見出し画像

この半年を振り返る

一月

本来夏だけいるはずの島の古民家に居ついて年まで越してしまった。
古民家の主である友人一家も年末に来て、一家だんらんの年越しの混ぜてもらう。

画像1

元旦は徒歩数分のところにある海がちょうど引き潮で、緑苔むす岩場をどこまでも歩いた。

画像2


それ以来、今も、夕方の散歩コースとして定着している。

冬の古民家は寒いと散々聞いていたけれども、北海道に比べたらやはり大したことはなく、虫もいないのでむしろ快適に過ごす。
まあそれでも寒いことは寒いので、朝起きたらまず風呂。
土間でマツケンサンバを踊りながらホットワイン。
寝る前にまた風呂。
好きな時間にゆっくりお風呂につかれる夢のような生活。
島の冬も最高だと思った。

画像3

二月

二月十九日に札幌に戻ることにしたので、それまで島の行ってないところは行っておこうと、車で色々探索した。

中でも天狗岩までの冒険は楽しかった。

画像4

ほかにも色々行って、島はもうぐるりと一周した。

画像5

そして二月は何といってもオリンピック。
古民家にテレビがあるので、テレビ観戦できて、毎回胸熱!

特に男子フィギュアのゆづの挑戦!
ちなみにその後、練習で四回転半成功した選手がいたとか聞いたけど、それでゆづを超えたことにはならない。いつだって記録を破ろうと果敢に挑んでその壁を突破した人の功績が大きい。

女子ではいまや三回転半も珍しくはないけれど、誰も跳ぼうとしなかった時、果敢に挑んだ浅田真央選手はやはり素晴らしかった。

スポーツの記録はほかの種目もそうだけど、その記録を誰かが超えると、後から続く人が記録を破りやすくなるというのはよくあること。その記録に近づき、もう少しのところまで迫った人がいて、そして記録を破る人が出てくるけれど、それは段階的な突破というか、先に到達する人がいるからこそ、その屍を超えていくじゃないけど、後に続く人が超えやすくなる。

だからやはり果敢に挑んで、誰も突破できない到達点まで行った人はやはり偉大だしすごいと思う。そんなわけで、夏に続いて、島でオリンピックテレビ観戦を満喫した。

そして大量のカープソースをおみやげに帰札

画像6

広島空港が雪で、成田まで四時間飛ばなかったけれど、もともと成田からの飛行機は夜で空港で時間つぶすつもりだったので、わりとぎりぎりで間に合った。

そして戻ると北海道は島とはまるで別世界の大雪。
それから毎日雪かき地獄であった。

画像7

三月

そもそも二月に帰ったのはパスポート更新のためだった。
新しいパスポートは元の苗字。
パスポート写真を撮った日に髪型を変える。
島で伸び放題だった髪に久しぶりにパーマをかけた。美魔女風にお願いします!って感じで、これで年下ゲットだぜ!と思っていたのが、なんだか今はなつかしい。
三月は北海道の友人たちと会ったり、役所に必要な書類を出したり、なんだかんだで忙しかった気がする。

中でも、バイトで一緒だったロシア人が国際事情でカードをブロックされて、現金で東京までの飛行機のチケット買うの手伝ったり、引っ越しの時手伝ったり、挙句、東京の就職先へ送り出したまではいいけどビザの更新ができないとかでお金も送った。バイト料ですぐ返してくれたけど、国が勝手な戦争してるせいで、こんなふうに困ってるロシア人もけっこういるんだろうなと思った。

あと三月は四月から留学に来る中国の学生のために色々調べたり、よく連絡を取り合ってた気がする。 国のコロナ規制などで、ぎりぎりまで無事日本に来れるかわからなくて、ひやひやした。
留学先の大学も不親切というか、中国では情報規制でもあり、日本のことを色々調べられるわけじゃないのに、まあ調べてきてくださいみたいな感じ。

