創世記第18章16〜33節「アブラハムの異議申し立て」
6月30日における尾久キリスト教会の広瀬邦彦先生による説教。この日の題材は創世記第18章16〜33節「アブラハムの異議申し立て」。
今日読んだ創世記の部分は「とりなしの祈り」つまり他者のために祈ることについて触れている。前節でアブラハムが天幕に招き入れた3人の旅人つまり天使は、目的地のソドムに向けて出発した。ソドムの地はヨルダン🇯🇴の低地で、肥沃な地帯だった。しかしその住民は堕落し、罪深い街であった。ここで神はアブラハムに対して、ソドムを滅ぼすことについて諮問した。全能なる神ならば、滅ぼすなら直ぐにもできた。これに対してアブラハムは、ソドムの罪なき人々への救済を訴えた。
ここで言えることは、祈りは未来を変えるということである。神は決して独裁者ではない。祈りを聞き入れて行動を起こす。神は1人では判断せず、アブラハムのことばを受け入れて、ロトとその娘たちが救われた。イギリス🇬🇧のメソジスト運動派であるジョン・ウォスレーによれば「神は祈りの答え以外には、何ものも行動しない」と語っている。われわれは祈ることによって、神の計画に参加できる。今日読んだ箇所の後半は、アブラハムの神に対する値切り交渉である。神はアブラハムが異議を唱えることを期待していた。そうでなければソドムに鉄槌を下すことを、人間に知らせる必要もなかったのだから。
旧約聖書には「破れ口」ということばが頻出している。これは城壁の破損箇所を指す。そこが敵の侵入経路となるので、誰かがそこに立って命懸けで守らねばならない。すなわち「とりなす人」がアブラハムであり、キリストであったのである。家庭の破れについて祈った少女がいた。肺病に罹った母は家で寝たきりだった。父は昼は働きに出て、夜は家事に勤しんだ。そんなある日、父が帰宅していたら、母は洗濯板で洗濯をしていた。「ダメじゃないか、寝ていないと」と父が叱ると、母は「貴方は仕事で疲れているのに申し訳ない。洗濯機さえあれば、私にも洗濯くらいできるのに」と嘆いた。これを聞いていた少女は、教会の礼拝で「祈れば叶う」と教えられ、ままごとの時も「神さま、お母さんに洗濯機を下さい」と祈っていた。ある日、教会員の募金で教会に新しい洗濯機が入った。「古い洗濯機を要る人はいませんか?」との教会の呼びかけに、少女は真っ先に手を挙げた。こうして古い洗濯機は、少女の家庭に届けられた。
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