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集まりは生きている

人は自由な意思を持っている。

だからこそ、人の集まりは自由だ。

けれど、みんなが自由に自分が良いと思うことをしたら、その集まりはバラバラになってしまう。

だから、指導者を立てて、ルールをつくる。

だけど、その指導者やルールに納得できない人たちが出てくる。

すると、反対や分裂が起きていく。

だから、指導者はそうさせないために、権威や暴力を用いて人を服従させる。

それが強まっていくと、人の自由は抑圧されて、不自由で硬直した集まりになってしまう。

教会は、建物ではなく、キリストを信じ従う人々の集まりである。

この集まりには指導者が一人だけ存在する。

それはイエス・キリスト。

イエス・キリストは権威や暴力を使って支配しない。

彼は犠牲的な奉仕を通して、人々の愛と従順を勝ち取られた。

彼は、自分の善ではなく、真の神の善にのみ従った。

彼はすべての人々に、神に立ち返り、自分の道を捨てて、神のみことばに従うように説いた。

けれど、彼は罪人をさばくのではなく、愛して救うために来られ、罪人の罪を代わりに負って、十字架にかかって死んでくださった。

彼は、葬られた後、3日目によみがえった。

それは、神があらかじめ預言者たちを通して、語られたとおりである。

教会は、このイエスの生涯と死と復活という歴史上の出来事を「福音」と呼んでいる。

なぜなら、この福音によって、すべての人は罪を赦され、神の民に加えられ、復活と永遠のいのちの希望が与えられるからだ。

死とさばきを待つ身であった囚われ人を、ご自分の犠牲的な奉仕をもって解放してくださったお方が、イエス・キリストなのだ。

この福音を受け入れた人は、自ら進んでイエス・キリストにいのちをささげる。イエスの愛と犠牲によって与えられたいのちと自由を誰のために使うかと問われ、救い主なるイエスに用いていただきたいと願うからだ。

では、このような人たちが集まる教会という集まりは、どんな集まりとなるか。

「自らの自由な意思を持って、主イエス・キリストに従う集まり」となる。

主イエス・キリストの命令はただ一つ。「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」

教会の指導者はイエス・キリストただお一人である。牧師や司祭は、イエス・キリストに従い、教会を愛するのだ。そして、教会はキリストに従い、お互いを愛し合う。

教会は、愛し合う群れとなる。

この集まりは自由で主体的で積極的で、愛が満ち溢れていく。

これが、本来の人の集まり。

人は生き、集まりは生き生きとして、豊かないのちの実を結びながら広がっていくのだ。

「この方にはいのちがあった。このいのちは人の光であった。」聖書

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