なかなかスリリングなドライブだった。


 「お帰り!どうだった?」

 清明が戻るとすぐ、私は飛びつかんばかりに出迎えた。ただ待っているということが、こんなにつらいとは思ってもみなかった。ほんの小一時間が無限の長さに感じた。

 「落ち着いて聞いてくれ。失踪者の中に、三浦先生と江藤が入ってた・・・。」

 「えっ!」

 私と博正が同時に声を上げた。担任の三浦先生が鬼界に連れ去られた。もう一人は、あのリア充系女子のボス格、江藤紗里だった。最近はあまり仲良くはなかったが、去年も同じクラスで、入学したての頃は、何度かグループで遊びに行ったこともある。

 「場所は、生徒会室だった。鑑識はそこにしか入ってなかったから、おそらく全員がそこで失踪したんだと思う・・・今のところは。」

 「今のところ?」

 怪訝な表情を浮かべて、博正が尋ねた。

 「ああ。湯浅さんと上椙さんで、継続的に情報を得てもらえることになったんだ。詳しくは後だ。まずは、今ある情報で救出作戦を立てよう。」


 清明はノートパソコンを開き、先ほどの図面を呼び出した。

 「ここの丸が、生徒会室と繋がった可能性の高い地域だ。この範囲内のどこかに、連れ去られた人たちがいる可能性が高い。俺たちは、生徒会室の隣、物品倉庫から鬼界に入ろうと思う。」

 「そこまでは、狭間を使うの?」

 「そうだ。また上椙さんの車を使わせてもらうつもりだ。これは、助け出した時のことも考えてそうしてる。今度は監視の目がかなり厳しいから、この前みたいには行かない。」

 確かに、渡り廊下と違い、警察官や監視カメラの存在する教室棟に、いきなり鬼界から戻るわけにはいかない。事情を知る人間は、少なければ少ないほどいい。

 「上椙さんには、ここ、教室棟に一番近い道路に停車してて欲しいんだけど・・・。」

 湯浅さんと上椙さんが会話に加わった。画面をのぞき込み、了承のうなずきをする。

 「それはいいんだけど、敵の戦力は?」

 そう言ったのは湯浅さんだ。雰囲気がいつもと違う。

 「・・・正直、今はわかりません・・・。なので、俺たちは目的の場所から近くて、安全な位置で鬼界に入るつもりです。そこから、まずは偵察をして・・・。」

 その後は、清明と湯浅さんが二人で話を始めた。時折上椙さんがアドバイスをしながら、作戦計画が出来上がっていく。私と博正に加え、母までが驚いた様子でその光景を見つめていた。そんな時間が20分ほど続くと、3人が一斉に顔を上げた。どうやら話が終わったようだ。

 

 「よし、じゃあ説明するぞ?まず、俺たちはさっき言った地点で鬼界に入る。そこで、『紅尾』を偵察に飛ばして、失踪者を探す。同時に敵の戦力もわかるはずだ。失踪者が集まってるとは限らないから、人数の多さで優先順位を決める。こちらの戦力を分けることはしない。数が同じ場合は緊急度だ。この判断は、俺がする。俺たちは偵察情報が集まるまで、ここに留まり、準備をする。」

 そこで話を切り、私と博正の顔を見た。それぞれがうなずくと、清明は話を続けた。

 「まず、博正。『元亀車』の御者席に座ってくれ。護衛に『奥入瀬』を付ける。『鬼祓』でできるだけ多くの鬼の動きを封じて欲しい。」

 「分かった。任せてよ。」

 「次に、那津。もしも、現場に朱点がいたら、『アダタラ』が近くまで穴を掘るから、その穴を通って朱点を倒すことだけを考えて行動してくれ。アダタラがそのまま那津のフォローに入る。もしも朱点がいないようなら、他の式神と一緒に元亀車の中だ。紅尾が元亀車ごと失踪者の近くに運ぶから、着いたらすぐに失踪者を元亀車の中に避難させてくれ。」

 「OK」

 「俺は『あおすけ』に乗って、上空から状況を見ながら、援護と指示を出す。いいな?」

 私と博正はうなずいた。清明の表情は、いつにも増して真剣だった。

 「それから、これは絶対に間違えないで欲しい。あおすけの咆哮が聞こえたら、何が何でも撤退だ。どんな状況でも、戻れるなら元亀車に戻れ。無理なら、鬼界に入った地点を目指してくれ。わかったな?」

 私と博正が、再びうなずく。

 「念押しするようで悪いが、これは絶対に守ってくれ。万が一、俺たちが倒れたら、朱点や鬼界の脅威から人界を守ることができなくなる。最優先は、俺たちの無事だ。たとえ目の前で、知り合いが今、鬼に殺されようとしていても、咆哮が聞こえたら即、撤退だぞ?」

 ひどいようだが、清明の話はもっともだった。頭では理解できるが、実際に目の前でそんな事態になった時、その判断が自分に下せるだろうか。じっと見つめてくる清明に、「わかった」とは伝えたものの、正直、自信がない。

 「よし。それから、おばさんにもお願いしたいことが。」

 「え?私?」

 少し離れた場所で、不安そうに話に耳を傾けていた母が、パッと顔を輝かせる。湯浅さんや上椙さんが私たちの手伝いをしてくれているのに、自分が何もできないでいることに後ろめたい気持ちがあったのだと思う。

 「はい。できる限りの医薬品を集めて、上椙さんのバンのところで待機していて欲しいんです。包帯とか、ガーゼとか、そんなような物を。」

 「わ、わかったわ。と言っても、ドラッグストアで手に入るような物しか、無理よ?」

 「それで大丈夫です。上椙さんのバンに、緊急医療バッグがあるんです。どちらにしても本格的な治療はできませんから、助けた人が大怪我してるようならすぐに救急車を呼んで下さい。湯浅さんや上椙さんは現場の対応をお願いしてますので、そういうやり取りをしていただきたいんです。」

 「なるほど・・・。大丈夫。任せてちょうだい。」

 「僕たちは、一時間後を目安に鬼界に入ります。場所は、この辺り。」

 清明が母におおよその場所を伝える。上椙さんのバンは目立つから、見間違うことはないと思う、と合わせて話していた。母は大きくうなずくと、バッグを肩に掛け、私をギュっと抱き締めた。

 「私は先に出るから。那津、いい?清明君の言う通りにして、絶対に無茶をしちゃ、ダメよ。わかったわね?」

 「うん・・・お母さんも、気を付けてね・・・。」

 「ええ。那津こそ、気を付けてね。」

 母は私をじっと見つめてからそう言うと、清明や博正に向き直った。

 「あなたたちもよ?絶対に、無茶はしないこと。それから、湯浅さん、上椙さん。こんなことにまで巻き込んでしまって、ごめんなさい。那津たちのこと、よろしくお願いします。」

 深々と頭を下げた。湯浅さんも上椙さんも慌てたように母を起こして、頼もしく請け負ってくれた。そのまま、母は博正のマンションを出て行った。

 その後、湯浅さんや上椙さんを合わせて、細かい擦り合わせをした後、それぞれの準備を始める。清明は身を清めて、瞑想に入る。博正は着替えをしてから鬼祓の手入れを始めた。私も上下ぴったりとしたコンプレッションウェアを着込み、その上からTシャツとショートパンツを重ねた。入念にストレッチをして、これからの身体の動きに備える。30分ほどで全員の準備が整い、いよいよ出発することになった。私はスーツケースから紫の鉢金を取り出して、頭に巻く。

