ある「ギフテッド」当事者の半生(2) どうしてこうなった

〜前項(生まれてから中学受験まで)の続きです〜

4.中学入学から国外追放まで

2001年4月、私はJ中学の入学式にいた。
そして3クラス中C組だった(受験の成績は関係なかったみたいだ)。
担任のO先生は少し変わっていて、かつて医薬品メーカーのMR(営業)から学校の教師に鞍替えしたという経緯を持っていた。理科が専門で、自分の担任が好きな教科の担当だと聞いて嬉しく感じた。

その中学校は当時としてはとても異色で、付属高校が甲子園優勝をしたことあるほどの強豪校なのだが、その試合をインターネットで中継するということを行なっていた。自分は迷わずにその班に入った。
そしてその班は中学だけのものではなく、付属高校と一体化して運用しているため、12歳から18歳までが一緒に活動するという中高一貫校ならではの仕組みだったのである。
そしてそれだけ力を入れているだけあって、中学のコンピュータルームには50台ほどのデスクトップパソコンが並ぶ。班の活動は高校のコンピュータルームを使うのだが、そっちには当時非常に高価だった液晶ディスプレイが整然と並ぶ部屋だった。

だが、それだけの環境なのに私は何故か失望してしまった。
何故か?
それは、コンピュータの授業のコマ数が一週間に2コマしかなかったからだ。
内容としてもタッチタイピングから始める有様で、VBでプログラミングしてゲームを作っていた自分からしたら当たり前のことをやっているにすぎなかった。
課題提出は学校独自で開発したアプリケーションを使用してホストコンピュータにアップロードするのだが、インターネット経由というより学校指定の電話番号にアナログで接続して、生徒一人ひとりに配られたID・パスワードで認証するシステムだった。せっかく自宅の自室までLANケーブルを引っ張ってきたのに、それじゃ意味がない。

それでも、前述の「班」は最高に楽しかった。
1年生の時に高校が甲子園出場した時は、取材名目で現地まで無料(普通は五千円)で行けたり、本当にコンピュータ好きな人しか集まらない班だったから、技術的なことも色々話すことが出来た。また何より、中1の自分が高3の先輩と一緒に活動することによって、色んな知識ノウハウを蓄えることができた。

話が少し遡る。
入学生全員がパソコンを自作する学校と言ったが、作るパソコンのスペックとしてはそれほど高いものじゃなかった(セレロンの700MHzだったような)。自分は中学入学祝いにソニーのVAIOをプレゼントしてもらっており、そっちにはCD-RWドライブもアナログTVチューナーも付いていたので、ほとんどそれを使うことがなかった。電話回線に近いところに置いていたので、課題提出で使う以外はほとんど使用しなかった。


そんなこんなで、1年生の思い出は甲子園に取材に行ったことくらいしか詳しく覚えていない。相変わらず家で机に向かうことは皆無で、ほぼ全ての余暇時間をPCに向けていた。

そして2年生。
この頃になって、急激に授業が退屈なものと感じるようになった。
分かりきったことをやることがつまらなくて仕方がないように。
 それから、学校で先生に質問しても納得のいく答えが貰えなかったことも大きい。理科で言えば「一般相対性理論でエネルギーは質量と光速の乗算だが、どうやって説明できるんですか?」、社会科で言えば「共産主義と社会主義の違いは?」みたいな質問についてである。特に後者については「社会主義は共産主義の発展段階で…」とまるで某政党の公式見解を繰り返し言ってるようにしか思えなかった。

それとほぼ時を同じくして、精神的にも不調が出てきた。
いつも眠い、やる気が出ない、といった不定愁訴ではあるが、精神的なものであることは明らかだった。そして、学校への足が徐々に遠くなってきた。

そんな2年生の中頃。担任ではないが学年主任のY先生から、母に対して「一度児童精神科にかかられてはどうですか」と打診があったらしい。そこまで露骨には言わなかったと思うが(当時の偏見とかを考えれば)、私は近所の内科に行き紹介状をもらい、そこで児童精神科がある地域最大の大学病院にかかることになった。

その時担当してくれたのがYドクターである。通って数回は抗不安薬(ブロマゼパムとか)、抗精神病薬(クロルプロマジンなど)が処方された記憶がある。そしてそれを学校に持っていって飲んでいた。

4回位通った頃だろうか。Yドクターの方から「検査を受けてみませんか」と言われた。当時自分は「なんとも言い表せない不安感」に苛まれていたので、即決で受けることに決めた。
 受けた検査は「WISC-IV」と「ロールシャッハテスト」、あとは生理学的な検査(脳波とか)であった。実をいうと、検査だけで相当疲労してしまったのだが。

 児童精神神経科では、本人と親だけではなく親だけの面談も行われることがある。出生した時から今までの発育履歴等も詳細に聞き取るためでもある。
しかも自分の場合相当な議論があったそうで(その病院は検査内容を合議で決めるらしい)、結果が出るまで2ヶ月近くかかった。

そして結果告知の日。最初に母だけ呼ばれたあと、10分くらい経っただろうか、自分も中に入るように言われ、診察室の中へ。
Yドクターは開口一番「いやー君の結果なんだけどねー、相当な議論があって…」
 ??意味がわからなかった。「どういうことですか?」と聞くと、Yドクターは少し考えたあと、こう答えた。
 「君の場合、能力が高すぎる。具体的に言うと、動作性知能指数が141、言語性が185、平均値163なんだよねぇ」
???知能指数?マジカル頭脳パワーでしか聞いたことがないことだった。
間髪入れずに、Yドクターはメモ用紙にグラフを書きながら言う。
「これが平均的な人、動作性も言語性も100、両方の平均値が100だよね。でもあなたの場合はそれをずっと上まってる上に、両方の差が激しい。」
 それでもいまいちピンとこない自分に、Yドクターは続ける。「背の高い人もいれば、小さい人もいるでしょう?それは自分の意思ではどうにもならないことだけど、高すぎても生活するのに不便でしょう。君の場合、背が高すぎて電車のドアから降りられない。そういう意味ね」
 母が思い口を開いた。「なんという病名ですか?」
Yドクターは「そうねえ…あえて病名をつけるとしたら、特定不能の発達障害でしょうね。今日本の中学に通われてるでしょう。もし可能であれば、海外で学習するのもとてもいいかもしれませんね。アメリカにはそう言う人向けの特別プログラムもあるって聞きますしね」

〜かくして、私の放浪の旅は始まった。終わりのない旅へ。

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