でもロシア人の日本語学校の人も困っている彼が頼れなかったことを考えると、とくに日本の学校側が不親切なわけじゃなく、それがあたりまえで、私が単におせっかいなだけかもしれないとも思った。

まあ自分が旅にしても住むにしても外国人にめっちゃ親切に助けられてきたせいもあるのかもしれない。 そのことを思うと、受け入れ先の日本語学校や大学がどうしても留学生に対して冷たいと思ってしまった。 これは個人的な主観なんだろう。 でも実際彼らはこの時期国の事情もあってたいへんだったわけで……。 まあ、一人一人にそんなおせっかい焼くわけにはいかないんだろうけれど、少なくとも、外国人が困ってることを言いやすい窓口みたいなのは必要なんじゃないかと私は思った。 そして私がそれになりたいとも思った。

四月

四月七日に東京へ。
古民家の主一家の家に泊めてもらう。
四月八日に日本に留学に来た中国の学生と二年半ぶりに再会し、東京で遊ぶ。 

画像8

画像9

楽しかったけれど、自称東京人の中国のおっさんに消耗する。 
しかし友だち一家に癒される。 特に娘ちゃんのハグに癒される。
この時から、自分はつきあう人のエネルギーを吸い取りやすいというか、やられやすいので、自分が心地いいと思う相手とだけ付き合いたいと強く思うようになる。

しかし私はこの後、それとは逆方向に進んでしまう。
悪いパターンが出てきてしまった。

そのきっかけとなったのが、中国の銀行口座の凍結である。

四月はパソコンと携帯を新しく買い心機一転。
日本語教育能力試験の資格取得に向けて島で勉強するはずだった。

が、突然の銀行凍結。 お金がおろせなくなるという事態。

私の悪いパターンというのは、お金がなくなったという焦りから、とにかく焦って働いて目先の金を得ようとすることだ。

そして私は焦ってバイト探し。 家庭教師など登録しまくり、ライター仕事なども探した。 授業をしながらなので、時間は限られている。 短い時間か家でできるものがいいと思った。 その時期、コンビニとかはほとんどなかった。

そんな中、唯一、面接までいって、すぐに働けることになったのが、求人広告にあったカラオケライバー。
しかし面接ではカラオケは歌わなくていいからしゃべればいいと言われる。

そして面接から三日後、四月二十九日からポコチャでライブ配信を始めた。

五月

なんの前知識もないまま始めて、とにかく事務所に最初は長時間やるようにと言われ、毎日十時間ぐらい配信して、喉はつぶれて、声は出なくなるし、わけわからん奴に絡まれたり、疲労困憊でメンタルもやられてきた。

だんだんやってみてわかったのが、これはキャバクラかアイドル課金なんだってこと。この方面の才能が必要。
私はもともと人にこびたりあざと可愛くすることができない。 それができたらとっくにモテてる。 

もう自己肯定感はどんどん下がるばかり。

しかも同時期に三年前ベトナムで知り合った中国人に恋をした……。 これも今思えば弱っていたからだと思う。 まあ、彼は今や新婚だし、どうにもならんし、まあもういいんだけれども、彼のおかげで久々に小説を読む楽しさを思い出し、また書きたいと思えたりもしたので、そこは感謝しておこうと思う。

とにかく毎日本当に疲れてきて、島で丁寧な生活をするどころか生活もガタガタ食生活も適当。当然当初の目的である試験勉強なんてできるわけもないし、声が出ないので授業にも支障をきたしてきた。

おまけにポコチャで台湾人と日本人に日本語教師であることやそのスキルまでコケにされる。こいつらが言ってることはどうあれ、声が出ないので実際授業の質は下がっていたし、日本語教育能力試験の勉強もまったく手がつけられていない。そもそも自分は島に来たのはなんのためだったか……そんなことを改めて思ったことに加えて、失恋やリアルでのダメ出しも重なりメンタル崩壊。もう配信続行不可能となった。

でも考えてみたら、本当にそれは必要なことだったのか?