 「あれ、那津、それ初めて巻くよね?」

 博正がスニーカーの紐をきつく結びながら興味深げに聞いてくる。

 「うん。今日使わないと、ずっと使わなそうだったから。なんか、いつも忘れちゃうのよね。」

 着けてみると、思ったよりもずっしりと重い。自然とあごを引いたような感じになる。何度か首を振ってみたが、思ったより着け心地は悪くなかった。

 「どう?鬼丸?」

 「うむ、凛々しいのぅ。」

 鬼丸はいつも通り、特に緊張しているようにも見えない。今までもいくつも修羅場を潜り抜けてきているのだろうから、慣れているのかも知れないが。


 湯浅さんの運転で学校に向かう。上椙さんの車は、中がすごく広かった。映画でしか見たことのないような機械がたくさん積まれている。荷室の後ろの方に四人で座っていたが、車内では誰も口を開かず、重苦しい空気が漂っていた。

 10分もしないうちに、予定の場所に到着した。

 「着いたわよ。ここで大丈夫?」

 湯浅さんが運転席から声を掛けてきた。後ろからは外が見えないので、清明が運転席の方に移動して場所を確認した。

 「ここで、大丈夫です。しばらくここで待っていて下さい。」

 「了解。気を付けて行ってくるのよ。」

 いよいよだ。私は鬼丸に無言でうなずいて見せると、鬼丸もうなずき返して刀に変わった。下げ緒をほどいて、背中に背負うようにして体に結び付ける。

 それが終わるのを待っていた清明が、印を結び、狭間へ入り口を開いた。ここから目的の物品倉庫までは狭間を通って進んで行く。当たり前と言えば当たり前だが、物品倉庫に人はいなかった。廊下や隣の生徒会室からは、警察官の話声や物音が聞こえてきている。

 無言のまま、再び清明が印を結び小声で何事かをつぶやくと、鬼界の入り口が生徒会室とは逆側の壁に現れた。

 

鬼界に出ると、そこはちょうど壁の一部だけが残された廃墟で、地面にも建物の残骸と思われる石のブロックや木片が散乱していた。姿を隠すにはもってこいの場所だった。既にいつもより大きな太鼓の音と、それに混じって歌声のように聞こえなくもない、地鳴りのような音が聞こえて来ていた。音の発生源はそれほど遠くない。博正が露骨に嫌な顔をしている。


清明はすぐに紅尾を顕現させ、偵察に向かわせると、リュックからお盆とペットボトルの水を出し、お盆を水で満たした。水面が落ち着くのを待って呪文を唱えると、水面に何かが浮かび上がって来た。すぐにそれが紅尾の見ている風景だと気が付く。

私たちの待機している場所から100m程先に、大小さまざまの鬼が集まって騒いでいるのが見えた。総数は、ざっと300体くらいだろうか。大きな輪を描くようにして、思い思いに踊ったり笑い転げたりしているのが見える。そして、その輪の中心に、人間がいた。

大江田さまを中心にして、6人の女性がひと固まりになっている。三浦先生と江藤さんの姿も見える。全員が何かしらのケガはしているようだが、ひどいケガではなさそうだ。原因は、時折近付いては引掻いたり蹴飛ばしたりと、悪ふざけをしている鬼がいるからだ。その鬼が残忍ないたずらを仕掛け、失踪者の悲鳴が上がるたびに、周囲からどっと笑い声が巻き起こる。

 「くそっ!いたぶって遊んでるんだ!」

 博正が呟いた。私も身内から怒りが沸々と湧き上がってくるのを感じた。三浦先生のケガが、一番ひどいようだった。すでに着ているシャツは切り裂かれ、血に塗れている。それでも、鬼が近付いてくるたびに、生徒を庇うようにして鬼に立ちはだかっている。

 「那津、鬼丸を。」

 一見冷静に見える清明も、何かを押し殺すよう、言葉少なにそう言った。

 私は鬼丸を人に戻し、水面に映る光景を見せる。

 「この中に、朱点はいる?」

 鬼丸は前かがみになって水面を覗いていたが、やがて首を横に振った。

 「いや、この中にはおらんようだ。朱点はその名の通り、顔に朱色の点がある。普段は額の中央に一か所だが、興奮してくると顔中が朱点だらけになるんじゃ。それに、もしもこの中に朱点がおったら、他の鬼どもがここまで馬鹿騒ぎはせん。」

 「よし、じゃあプランBだな。急ごう。他の鬼たちが続々と集まって来ているみたいだ。」

 清明が言った通り、周囲から、今はポツポツとではあるが、他の鬼が集団に近付いてきているのが見える。私は鬼丸を刀に戻し、再び背に負った。博正は鬼祓を取り出し、清明は首飾りの式神を次々と顕現させた。

 元亀車の御者席には博正と奥入瀬が座り、私とゼルマ、米呂院、つむじが元亀車の中に乗り込むと、紅尾は元亀車を持ち上げた。清明はあおすけに跨り、空を駆ける。アダダラは地中を進むことになる。

 『よし、いよいよだ。行くぞ。』

 頭の中に清明の声がこだまする。『聞こえる』のではなく、『伝わる』のだ。同じように私たちの言葉も清明に伝わる。清明による『風哭きの術』の効果だ。

 空に舞い上がると、100mの距離などはないのと同じだった。ほんの数秒で鬼の集団の上空にたどり着く。既に博正が鬼祓で曲を奏で始めていた。冴え渡る笛の音には、少なからず怒りが込められているように感じる。

 鬼たちが、一斉に上を見上げる。ぽかんと口を開けているもの、こちらを指差して警戒の声を上げている者、手にした武器を振り上げて、威嚇するような者もいる。だが、元亀車が高度を下げ、博正の笛の音が届くようになると、それらの鬼は弾かれたように飛び上がり、耳を押さえてうずくまったり、苦悶の叫びを上げたりして、その動きを止めた。しかし、体の大きい鬼や、身なりの比較的いい鬼は、確かに嫌がってはいるようだが、苦しんだりはしていない。鬼祓の効果は鬼の格によって変わると言う。博正はまず、圧倒的に数の多い、『格の低い』鬼をターゲットにした曲を奏でているようだった。

 元亀車の高度が10mくらいまで下がると、米呂院とゼルマが左右に飛び降りた。砂煙を上げて着地すると、それぞれ鬼の輪に向かって突進を開始する。清明はさらに上空から、紅尾に着地地点についての指示を与えていた。その指示に従い、位置を調整し、失踪者のほぼ真上でさらに高度を下げ始めた。このくらいの高さなら、いけそうだ。


 私も元亀車から飛び降りた。抜き払った鬼丸で、一番最初にあの残忍な悪戯を繰り返していた鬼に切りつけた。鬼は何が何だかわからないような表情のまま、黒い霧に包まれて消えていく。すぐに周囲を見回し、元亀車の着地の邪魔になりそうな鬼を探したが、他の鬼は米呂院とゼルマの奇襲に完全に桟を乱していて、人間のことなど忘れているようだ。

