ある「ギフテッド」当事者の半生(12) どうしてこうなった
2013年の初め。
母が腹痛を訴え、定期通院中の病院に救急車で搬送され、そのまま入院するということが起きる。
恐れていたことが起きてしまった。つまり、がんの再発である。
母は、抗がん剤と共に麻薬性鎮痛剤を使いながら、自宅で休養することになった。
父と私二人で動かしているのを見て、母は毎朝私に「ありがとう」と声をかけてくれていた。私は寝起きが悪く母に起こされることもあったし、母にとっては「自分の代役」を担っている息子に、精一杯の言葉がそれだったのだろう。
そして、抗がん剤の再開と共に母はまたやつれていく。
その当時の処方薬一覧を見たが、テガフールという抗がん剤と一緒に、オキシコンチン・オキノームというオピオイド(麻薬性鎮痛剤)が処方されていた。私は抗がん剤のプロではないので用量についてはあまり存じ上げないのだが、オピオイドについては論文を執筆したことがある程度の知識はある。量的にいえば、相当な眠気や便秘といった副作用が出てもおかしくないほどであった。
実際、便秘がひどいと何度も口にしていた。ただそれが胃を全摘したからか、オピオイドを使用しているからか、はたまたフルオロウラシル系の抗がん剤の副作用か、特定は私には出来なかった。
– 実の母で「生体実験」なぞできるはずが無い。
私に出来たことは、ただひたすら仕事をすることによって母を安心させることと、『大丈夫。きっと良くなるから』と励ますことしかなかった。
そして、2013年秋。
実を言うと、私はその当時『もうダメかもしれない』と薄々感じるようになってきていた。体重は40kgを切り、荷物を持つことすらままならなくなってきた。
もし自分であったのなら、緩和治療を始めるレベルにまで来ていた。
でも、そんなことを言えるはずもないし、言いたくもなかった。
なぜなら、母は明確に「死にたくない、生きたい」と強く思っていたからである。
それは言葉にしなくても、明確に伝わってくるほど強い意志だった。
いくら医療に携わっていた者としても、そういう意思を持つ人に対して『あきらめましょう』なんて言うことが出来るだろうか。私には出来ない。ましてや、実の母親だ。
自分にできることは、相変わらず仕事を頑張りながら、励ますことだけだった。
12月。私の誕生日の日、母は辛そうながら会社へ来た。
もちろん、まともに仕事が出来る体調ではない。それで、私と一緒に夕方帰ることになった。
帰り道、母は途中にある小さなレストランへ行こうと言った。
「今日誕生日だもんね。美味しいもの食べようよ」
本人はまともに食事が出来るような体調ではなかったと思う。実際出てくる料理にほとんど手をつけず、私に「食べなよ」と差し出した。
無神経な私は、それを食べながら言った。『頑張ろうね』。
そしてその後一回だけ、16日が母にとって最後の出勤日となった。
2014年1月。
母は「鎌倉へ行きたい」と突然言った。鎌倉へは、かつて私が不登校だった時に一緒に行ったきりである。もちろん、私は母を連れて鎌倉へ電車で行くことになった。
大仏の前で熱心にお祈りする母。
私も手を合わせたが、きっと同じことを祈っていたんだと思う。
帰り道、大船駅で階段を降りることが出来なくなった。
私はおんぶして階段を降り、タクシーを捕まえて自宅まで帰った。
それが最後の、母との二人きりの思い出である。
その月の終わりに、母は腹痛を訴え救急搬送された。
たまたま弟が来ていたので、救急車には弟が付き添いで乗ることになった。
私は弟に『仕事が終わったらすぐ行く』と約束をして、仕事に向かった。
その日の夜、仕事を終えた私と祖母で病院へ。
「大丈夫だから」と本人は言い、「目覚まし時計にメモ帳、携帯電話に…」と私に持ってくるよう指示をした。私がメモリストを書いていないのを見ると、「ねえ、ちゃんと聞いてるの?」と言うくらい、気丈に振る舞っていた。
帰り間際、突然「水が下半身にかかっている」と慌て出す母。
病院のベッドの上で、コップすら置いていなかったのだが。
ついに、せん妄の症状が出始めたのである。母はフェンタニルパッチ(モルヒネの100倍程度強力な鎮痛薬。量が少なくても有効なためテープ状になっており皮膚からの吸収でも効く)を付けていたので、それによるせん妄か、もしくは死戦期せん妄だと思われた。
私は母の手を握りながら、いつもの口癖のような『大丈夫だから』と言うことしか出来なかった。
翌朝、病院から電話が来た。
「危篤状態です、今すぐ来てください」と。
父は11時に仕事を終えたらすぐ向かうと約束し、いつもの通り出勤していった。
私はタクシーを捕まえ、病院へ急行する。
病院に着くと、祖父母と妹がいた。
すでに意識はなく、バイタルサインも良くない。
弟はこっちへ向かっているという。
そんな中、妹と二人で医師から延命治療の可否について尋ねられた。
私は「楽にさせてあげてください」と言った。苦渋の決断ではあったが、あれほど苦しんできた母を間近に見てきた自分には、正直母をこれ以上苦しめたくなかったのが本音だった。
妹も同調し、同意書にサインをする。
約束通り、父が正午前に到着。
そしてもう一人、母の新潟時代からの友人であるMさんも来てくれた。
意識はないが、Mさんが話しかけると脚をバタバタと動かし、何かを伝えたそうであった。
正午過ぎ。
母は穏やかに息を引き取った。
享年54。あと1ヶ月ちょっとで、満年齢54歳を迎えようとしている時だった。