確かに中国の銀行の口座は止まった。
でもそれで給料がもらえなくなるというわけではなかった。

確かにその時現金はなかった。でも何か困ったことがあっただろうか?

家賃無料の古民家に住ませてもらって住むところはある。
食料もボスに野菜もらったりできるし、隣の鉄人もカレーの材料など色々くれたし。地元から食糧支援があったり、食べるものにも困らなかった。

携帯を買ったりしたので、カードの支払いが困ったけれど、ともだちがすぐにお金を貸してくれた。しかも生活支援にと多めに貸してくれた。無利子で。

そして五月の給料は、ちょうど五月から日本に留学しに来る中国のかつての教え子が、現金で運んでくれた。

翌月からの給料は、日本に帰化した元中国人Yさんの地元のご近所さんのおかげで直に口座に入ることになった。

大学→Yさんの会社の人(中国)→Yさん(日本)→私

しかも手数料を引くどころかなぜか細かい分は切り上げで多めに振り込んでくれた。振り込んでくれたのは私の日本の口座なので、毎回給料を五万ずつおろすたびに手数料九百円ぐらい取られていたのがなくなる。しかも今円安なので、日本円にすると給料が増えたことになる。

つまり銀行凍結する前より、手数料引かれないこともあり、手取りが高くなっている。

そう考えると本当に焦ってバイトする必要あったのか?

結局ここでは私の悪い癖、悪いパターンが表出したわけで、自業自得の結果として、メンタル絶不調状態になったわけだ。

そして私は私の人生の起こる魔法のキーワード「人生万事塞翁が馬」をつくづく思い知らされる。

六月

ライブ配信はもうやめた。
そしてメンタルと体調回復に努めた。
海に行って島猫と遊んだり、週一で信頼できる人のカウンセリング講座を受けている。レクチャーしていただく代わりにレポートをまとめたり再編集のお手伝いをすることになっているので、こんなすごい講義が無償である。
自分を深堀りするために役立つのはもちろんのこと、コミュニケーションに関する部分は教育とも大いに関わっていて、日本語教育の赤本の内容と重なる部分もある。教えることは人の心理に関わることなのだから当然といえば当然なのかもしれないけれど、結びつくのがすごいと思った。

そして六月からやっと試験勉強も少しずつ始めた。いきなり過去問やってみたけど、意外にもわかることが多かった。

日本語教育能力試験は合格率が30%以下で難しいと聞いていたから、もう間に合わないかと思ったけれど、「あれ?知ってる」ってことが多かった。

それもそのはず。私はこの五年間、実践の場で必要なことは知らず知らず身につけてきたのだ。文法も教えながら自分も必死に学んできたし、多くの日本語教師のサイトを参考にしてきている。つまり私は今初めて勉強するわけじゃない。

ただ、自分がやってきたことの名称づけができてなかっただけ。それはもう覚えるしかない。逆に、自分がやってきたことがまちがってなかったことが確かめられたり、もともと興味ある内容なので、勉強がおもしろい。

この一か月、無駄にしたと思ったけれど、まだ間に合うかもしれないと希望がもてた。

だがしかし、中国の経済不況のせいか、来学期から給料が80%しかもらえない。残り20%は学期末にまとめて支払うということだがそんな保証はない。二月までに経済が回復すればって話なんだろうけれど、あと半年で回復するんだろうか。

そこでまた悪いパターンが発動しかける。

何かバイトしたほうが!!!!