 「三浦先生!」

 私はそう叫ぶと、失踪者の集団に近付いた。恐怖と疲労で、全員ぐったりしていたが、突然現れた私を信じられない、というような目で見ていた。

 「わ、渡辺・・・さん・・・⁉」

 三浦先生が左肩を押えて、ゆっくりと立ち上がる。

 「先生!みんなを、あの車の中に!」

 その声に、他の生徒も反応して立ち上がった。ちょうどよく、元亀車が音もなく着地する。博正は笛を口から離すと、手振りを交えて大声で叫んだ。

 「こっちだ!早く!」

 言い終わるや、また笛を吹き始める。隣の奥入瀬が御者席で立ちあがると、その袖を大きく翻した。袖は薄く、大きく広がり、元亀車とみんなを囲む水のカーテンになった。

 みんなが口々に何かを叫びながら、元亀車に向かってくる。江藤さんの姿も見える。脚にも怪我を負っている様子の三浦先生に肩を貸していた。大江田さまは一旦こちらに来かけたが、三浦先生の様子を見ると、江藤さんとは逆側の肩を貸して、半ば二人で三浦先生を引きずるようにしてこちらに向かってきた。

 『那津!みんなの後ろから、大型の鬼が3体!』

 清明から連絡が入る。私は『了解!』と返事をして、みんなの後ろに向かって走り出した。すぐに大型の鬼のシルエットを認めて、先頭を走って来る緑っぽい鬼に狙いを定めて飛んだ。奥入瀬の水のカーテンを突き抜けて飛び込むと、鬼の肩口に鬼丸の切っ先を突き入れる。鬼はいつもの驚いた表情をして、黒い霧に包まれた。その時、天空から炎の矢が何条も降って来て、残りの鬼に刺さる。走りながら振り返ると、上空の清明が何かの術を使ったようだ。

 私は体に火がついて慌てている鬼の脇をすり抜けざま、鬼丸で首筋を切り裂く。その勢いを活かして左に飛ぶと、もう一体の鬼の脇腹を切り割った。

 目の前に、まだ距離はあるが、多数の鬼がいた。まるで鬼の壁が行く手を遮っているようだった。右を見ると、ゼルマがそれこそ鬼神の働きを見せ、目の前の鬼を次々に手にした武器で攻撃していく。斬り、刺し、叩き、薙ぎ払う。6本の腕が縦横無尽に動き回り、鬼を倒していく。ゼルマの背後には倒された鬼の屍が転がり、動いている鬼は見当たらない。

 左を見ると米呂院が加えた鬼を放り投げ、鬼の壁に叩きつけているのが見えた。噛みついては投げ、踏みつけては蹴り上げ、博正の鬼祓の効果で動きの鈍くなっている鬼は、為す術もなく次々と倒されていく。

 後ろを振り返ると、元亀車の後方で三浦先生を元亀車に乗せようとしているところだった。乗降段の下で、左右から大江田さまと江藤さんが先生を支え、上では二人の女子生徒が二人から先生を引き取ろうと腕を伸ばしていた。外に他の二名が見当たらないところをみると、無事に乗り込めたのだろう。

 このままなら、数分も掛からずに全員が元亀車に乗り込めるだろう。前方の鬼は気になるが、今はまず、救出が最優先だ。私は前方の鬼の壁に向かうのを止め、元亀車の方向に引き返した。

 ドーンという音と共に、私が向かうのを諦めた前方の鬼の壁が、地面から崩れ去った。地中を進んでいたアダタラが、今、着いたのだ。アダタラは口から黄色いネバネバした液体を吐き出し、地面ごと鬼を溶かすと、そのまま体を投げ出すようにして鬼の壁を自分の身体で押しつぶす。いや、そのまま這いずるように前進を始めたから、『すりつぶす』と言った方が正しいだろう。これで、後方の憂いも取り除かれた。

 『いいぞ!全員、引き上げ準備だ!』

 清明からの指令で、ゼルマ、米呂院が攻撃の手を止め、警戒しつつもジリジリと元亀車の方に後退してくる。アダタラも再度地中に戻ろうと、その長い体を巻いた。私も戻る速度を上げた。元亀車まではあと20m。三浦先生も無事に元亀車に乗り込めたようだ。大江田さまが江藤さんの腕を取り、先に乗るように促している様子が見えた。

 その場にいた全員が、半ば勝利を確信した。

 「那津!」

 近付く私に気が付いた江藤さんが、段の途中で足を止め、笑顔で手を振った。大江田先輩もこちらを見ている。できれば、鬼界じゃない学校で見られたかった。

 「江藤さん!早く乗って!大江田先輩も!」

 私は二人に5mくらいのところまで近付いて、急ぐように声を掛ける。

 「君が、渡辺那津か!」

 二人に追い付いた私を見て、大江田さまが笑顔でこちらに振り向いた。こんなに間近で微笑まれたら嬉しいはずなのに、今はそれどころじゃない。

 『那津!何やってんだ!早く二人を乗せろ!』

 清明からも突っ込まれた。わかってるってば。

 「と、とにかく、早く乗って下さい!急いで!」

 私が二人を押し込もうとして大江田さまの左肩に触れようとした時、大江田さまにその手首を掴まれた。

 「そんなに慌てなくたって、いいじゃないか!」 

 「な、なにを・・・っ!」

 言い掛けて、右手首の激痛に顔を顰めた。顔は相変わらずニコニコしているが、掴む力が尋常じゃない。

 「ちょ、ちょっと!い、痛いっ!」

 「あー、ごめん、ごめん!あんまり、嬉しくってさーっ!」

 何か様子がおかしい。笑顔が狂気を孕んでいる。背筋に冷たい物が走った。

 「でもさ、痛いってのは、こういうことを言うんじゃないのぉっ!」

 大江田さまが空いてる右手を伸ばすと、江藤さんの胸にその右手を突き込んだ。少し前まで笑っていた江藤さんは、自分の胸に手首まで突き刺さった生徒会長の右手を見て、キョトンとした顔をしている。

 見る見るうちに、江藤さんの白いブラウスが深紅に染まっていった。

 「い、いぎゃぁぁぁぁっ!」

 江藤さんは今までに聞いたことのない、金属が擦れたような悲鳴を上げた。血しぶきとともに。その血が私の顔にも飛んでくる。私は狂ったようになって右手を振りほどこうとするが、どんなに暴れても、そのたびに右手に激痛が走るだけで、ピクリともしない。

 ジワリ、と大江田さまの額にオレンジ色の点が滲み出てくる。

 「朱点!」

 私は、絶望と共にその名を口にした。

 「ばぁかぁ。遅いんだよっ!」

 そういうと、朱点は右腕を江藤さんの胸から抜き、血だらけの手を私に向かって伸ばす。衝撃に備えるように身を縮めたが、衝撃は襲ってこなかった。その代わり、背中に背負った鬼丸を奪われ、それと同時に突き飛ばされた私は、何度も後ろに転がってから地面に倒れた。

