藤子不二雄Ⓐ先生の思い出その①
藤子不二雄Ⓐ先生がお亡くなりになった。享年88歳。朝まで一緒に飲んだまま自宅にタクシーでお帰りになって、そのまま家の前に止まった迎車に乗り換えてゴルフに行く。そのゴルフ帰りに麻雀に行って、それからまた飲みに行くような破天荒な生活をなさっていた。それなのに、かなりのご年配まで病気一つしたことがない。だから永遠にお亡くなりにならないかと思っていた。少なくとも100歳まではご存命と信じていた。やっぱりその晩は眠れなかった。ずっと心の中で先生の歌う「オバQ音頭」が鳴り響き、口ずさんでもいた。藤子不二雄Ⓐ先生の思い出その①である。
ずいぶんと可愛がって頂いた。ゴルフもご一緒させて頂いた。大御所漫画家の常として、担当編集者は定年と共に職場を去って行く。そうなると苦楽を共にされた編集者が周囲にいなくなる。となると先生の夜の相手は大手出版社のオーナー社長たちしかいなくなる。しかしそういう方々はお忙しい。先生は意外と寂しがり屋だから、そういう時に呼び出されるのが自分だった。夕方6時くらいから、当時の社員を同席させて食事をご一緒させて頂く。先生はお寺出身なので、肉魚が食べられなかった。だから食事のチョイスには苦心した。食べられるのは、玉蜀黍の天ぷら、うどん、米、大根、人参、豆腐、空豆、筍、西瓜、松茸、ゼンマイなど。かと言って高級精進料理もダメ。味の濃いおふくろの味が好みだった。意外と中華料理(野菜)はお好きだった。だから先生と合いそうなお店に何度か通って顔馴染みになってから、先生用の特別野菜レシピコースをお願いしたりしたものだった。素材が野菜だけなので、意外とお金はかからなかった。
その後がハシゴの連続。銀座その①(魔里)→銀座その②(KAJI)→銀座その③(マリハナ)→六本木(OPU)と渡り歩く。部下が眠らないと翌日使い物にならなくなるので、部下は銀座その①が終わってから帰す。その後は自分は絶対に帰らない。最後までおつきあいする。だから先生に信用された。カラオケ好きで銀座その①では「オバQ音頭」を、身振り手振りを入れてよく歌って下さった(動画録画も5つある)。六本木に行くとテレビ朝日の近くなので、仕事を終えた女子アナたちがやって来る。彼女たちは「先生〜❣️」と言って取り囲む。先生は女子アナたちの要望に応えて、色紙に「怪物くん」の絵やサインを描き始める。俳優の小林薫ご夫妻や作家の山田詠美先生たちも顔を出す。そうなると先生はもう僕のことなど興味の範疇外になる。そこでクラブのママから「もう帰っていいわよ」と耳打ちされる。これがだいたい夜中の2時くらい。タクシーで帰るしかない。さすがに部下の三回忌が正午から新潟で行われる予定の日、朝の4時までご一緒させて頂いた日は困った。先生がトイレに行った間に、たまたまお店にいた主婦の友社の社長に「困ったなあ」とボヤいたら「後は僕に任せて下さい」と彼が言ってくれたので、その後の先生のお相手を任せて、タクシーで喪服を取りに行ったこともあった。
先生はトキワ荘ご出身だったので、トキワ荘のお話はよくしてくれた。たぶん200回くらいは聞いている。特にお好きだったのが①寺さんこと寺田ヒロオ先生の話②チューダーの話(焼酎をサイダーで薄く割って飲む)③富山新聞社を辞めた話④手塚治虫先生の話⑤原稿締切をすっぽかして干された話。その中にはマスコミに流れていないような話も多かったので、もっとメモしておけばよかったと激しく後悔。先生の本を多く出した前職場を退職しても、よく先生から電話を頂いた。夕方6時から「今から出てきて」と言われて日比谷の特派員センターに急いだことも何度かあった。しかしそのうちにコロナ禍になった。パーティーもゴルフも宴席もなくなった先生は寂しそうだった。こちらも万が一にでも先生に病気を感染させてはいけないともう三年会っていない。先生から何度も電話を頂いた時に、もっと積極的にご一緒すればよかったと後悔。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?