六月は学期末で授業も終わり、試験も終わり、採点も終わった。
時間はある。

で、コンビニとかでバイトしようかと、朝のコンビニの様子見に行ったりもしたけれど、最近暑くなってきて、朝起きれないと思ったら、熱中症になりかけたり、もう夜18時過ぎじゃないと外にも出たくない状態なので、無理してバイトしなくてもいいかと思い始めた。

何しろもう七月。
そして来学期は八月末には始まる。
集中して試験勉強だけできるのも今だけだ。

読みたい本もたくさんあるし、何しろ私は五月の失敗から時間はお金以上に大事ということを痛感している。

今、この瞬間、別に飢えてるわけでもなく生活にも困っているわけでもないし、先の不安から焦って働いてもろくなことがないことはもうわかっている。

そして何より大事なのは、どんな状況になろうとも、ぶれない自分創りなんじゃないかと思った。

この半年、ロシア人とか中国人とか、誰かのために動いたこと以外、自分の利益のために動いたことは、ポコチャがいい例でまったくうまくいかなかった。

でも自分を助けてくれた人たちもいて、そういう助けてくれた人というのは、自分もまた自分の利益とか関係なくつきあっているような人ばかりで、結局損得勘定じゃない自分の行動や付き合い方は、巡り巡って自分を助けることにもなるし、逆に自分の得のため、つまり稼ごうということ自体が目的になるとうまくいかないというのがよくわかった。

この半年の反省。

もっと自分を良く知り、自分のパターンを把握した上でいちいち動揺せずに冷静に起こる出来事に対処したいということ。

恋愛のパターンもいい加減になんとかしたい。ポンコツばかり好きになるのどうにかならんのか。あと弱ってるときに頭が恋愛脳になるところとかも。そして恋愛するとメンヘラ発動するところとかも。これは自分深堀りでどうにかなるのかもしれない。

ここ半年の間、ポコチャと失恋で炸裂したのが、老いへの抵抗、失われていく若さへの絶望。女としての自信のなさ。しかしその女としての価値を男目線にしてないか? だからこそ苦しかった五月。見た目とか実年齢はいくつだとかうるさい。自分がおっさんなの棚に上げて何様だよ!……と怒りの日々だったけれども、一番苦しかったのは、そのおっさんと同じようなおっさんが私の中にもいたことで、その自分の中のおっさんが若い女ではない私を裁く! 自分の敵は自分自身に他ならない。なんだこの鏡の法則は!!!! 

でもここでもまた塞翁が馬ってこともある。

まるで膿み出しみたいに自分の全然変わっとらんパターンや、ダメダメな部分が出てきた。この状況にならなければもしかしたら自分の中のこういう部分がなくなっていると勘違いしたまま、ごまかしに気づかないままだったかもしれない。

それにあれだけ忘れられなかったその前の恋をたった一か月好きになった人のおかげ(?)で綺麗さっぱり忘れてしまった。

そして今はそれより来年の仕事について考える。

ひとまず契約更新はしたけれど、中国に戻れる見通しは立たないし、戻りたいのかというと今の状況では微妙。

元旦那も大学を別に辞めてなかったし、ただ中国に戻らないだけらしい。

そういや三月に私の部屋が鼠死体部屋になって使用不能になってることもわかったし、そもそも私は戻る部屋もない。
必要な着物や服は四月に来た留学生が日本に送ってくれたのはありがたかった。

会いたかった学生たちはどんどん卒業していき、今教えている学生たちはオンライン授業でしか知らない。
この二年で学生の価値観や考えもかなり変わった。
国に反感を抱いたり、日本の永住権が欲しいといい始めたり、将来の道がわからないから私の(中国では模範とはされない)生き方や経験から導いてほしいと言う中国の若者たちのために、自分はどこで何ができるだろうと考えるようにもなった。

それと同時にもう若くないと感じ始めて、残りの健康年齢考えたら、自分にできることなんてあるのかとも思ったり。

でもひとまず、今目の前のできることをやるしかないし、今自分と関わる人に誠実に接することしかできない。

この半年、そのおかげで助けられてきた面も多いので、そこだけは生き方として間違ってなかったんじゃないかと思う。

悪いパターンとその対処の仕方でつまづいたけれど、自分をみつめなおすいい機会にもなった……という言葉が強がりにならないように、まずしっかりやることはやって、丁寧に自分を大事にしながら、残りの島生活、有意義に思える生活をしようと思う。

画像10


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?