 江藤さんは崩れるように倒れると、そのままピクリともせずに元亀車の段を落ちて、朱点の足元に横たわった。命の灯が消えているのは間違いない。

 朱点は血だらけの右手に鬼丸を握り、その手を高く突き上げて勝ち誇ったような高笑いをしている。

 「那津っ!大丈夫かっ!」

 すぐ隣に、青ざめた顔をした清明が、あおすけに乗ったまま着地する。同時に紅尾が羽ばたいて元亀車が持ち上がった。

 朱点はそれに気付いているようだったが、特段気にもしていない。勝利を噛みしめるように何度も腕を振り上げ、笑い続けていた。その笑いが響くたび、朱点は見る見る大きくなり、その姿を変えていった。制服はとっくに破け、中から赤錆色の身体が現れる。頭からは赤黒い角が二本生え、口には大きな牙が現れた。目からは瞳が消え、黄色みがかった白の眼窩が覗いているだけになった。そして、顔や体に浮かび上がる、無数の朱点。

 「ようやく!ようやくダっ!・・・長かった・・・長かったゾ・・・!」

 鬼にふさわしい、地獄の底から響いてくるような恐ろしい声だった。私も清明も、その声を聞いただけで痺れたようになり、体を動かすことができない。

 朱点がこちらを振り返る。その顔は、「今、初めて気が付いた」とでも言わんばかりの余裕が感じられる。鬼の表情など知りたくもないが、明らかにニヤニヤしているとわかる。

 こちらに近付こうとして、足が江藤さんの身体に触れた。朱点は一瞬動きを止め、不思議そうに江藤さんを見下ろしていたが、やがて何事もなかったように江藤さんの身体を踏んで前へ進む。二度と忘れられないような音を立てて、江藤さんの身体が潰された。

 「・・・ぐっ・・・!」

 口中に酸っぱい味が広がる。それを無理に飲み込むと、やがてそれは鉄の味に変わった。

 「ガゥアーーーーっ!」

 左手から、米呂院が雄叫びを上げて突進してくるのが見えた。だが、その牙が朱点に届く前に、地面から別の鬼が現れ、米呂院の行く手に立ちはだかった。朱点と同じ、4~5mはある大きな鬼だ。右では、少し離れた場所で、既にゼルマと鬼が戦っていた。ほぼ倍の大きさの鬼を相手に、ゼルマもよく戦っているようだったが、かなり劣勢のようだった。その向こうでは、アダタラが長い龍のような化け物と死闘を繰り広げている。

 朱点は周囲を見回し、殊更口を大きく歪めた。笑っているつもりなのだろう。

 「バカメ!このワたしヲ、ダシぬけルとでモおもッタのカ!」

 そう言うと、朱点は右手の鬼丸を長い爪の付いた親指と人差し指でつまむように持ち替えた。朱点が大きくなった分、小さく見える。

 「こいツさエうばエレば、オマえラナど・・・むリョくダっ!」

 朱点は左手でも同じように添えて、鬼丸をつまむ。そのまま鬼丸を私の眼前に来るように差し下ろした。そして・・・

 

朱点の手で、鬼丸が二つに折られた。


「うう・・・ぅっ!」


動けず、声も出なかったが、一瞬にして体中が燃え上がるような感覚が、私を襲った。激しい憎悪が体中を駆け巡った。だが、どうすることもできない悔しさに、頭が爆発しそうになる。朱点を睨みつけている視界が、じんわりとぼやけ、瞳から溢れた涙が頬を伝い落ちる。

何もできなかった。どうすることもできなかった。出し抜けたと思い込んだ。全て、朱点の策略だったのだ。鬼丸を奪うためだけに、破壊するためだけに、朱点が張り巡らした罠の上で、もて遊ばれただけだった。

お父さんが命懸けで伝えてくれた物を、幾多の御先祖が守り抜いて来た物を、私は簡単に奪われた。浮ついていた。憧れの人を無事に救えそうだ、いいところを見せられた、もしかしたら、これを機にもっと近い存在になれるかも知れないとさえ、思った。


くそっ。くそっ。くそっ!


そのせいで、江藤さんは無残に殺された。あんな死に方をするような人では、断じてない。いや、誰であろうと、あんな殺され方をされていい訳がない。

そのせいで、私たちは窮地に追い込まれた。私はいい。自分の油断が招いたことだ。だけど、隣の清明は・・・。清明・・・。考えてみたら、ずっと清明に頼り切りだった。任せ切りだったと言っても、いい。受験の時も、進級の時も。そして、今回のことまで。私が背負わなくちゃいけないことを背負わせて、私の油断と慢心で絶望的な状況に立たせてしまっている。もう、ごめんねも、ありがとうも、言えないのかな・・・。


ダメだ!


ここで清明に万が一のことがあったら、せっかくこの場を離れた博正や三浦先生も鬼界から出られない!そうしたら、いずれは同じ結果だ。だから、朱点は見向きもしなかったんだ。見逃しても、いずれどこかで鬼の餌になるだけだから!


・・・くそっ。くそっ。クソッ! クソッッ!!

私のせいで! 私のせいで! ワタシノッ! セイデッ!


ひゅぅぅぅ、きょおぉぉぉぉぉぉぉぉぉん


 あおすけが、咆哮を上げた。途端に、空間が歪むくらいの衝撃波が襲ってきて、私は文字通り吹っ飛ばされた。転がり続けながら、あおすけを中心にして全ての物が、吹き飛ばされる様子が見えた。朱点は少しの間踏み止まったが、それも数舜のことで、仰向けに倒されると、成す術もなく転がり始めた。米呂院も、ゼルマも、アダタラも、戦っていた鬼の群れごと、吹き飛ばされている。

 良かった。これで清明が逃げ出す時間が稼げる。それが、たとえとりあえずでも。

 そして、私は気を失った。

              ※

 川のせせらぎの音で、私は目を覚ました。柔らかな風が吹き、抜けるような青空には雲一つない。若草と花の香りが、鼻孔をくすぐる。起き上がってみると、一面の草原だった。ところどころに色とりどりの花が、競い合うように咲き誇っていて、ゆらゆら風に揺られていた。

『あー、天国に来たんだ』

漠然と、そう思った。と言うことは、聞こえているせせらぎは、噂に聞く『三途の川』というやつだろうか。

「那津。」

名前を呼ばれて振り返ると、そこに父が立っていた。

「お父さん!」

私は立ち上がって、父に歩み寄ろうとして、制された。

「ダメだよ。那津はまだ、来ちゃいけない。」

やっぱり。何となく、そんな気はした。そうしたいけど、そうしてはいけないんだ、と心が理解している。

「・・・ごめんなさい・・・。私、ダメだった・・・。」

「何が、ダメだったんだい?」

「鬼丸、折られちゃった・・・。お父さんが残してくれたもの、全部使ったのに・・・。朱点と戦うことすら、できなかった・・・。一方的に、やられちゃった・・・。」

「それで、ダメだった、と?」

「うん・・・。ごめんなさい。・・・ご先祖様にも・・・。」

『申し訳ない』と言いたかったけど、言葉にならなかった。こみ上げる嗚咽が抑えられなかった。

「まだ、終わってはおらんぞ。」

父とは違う声に、ハッとして顔を上げると、父の隣に見慣れぬ鎧武者が立っていた。

「終わって・・・ない・・・?」

「まだ刀を折られただけではないか。腕も、足も、無事に残っておる。それも無くしたなら、噛みつけ。胴で巻き絞めろ。戦う意思がある限り、お主は戦える。」

そうか。私、まだ甘えていた。そうだ、あそこには鬼の使ってた武器もある。石ころだってある。その気なら、まだ戦えた・・・。でも・・・。

「もう、遅い、と思うのかい?」

父が、優しい声でそう言った。それは、ほんとに、人生で一番優しく感じた声だった。私は無言で、コクンとうなずいた。  

「那津、と言うたな。うむ、確かに、我が妻の面影があるのう・・・。で、お那津よ、遅いかどうかはともかく、お主は、どうしたいんじゃ?」

「・・・わたし・・・わたし、戦いたい!朱点を倒したい!清明を、みんなを助けたい!戦いたいですっ!朱点と、戦いたいっ!鬼丸の分も、江藤さんの分もっ・・・朱点に倒された、みんなの分もっ!」

