ある「ギフテッド」当事者の半生(10) どうしてこうなった

ここからはある程度端折って書くことにしよう。
あまりに長いと、途中で飽きられてしまうから。

結論から言うと、ドクターロバーツにロンドンで再会、なんと彼は医師であった。
オーストラリアで会った時には緊張していたのか、すっかりそんなことを忘れていたのかもしれない。

そこで、ドクターロバーツから意外なことを言われる。
「オックスブリッジに興味はないか?」
オックスブリッジとは、英国の2大大学であるオックスフォード(向こうの発音的にはオックスフッド)とケンブリッジ大学のことである。

 ただ私には少し荷が重い気がした。なぜなら、オックスブリッジといえばパブリックスクール卒業者といったエリートが通う学校というイメージがあり、東洋から来て英国外で学んだ自分を受け入れてくれるイメージがなかった。

それに、イングランドの都市部は物価が非常に高かった。当時はリーマンショックの直前であり、1ポンド240円ほどだった。一方、ロンドンでフラット(アパート)を借りると500ポンド以上かかる。さらに、テスコ(スーパーマーケット)をのぞいてみたが日用品や食料品も高価であり、体感的にはオーストラリアの倍はしたからだ。

私は素直に答えた。『もう少し田舎で、良い学校はありませんか?』
すると、ドクターロバーツは「スコットランドのZ大学というところがある。エディンバラやグラスゴーは知ってるか?」
『聞いたことがあります。フライング・スコッツマン(ロンドン〜スコットランドを結ぶ有名な急行列車)で行けますよね?』
彼は笑いながら続ける。「一度行ってみる意味はあると私は思う。ロンドンには何日滞在する予定か?」
『7日間です』
「じゃあ今夜はロンドンに泊まって、明日君の言う『フライング・スコッツマン』でスコットランドへ行くと良い。私が連絡を入れておくよ」

その後かれこれあって、Z大学医学科に入ることになる。
 Z大学は、ドクターロバーツの出身校であった。そして希望通り、神経薬理学の研究室に行けることが決まった。

当時はとても嬉しかったし、やる気に燃えていた。
 だが、それ以上に毎日多忙であった。4週間250ポンドでフラットを借り、自動車を中古で購入。オーストラリアからイギリスに引っ越し(荷物の送料だけで数万円もした)は比較的楽な方らしいが、それでも日本人にとっては大変だった。

 そして3年目。頑張った甲斐があり、通常6年の課程をあと1年か2年で修了出来る見込みがつく。修了後は研修医となり、各地にみな散り散りになっていく。


 そんなある日。
毎週父にEメールで報告をしていたのだが、何故かプッツリと返信が途切れてしまった。電話は時差の関係で避けていたが、いつもだったら1日経たずに「よかったね」とか「頑張ってるね」とか短文でも返信が来た。それが全くなくなったのだ。

何か嫌な予感というより、なんでだろう?と思い自宅に電話をした。が、呼び出し音だけで出る気配がない。そこで、いつも2階の番号にかけていた電話番号ではなく、自宅の1階の電話番号に電話をすることにした。
(私の当時の自宅は電話回線を2本引いていて、1階は祖父母用、2階は父母用として使い分けていた)

数回電話を鳴らすと「もしもし」と電話に出た。祖母の声だ。
私は『メールに返事がなくて2階に電話したんだけど、出る気配がなくてさ…』と聞いた。
 数秒の間があったと思う。
「実はね…お母ちゃんが倒れて、今○○病院に入院してるの。まだ検査結果は出てないけど、多分胃がんだろうって」

 - 愕然とした。
本当に驚いた時というのは言葉が出なくなるというが、まさにそれであった。

 母が入院したことで父は自分の会社につきっきりになり、自宅に戻れないとのこと。だから、弟と妹は1階で祖父母といる事、だから電話に出ることが出来ないということを伝えられた。

ただその段階では、自分にはどうしようも出来なかった。祖母が言うには、組織の生検検査の結果が出るには、あと数日かかるとのこと。
そこで、3日後に改めて電話をした。

 診断は「スキルス性胃がん」。胃がんの中でも最も良後が悪い悪性腫瘍である。
当時の私の知識では、胃壁の内側でがんが進行し、気づいた時には相当に進んでいる病態−。そう言う具合である。著名人だと、アナウンサーの逸見政孝氏が若くして亡くなった原因でもあった。

私は、ほぼ迷わずに日本へ帰国する道を選んだ。
 父と母で経営している会社が現在父一人でやっている状態で、その状態で父も体調を壊したら最悪帰ってくるチケットすら買えない状態になる。
 そして何より、私を一番愛してくれた母を横目に、異国の地で勉強する気持ちにはとてもなれなかった。

  2011年、1月の出来事である。

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