父も、鎧武者も、じっと私を見つめていた。私の覚悟を見定めるかのように。

「戦いたいっ!朱点を、倒したいっ!」

バカみたいに繰り返してる。顔中、涙だか、鼻水だか、よだれだか、もうわかんないのでくしゃくしゃ。

「戦いたいっ!今度こそ、今度こそっ!」


「その言や、良し・・・。」


気が付くと、父と鎧武者の後ろに、とても大勢の人が立って、こちらを見ていた。鬼丸のような服の人もいるし、鎧武者もいる。軍服姿の人、綺麗な着物の女性、スーツ姿の人、何かのユニホームを着た子供・・・。大勢の人が、じっと私を見つめてる。


「行け!那津!行けっ!」


目の前に、まぶしい光が広がる。どんどんまぶしく、どんどん大きく。まぶし過ぎて、何も見えない。さながら、光の闇だった。

              ※

しゅぅぅううう


自分が息を吸いこむ音で目が覚めた。

私はパッと飛び上がり、周囲を見回す。

清明は、あおすけの背で気を失っているようだが、無事そうだ。良かった。

だが、朱点は、どこだ!


いた!


あおすけと清明から、30mは離れている。朱点は、頭を振りながら起き上がろうとしているところだった。


ドクンッ!


心臓が、強く、大きく鼓動する。

息を、大きく吸い込んだ。深く、深く。


「いぃぃぃやぁぁぁぁぁぁぁっ!」


私は雄叫びを上げ、朱点に向けて突進を開始した。必ずっ、倒すっ!


その声で朱点がこちらに気付き、私に向き直る。

いつの間にか、私の手にはそれぞれ一振りの刀が握られていた。

左手に、金の刀。

右手に、青の刀。

あっという間に朱点との距離が縮まった。私は刀を顔の前で十字に構えると、遥か手前で跳躍し、朱点に飛び掛かる。


ガキッ!


振り下ろした刀が、朱点が振り上げた左手に食い込む。

まだだ。まだ足りない。


私は両足で朱点の腕を蹴り飛ばすようにして、その勢いで朱点から距離を取って着地した。朱点が、驚いたように左腕の傷を見る。十字に付いたその傷から、細い金と青の煙が立ち昇って、消えた。


私は間、髪を入れず、今度は姿勢を低くして、朱点に切り込んだ。朱点が身構えたのを見て、左に飛び、すぐに右に向きを変えて朱点に飛び込んだ。朱点の右腕が大きく振り回された。私はそれを右手で受け流しながら、左手で掬い上げるように朱点の右腕を切り裂き、そのまま余勢を駆って左に飛び抜けた。今のはなかなかの手応えだった。


朱点の右腕から、さっきより太い金色の煙が昇っている。今度のは、消えない。だけど、私の右腕も、ざっくり切り裂かれていた。受け流し切れていなかった。受けちゃダメだ。躱さないと。


 「コシャくナ・・・こムスめメ!」

 

今度は朱点の番だった。地響きを立てながら突進してくると、左腕を地面に叩きつけるようにして攻撃してきた。余裕を持って躱した地点に、右手が突き込まれる。後ろに飛んでそれも躱すと、今度は蹴りが襲ってきた。これは躱せない。私は両手でその足をブロックしたが、あまりの重さに吹き飛ばされて転がった。


飛び跳ねるようにして起き上がり、右手の刀を突き出しながら朱点に飛び掛かる。朱点が受け止めようとして両手を開いたところで、クルリと姿勢を変え、錐揉み状態で朱点の胸に切りつけた。ひるまず掴み掛って来る両手をすんでのところで躱し、足元にしゃがみ込むと、左脚を切りつけながら、朱点の股の下を通って後ろに回り込む。


たわめたバネをいっぱいに伸ばし、思い切り上に飛び跳ねた。ちょうど向きを変えた朱点の顔が、目の前にあった。私は朱点の左の角を切り落としたが、振り上げた手に足首を掴まれ、そのまま地面に叩きつけられた。


肺の空気が、一気に押し出された。空気を求めて必死に息を吸いこむが、激しい痛みがそれを拒む。目の前がチカチカして、視界が狭くなる。まずい!

 

 朦朧とした意識を必死にかき集め、とにかく距離を取ろうともがいたが、足が言うことを聞かない。よく見ると、左足が有り得ない方向に曲がっていた。折れているに違いない。息を吸いこむと、胸にも刺すような痛みが襲ってくる。


 どーん!


 大きな音と共に、何か白い物が朱点にぶつかった。米呂院だ。全身血だらけだったが、まだ戦おうとしている。よく見ると、皮膚が裂け、あばら骨が一部見えている。朱点が膝を着く。左手で角の部分を押えていた。その部分から、どす黒い粘液が流れ、顔の半分を覆っている。確かに、朱点も弱っている。


 ふいに、朱点がビクンと背をのけぞらせる。今度はゼルマが、最後に残った腕で朱点の背中に切りつけたようだ。朱点は半身を返し、ゼルマに強烈な蹴りを浴びせ、それをまともに受けたゼルマは小石のように吹き飛んだ。


 あおすけは、背中の清明がケガをしないように、脚を折りたたんで座ってから、清明を背中から降ろした。小声で鳴きながら、清明を鼻で突いたり、足で軽く蹴ったりしてみるが、意識は戻らない。あおすけは、清明の隣に座り込むと、その角を清明の胸に触れさせた。

 

 清明は意識を取り戻した。ハッとして飛び起きると、少し先で、朱点と那津が戦っているのが見えた。那津が朱点に抱きすくめられそうになり、思わず首を引っ込めた。だが、那津はするりとその腕を抜け、朱点の足元から後ろに回り込むと、飛び上がって朱点の角を切り落とす。だが、飛び抜けようとした足を朱点に捕まれ、したたか地面に叩きつけられた。

 「まずいっ!」

 清明は心配そうに見つめるあおすけに跨ると、空に駆け出しながら、片手で印を結び、呪文を唱え始めた。

              ※

 博正は元亀車に乗りながら、鬼界に潜入した地点まで戻って来ていた。途中であおすけの咆哮を受けた紅尾が恐慌を来たし、元亀車ごと墜落しそうになったが、何とか持ちこたえ、フラフラになりながらもここまで送り届けてくれたのだ。

 元亀車の中を覗くと、ぐったりした様子の5人が身を寄せ合っていた。三浦先生のケガはひどかったが、茶箪笥の菓子の効能で、順調に回復に向かっているようだった。だが、生徒会長と江藤さんがいない。あおすけの咆哮からそこそこ時間が経っているが、那津や清明が戻って来る気配もない。そこで、入った時に使ったお盆のことを思い出した。

 「紅尾、悪いんだけど、様子を見て来てくれないか?」

              ※

 米呂院とゼルマのおかげで、なんとか立ち上がる時間が稼げた。体中がバラバラになりそうなくらいに痛んだが、刀は二本ともある。刀を振るう腕もある。偶然ではあったが、朱点の角は明確な弱点のようだ。もう片方、右の角も落とせれば、勝機が見出せる。朱点が膝を着いている今が好機なのだが、正面から突っ込んでは危険だ。


「那津!」


考えあぐねているところに、清明があおすけに乗ってやってきた。頭上に炎の矢が何条も浮かんでいる。

そうだ!


「清明!朱点に火箭を打ち込んで!!」


清明は左手を天高く突き上げ、右手で朱点を指差した。途端に火箭が凄まじい速度で朱点に撃ち込まれる。


同じタイミングで、私も飛んだ。

火箭に気を取られた朱点が、点を仰いだ。


今だ!


私は刀を交差させ、自分も火箭に貫かれながら、朱点の右の角を捕らえた。朱点がこちらに気付いた時には、もう遅かった。私は飛び込みながら両手を外に開くようにして、朱点の右角を切り落とした。


「ぐぅおおおぉぉぉぉ!」


受け身を取る余裕もなく、私は再び、地面に叩きつけられた。全体重と飛び込んだ勢いを一点で受けた右肩が、すごい音を立てた。音だけで、折れたとわかる。


だが、朱点も右の角からどす黒い粘液を噴出させ、苦悶の表情でのたうち回っている。もう一息だ。


その時、地響きとともに地面が次々と盛り上がった。朱点の叫びに呼応したかのように、新手の鬼が現れる。その数は、膨大だった。 


私の背中を何かが登って来た。

この感覚が、絶望なのか・・・。

              ※

 博正は水面で、那津と清明の様子を見ていた。那津の捨て身とも思える一撃で、一旦は朱点を倒せたと思った。しかし、そう思ったのも束の間、地面から夥しい数の鬼が身震いをしながら現れた。那津も、米呂院も、ゼルマも、もはや少しも動かない。アダタラは少し離れた地点でバラバラにされていた。

清明が目いっぱいの火箭を飛ばしているが、とても間に合いそうにない。それに、火箭もいつまでも飛ばせるわけでもない。既に清明は青ざめた顔をして、汗だくになっている。

「くそっ!こんな時に役に立たないなんて・・・。」

ここからでも、戦いの砂煙が遠くに見える。だが、今から走って行ったところで間に合う訳もない。

博正は鬼祓を掴み上げると、地面に叩きつけようとして、思いとどまった。

「っ!・・・待てよ・・。」

博正は、元亀車の中にいたつむじを外に連れ出すと、つむじに何事かを告げた。

               ※

 
 地面から現れた鬼が、朱点を囲むように壁を作り始める。清明が上空から火箭を飛ばし続け、増援の鬼を打ち倒していくが、その壁は徐々に厚みを増し、朱点が見え難くなりつつある。


 遠くから、博正の吹く鬼祓の音色が聞こえたように感じた。
 そんなわけはない。博正は元亀車で飛び去ったじゃない。
 ・・・でも・・・いや、聞こえる!どこからともなく、鬼祓の嫋々とした音色が!空耳じゃない!その音は、徐々に強さを増し、今でははっきりと聞き取れる!


朱点を囲んでいた鬼の壁が、崩れた。鬼祓の音色が苦痛なのだ。無数の鬼たちが、頭を抱えて地面に這いつくばるようにしている。中には、地中に戻りかけている鬼までいる。


朱点が、また露わになった。もはや両手を地面に付け、立ち上がることすらできないようだった。


私は、三度、立ち上がった。左手の刀を口に咥え、動かない右手の刀を左手に持ち替えて跳躍に身構えた。次が、おそらく最後の一撃だ。慎重に目測を測り、残った脚を撓めて、力を溜めていく。


そして・・・


跳んだ。朱点に向けて、まっすぐに。全ての命のために。狙うは、朱点の首、それのみだ。


朱点が弱々しく右手を挙げて、頭を庇うようにする。私はそれを左手の刀で払いのけた。朱点の左手が、肘から少し先で切断され、吹き飛んだ。むき出しになった朱点の首を目掛け、体ごと突っ込むと、朱点とバチっと目が合った。瞳の無いその目に、絶望と恐怖が浮かんでいるのを、はっきりと見て取った。


思い知れっ!


私は、心でそう叫び、首を思い切り振った。


「ぅヌがーーーーーーッ!」


朱点の首が体を離れ、宙を飛びながら、確かにそう言った。


 今度は十分の余裕を持って着地したつもりだったが、折れた足では踏ん張りがきかず、私は地面に転がった。と、同時に、朱点の首のない巨体が、音を立てて地面に倒れる。朱点を取り囲んでいた鬼たちが、我先に逃げ出し始めた。その背に、今では数条にその数を減らした火箭が突き立ち、逃げ惑う鬼に引導を渡していたが、やがて飛来する火箭も無くなった。


 私は起き上がり、警戒態勢のままで上空を振り仰いだ。あおすけの背で、長い首にもたれかかるようにして、清明が肩で呼吸をしているのが見えた。青ざめた顔をして、汗だくだったが、どうやら無事のようだ。


もう見回せる範囲に、動いている鬼はいない。

今度こそ、大丈夫だ。

私は鬼界の地面に大の字に倒れた。


                ※

 川島美佳は、病院で退院前の最終検査を受け、病室に戻るところで、激しくよろめいた。学校の渡り廊下で発見されてから、すぐに病院に入院して、ありとあらゆる検査を受けたが特に異常は見当たらず、明日の午前中には退院することとなっていた。

 「だ、大丈夫?」

 通り掛かった看護師が、慌てて駆け寄って来る。

 「だ、大丈夫です。躓いてしまって・・・。」

 そう言って笑顔を作ったが、実際は違っていた。

 『朱点・・・さま・・・』

                ※


 すぐ隣に、あおすけが降りてきた。清明がその背からずり落ちた。立ち上がれない様子の清明は、四つん這いのまま、私の方に近付いてくる。

 助けに行ってあげたいけど、私も顔を動かすだけで精いっぱいだった。全身の筋肉という筋肉が、限界を超えた酷使に苦情を言っているみたいだ。


「ひでぇ・・・顔だな。」


清明が私の顔を覗き込んでそう言った。


「清明だって、死にそうな顔、してるよ。」


清明が私の隣に寝転がった。どちらからともなく、クスクスと笑い出す。やがて笑い声は鬼界中に聞こえるんじゃないかという、大きな笑い声になった。


「・・・だけど・・・やったな。」

ひとしきり笑い合った後で、清明が言った。


「やったね・・・。でも、まだだよ。」

「だな。」

「うん。」


 二人は、重い体を起こして立ち上がる。清明が博正と元亀車を呼び寄せた。博正は清明からの風哭きの伝話が届くまで、鬼祓を口から離さなかったようだったが、今はその音色も止んでいた。やがて二人の元に、博正と共に紅尾に掴まれた元亀車が現れた。奥入瀬とつむじも一緒だ。


「二人とも、ひどいね・・・。ちょっと、臭うよ。」


 博正も笑顔を作って軽口を叩く。まあ、確かに、冷や汗、あぶら汗、普通の汗、ありとあらゆる汗を、数年分一気にかいたような状態だから、仕方ない。

 博正は元亀車の中に声を掛け、果物と飲み物を両手に抱えて戻って来た。私と清明は貪るように甘い味の水を飲み、桃に皮のままかぶりついた。やがてふつふつと元気が沸き起こって来る。心なしか、痛みも少し和らいだ気がする。

 三浦先生や他の生徒が心配そうに元亀車の入り口からこちらを見ていたが、笑顔を作って中で待っているように伝えた。私たちには、まだやることがある。

 清明が地面に転がっている朱点の首を、上から見下ろしていた。私と博正がその傍らに立つ。

「・・・恐ろしい相手だった・・・まさか、人に化けているなんてな。よりによって、生徒会長に・・・。」

「・・・いつから、だったんだろう?中学生の時からかな?」

 私と清明は、中学生の頃から大江田を知っていた。入学時のオリエンテーションで会ったのが初めてだった。私はそこから大江田を追い掛け始めていたから、よく覚えている。

「さあな。だけど、今となっては、もう関係ないだろ・・・。」

「・・・そうだけど・・・鬼丸の言ってた通り、人に化けた鬼が、まだまだいるんだろうね・・・。」

「ああ。今度はそいつらが、俺たちを狙ってくるかもな・・・。」

 三人とも、無言になった。それが、いつなのかはわからないが、現実となる確かな予感があった。

「さて、後処理するか。」

 そう言うと、清明は特大サイズのお札を取り出した。裏も表も、記号のような文字がびっしりと書き込まれている。それを朱点の首に被せると、九字の印を切り、呪文を唱える。


「五陽五神、八偶八気、元柱固具、鬼気祓拭、邪気胡散、金剛縛鎖、急急如律、令!」


 たちまち、お札は複雑に絡み合った、様々な太さの無数の鎖に変わり、朱点の首を覆い隠した。それを、家庭では使わないような特大サイズのゴミ袋に放り込む。人界に戻ったら、今度はコンクリートで物理的に封印する予定だ。

 首のない体は、清明が配合した謎の液体を掛け、その後、あおすけの咆哮で文字通り粉々に砕いた。砕かれた朱点の身体は、砂のようになり、鬼界の風に吹かれて飛んでいった。その間中、博正は葬送の曲を鬼祓で奏でていた。


 江藤さんの亡骸を探したが、ついに見つけることができなかった。あおすけの咆哮で、バラバラになってしまったのかも知れない、ポツリと、清明が言った。


 その後、清明が生気を失い、彫像のようになった米呂院、ゼルマ、アダタラを勾玉に戻す。以前のような輝きは失ったが、時間と共に生気を吸い集め、いずれ復活するという。


 奥入瀬とつむじが、二本に折られた鬼丸と、粉々に砕けた鞘を集めて拾って来てくれた。 
 私はそれを胸に抱き、心の中で鬼丸に詫びた。詫びながら、ほんのわずかな時間だったけど、鬼丸と共に過ごした時間を思い返していた。ダーツではしゃぎ、美味しそうにソフトクリームを食べていた鬼丸。私を慰め、勇気づけてくれた鬼丸。
 人に興味を持ち、テレビや本を熱心に見ていた鬼丸。・・・そして、口にこそ出さなかったが、切望していた朱点との戦い。私のせいで、その願いを叶えてあげられなかった。そのために生まれて来て、長い長い時間、私たち人間のために戦ってくれたのに・・・。
 私は手元に残った金と青の刀とともに、清明にもらった懐紙に包んで、両手に抱えた。


 ここでやるべきことは、終わった。戻ろう。


 入って来た時の逆を辿って、人界に戻って来た。元亀車の中で清明が事情を説明し、すでに全員に例の丸薬を服用してもらっている。三浦先生は生徒会長と江藤さんのことを気に掛けていたが、結局、最後まで本当のことは口にできなかった。今は全員が、まるで夢の中にいるような顔で、どこでもないどこかを、ぼんやりと眺めていた。
 上椙さんの車の中で病院に移動しながら、母がみんなの応急手当をする。    
 元亀車の中で過ごした間に、三浦先生のケガもだいぶ治癒したようだ。

 総合病院の暗い立体駐車場に車を入れ、全員を降ろした。ここなら、いずれ誰かがみんなを見つけることだろう。上椙さんが防犯カメラに細工して、全ての映像を消すことも忘れていない。

「まあ、ジャミングしてるから元々映ってない可能性もあるんだけどね。有線式だった時のために。」

この車にも、湯浅さんや上椙さんにも、まだまだ秘密がありそうな気もするが、今は触れないでおこう。


 病院から出たところで、車内には事情を知った人間だけが残った。戻って来た時の私の状態を見て慌てた母も、今は落ち着きを取り戻していた。それとは逆に、私の肩と足の痛みが激しさを増してくる。アドレナリンが切れたのだろう。じっとりとした嫌な汗が出る。

「ねぇ、大丈夫?」

母が心配そうに聞いてくる。私は無言でうなずいて見せたが、実はそんなに大丈夫じゃない。車が揺れるたびに、息が止まりそうな痛みに襲われる。それに気付いた上椙さんが近くに来て、ケガの状態を見る。

「ちょ、ちょっと!右肩も左足も、ひどい骨折じゃない!なんで言わないのよ!由乃!バックバック!」

 今度は上椙さんが慌て出した。湯浅さんも驚いたように後ろを振り返った。

「な、なになに!戻るの!?」

「いや、大丈夫です!このままマンションに!」

上椙さんの慌てぶりを見て、清明も慌てたように両手を振って訂正する。

「な、なに言ってるのよ!かなりの重症だよ!」

「大丈夫ですから、落ち着いて!」

 清明があおすけの説明をした。あおすけの角には強い治癒能力があるが、鬼界で清明の治療にその能力を使ってしまったため、少し時間を空ける必要があるのだ。それでもなお、上椙さんは食い下がったが、私が自分で大丈夫、と伝えて、不承不承という感じでようやく引き下がった。

「これ、ボルタレン。服用じゃ効き目は薄いと思うけど、何もないよりは・・・。」

 上椙さんが錠剤を2錠と、水のボトルを差し出してくれた。ありがたく受け取って、服用する。

「・・・女の子をこんな目に遭わせて。キミ、もてないぞ!」

 水を飲む私の前で、上椙さんが清明を睨みつける。清明のせいじゃないのに、上椙さんの中で「清明株」が急落したようだった。いつか訂正してあげよう。今は清明も不満そうな顔をするだけで言い返しはしない。申し訳ないけど、私も今はそんな元気がない。

 博正のマンションに着くと、すぐに全員で狭間に赴いた。私は母と元亀車に乗せられ、留守番をする。上椙さんからもらった薬は、恐ろしく効いた。鈍痛はあるが、呼吸を妨げられる程の痛みではなくなっている。

「じゃ、朱点の始末をしてくるよ。」

 他の4人は、朱点の首を物理的に封印する作業に掛かる。すでに、ドラム缶に3分の1ほどのコンクリートが流し込まれて、準備していた物がある。それに朱点の封印された首を入れ、その上からさらにコンクリートを流し込んでフタをする。コンクリートに、様々な金属片を細かくした物と小石を入れるのがコツなのだそうだ。こうすると、硬さも増し、破壊する時にも時間が掛かるらしい。湯浅さんの発案だった。

 そのドラム缶を入れる穴も、すでにアダタラで掘ってあった。アダタラがいない今、埋め戻す作業は人力で行うしかないだろう。場所は、校庭のど真ん中だった。 

 一時間ほどで、みんなが疲労困憊した様子で戻って来た。

「お帰りなさい、意外と早かったね。」

 そう声を掛けたら、一斉に睨まれた。そうだった。元亀車の中では時間の経ち方が違う。私が一時間と感じていたなら、外では4、5時間は経過したはずだ。

「ご、ごめん・・・元亀車の中だった・・・。」

それでみんな納得してくれたみたいだった。無言だったけど、物凄いプレッシャーを掛けられた。赤い彗星もたじろぐほどの。

 黙々と茶箪笥の飲み物や食べ物を口に運ぶみんなを見て、なんだか無性におかしくなってきた。笑ってはいけないと思えば思うほど、おかしさが込み上げてくる。

「・・・ぷっ!・・・」

 到頭、吹き出してしまった。真顔でもぐもぐ口を動かしながら、みんながこっちを見る。その顔を見て、またおかしくなる。

 我慢できずに、声に出して笑った。もうどうにも止まらない。次に、母、湯浅さん、博正と笑いは伝播していった。そして、元亀車中が笑い声で包まれた。もはや、爆笑の渦と言っていい。

「ちょ・・・ちょっと、フフフ、笑わせ、ヘヘッ、ないでよ・・・!」

 笑うたびに左肩や肋骨に痛みが走るが、止まらない。

「那津が・・・ハハハッ、笑い始めじゃないか・・・フハッ!」

「ちょ、ちょっと・・・フフフ、いい加減・・・フハハ!」

 数分後、どうやら爆笑の台風は通り過ぎた。いい加減、笑い疲れたのだ。でも、みんなさっぱりしたいい顔になっていた。

 朱点は体を粉々にされ、首は厳重に封印されて、今は地下3mほどのところに眠っている。しかも、ここは狭間だ。将来的に、人間が掘り起こす心配も皆無だった。

 こちらも犠牲者を出してしまったが、勝利と呼んで、いいんじゃないかという思いがある。安倍晴明が書き残した鬼界と人界の隔離はできなかったが、できる限りのことはした。それでも朱点が蘇ってくると言うなら、来ればいい。今度はもっと、うまくやって見せる。

 全員の目が、顔が、そう言っているようだった。私も、同じ思いだ。悔やんでも悔やみきれないこともあるが、それを今、口に出すのは違うような気がした。


 清明があおすけを顕現させ、私のケガを治療する。頭を下げたあおすけの角を、両手で握る。脈動する温かい波が、全身を包み込む。ほんの数分で、私の身体は元通りになった。よろめくあおすけの首を優しく支え、横たえさせる。少し無理をさせてしまったようだ。

「ごめんね・・・あおすけ、ありがとう・・・。」

 あおすけがこの上なく優しい目で、こちらを見つめ返した。その首を清明が優しく撫でると、勾玉に戻して首飾りに付けた。



土曜日(17日目)

 狭間から戻って来ると、日付が変わっていた。元亀車で過ごした時間の分も考えると、金曜日はほぼ二日分という長さになる。人生で一番長い金曜日だった。

 清明は、戻って来るなり床で横になった。湯浅さんと上椙さんも、ソファでお互いに寄りかかるようにして寝息を立てている。博正が毛布を出して来て、みんなに掛けて回ると、自分も清明の横に長々と寝そべった。

 元亀車の中に長くいた私と母は、二人きりになった。湯浅さん達の向かいのソファに並んで腰掛け、みんなの眠りを妨げないように小声で鬼界での出来事を母に話した。
 
 その間中、母が私の肩を、時に頭を、優しく撫でてくれた。

 とても心地いい温かさと母の匂いに包まれて、いつしか私は眠りに落ちた。


月曜日(19日目)

 今日から『自宅学習』を止め、再び学校に戻る。休暇を取っていた母も、休講していた湯浅さん、上椙さんも、今日から日常に復帰する。

 狭間から戻って来た土日を完全休養に当て、英気を養った私たちは、次の週からお父さんが拝借していたほとんどの物を返却して回った。

 ほとんど。清明の首飾りと、博正の鬼祓は、返していない。

 清明の首飾りは、土曜日の朝、清明が目を覚ますと外れていた。『朱点を倒す』という願いを叶えたからだろう。だが、鬼丸を失った今、これから先のことを思うと、この二つの遺物は、私たちにとっての切り札だ。幸いに大きなニュースにもなっていないし、使える人間が限られることも考えれば、手元に置いておく方が賢明だろう、という判断だった。


 返却に当たっては、湯浅さんと上椙さんの活躍が大きい。二人とも、趣味のサバイバルゲームと『のぞき』で培った技術を存分に発揮した。あらゆる施設に簡単に忍び込み、完璧に目的を果たした。私たちは上椙さんの車で、青森から京都まで旅をした。旅費は、お父さんの遺したお金を使わせてもらった。

 その旅の真の目的とは裏腹に、とても楽しい旅になった。いつか、この時のこともお話できるといいなあ、と思う。


 その旅の途中、旅館のテレビで平安高校の謎の失踪事件が大きくテレビで取り上げられていたのを観た。解決の糸口を見出せない警察が、公開捜査に切り替えたみたいだった。失踪から戻って来た人もいるが、記憶が曖昧で、その時のことは全員が覚えていない、と言っている。集団違法薬物接種の可能性もある、なんて、訳知り顔のコメンテーターが勝手なことを言ってるけど、真実は私たちの心の中。たぶんあなたには、永久にわからない。


 私の手元に残された、折られた鬼丸と、金と青、二振りの刀。湯浅さんが、材質をスキャンしたいと言っていた。それに、現代でも有名な刀工はいるから、鬼丸も『刀として』だけなら、元に戻せるかもしれない、と言っていた。それにふさわしい人を探してみる、とも。

 今すぐに、というわけにはいかないけど、いずれお願いすることになるかも知れない。


 ベッドから出て、制服に着替える。なんだかすごく久しぶりの気がする。ドレッサーの前に座って、髪を整える。鏡の中に、足を伸ばして座りながら、熱心に本を読んでいる鬼丸の姿が、ほんの一瞬見えたような気がしたけど、錯覚だった。


 立ち上がって、窓から外を見る。今日もいい天気だ。天気予報では、かなり暑くなるようなことを言っていた。


 私は、渡辺那津。渡辺綱源次の末裔で、渡辺伊織の娘。

 生まれながらにして鬼退治の宿命を背負った、女子高生だ。


もう、『嫌な夢』は見ない。




「わたなべなつのおにたいじ」
了。

あとがき

最後までお読みいただき、ありがとうございます💕
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お寄せいただいた感想等は、今後の作品に活かせるよう、がんばりますので! 重ねてよろしくお願い申し上げます😊

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