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本当の挫折は大学に入ってから

表紙の写真は大学を卒業する直前の1985年2月に撮ったものです。

夢と希望に溢れた大学の入学式。1981年4月1日。もう40年以上前のことなんですね。忘れていることも多いけど、当時の自分は本当に真面目人間で、数学を究めて学者になってやる、と思ってました。同時に上智大学という名前に惹かれて英語も勉強する、美人が多いだろうという想像のもと彼女ができたらいいなーなんてことも。

式が終わり数学科の人間が教室に集められ、顔ぶれを見渡すとざっと四分の一が女子でした。入学式直後で緊張しているせいか、一目見て美形って感じの子はいなかったけど自分好みのインテリ系リケジョ(当時この言葉はなかった)。

ただ、オリエンテーションとか入学直後のあれこれを過ごすうちにいろいろなことに気がつきました。まず授業は出席を取るということもなくサボろうと思えばサボり放題。でもサボるとついていけずに大変そう。

あと、男子連中はほとんど煙草を吸うんですな。お前ら未成年だろとか言いたいところだけど時代としては男子は8割方吸っていたし、高校でも半分ぐらいは吸っていた。休み時間は廊下で吸うことができて灰皿も置かれていた。もちろん自分は吸わない。

サークルはもくろみ通り将棋と卓球のサークルに入りました。将棋は腕に自信があったのでかなり態度がデカかったです。まあ将棋部なんてそんなもの。ただ、卓球のサークルは高校の時と比べてフランクな感じがあまりしなくて体育会の延長のような感じであんまり合わなかった気がします。

将棋部および数学科のクラスで麻雀をやるようになり、元々ハマる心配はありましたが、一般教養とかではとうとう授業もサボることになったり。

何よりまずかったのは、数学の授業が想像していたのと全然違う。基本的に公理系から定理が与えられ、それを証明するというのが基本。先生は説明しながらサラサラと黒板に字を書いていく。こっちは黒板を写すのに必死。これまで数学や英語という得意科目においてはノートを取るということをせず、先生の説明を聞いててふんふん、って感じで理解できていたので聞きながらノート取るなんてこと出来なかったのです。おまけに解析の教科書は英語で書かれていた。

んでもって麻雀ばかりやってるから予習復習もしないから徐々に落ちこぼれていく。入学した時の意気込みはどこへやら。最初の1ヶ月ぐらいで大学院なんて無理、と思ってしまった。それでも始めのうちは小テストとかやっても中の上ぐらいに位置してたので、クラスの女の子が自分に質問に来たりした。今から思うと噴飯ものだが、顔つきが遊び人風ではなかったのでまともに見られていたのであろう。それに気を良くして勉強するようにすれば良かったものを。

女性関係であるが、サークルおよびクラスでも予想ほど美人はいなかったが結構いい子がいてどうしたものか、とか構えていたらあっという間にみんな彼氏ができてしまった模様。側から見て争奪戦がすごかったもの。とても自分はああいうふうにはできない、と尻込みしてしまった。実はクラスの一人の女性は同じ中央線でたまに同じ時間同じ車両に乗り合わせて話しているうちに好きになっていたのだが、その人も彼氏がいるという噂。元々クラスの男子からも評判良くて自分も本気になってしまったが時すでに遅しの感あり。

それでも1年のうちはまだ良かった。少なくとも専門科目はサボって麻雀とかしなかったし、成績こそ良くなかったけど一応全部の単位は取れた。勉強を究めるというのと彼女を作るというのはできなかったが。

ちなみに今でも後悔しているアホなエピソード。友人二人(二人とも二浪)と自分を合わせて三人で前記の一人の家に行って三人麻雀を徹夜でやって終わった後に「これから東京女子医大の子と合コンの話があるけどどう?」と言われたのに、アホな自分は「えー、いいよ。そんなの行くぐらいなら麻雀やろう」とか言って潰してしまった。どういうツテで女子医大の人と知り合いなのか知らないけど、当時の医学部は今ほど受験レベルは高くなかった。早慶の理系といい勝負ぐらい、レベルの下の方の医学部はもっと下であった。それと1年の始めの頃だったから今後もそういう機会もあるかも、とか思ったのだ。その後大学生活中二度とそのような美味しい話はなかった。

さて、二年生になり表題の衝撃的な事件が起こる。数学科の麻雀仲間(イケメン、性格良し)から自分の代わりに塾教師のアルバイトやってみない?と話がきた。どんな塾かと聞けば専門的なものではなく、中学生の女の子五人ぐらい集めて数学を教えているとのこと。レベルは高くないらしい。で、どうやって進めればいいの、と聞けば勝手に問題をやらせてるから質問が来たら答えればいいらしい。

不安一杯であったが、女子中学生ということでとにかくエッチなことを言わないこと、勉強ができなくても優しく教えるということをモットーに自分なりにベストを尽くした。ただ女子生徒はとても自分に懐いてくれる感はなく、前途多難だなあと思っていた。

不安は的中、翌日その友人から塾の経営者から言われて戻ってくれと言われたとのこと。まあ彼がイケメン、いいやつ過ぎたから自分ではダメということであるが、想像するにというか実際後で聞いたらその通りだったが女子生徒たちみんながあの先生を辞めさせなければ自分たち塾やめると言ったらしい。そう言われたら経営者としても仕方あるまい。

それにしても、だ。いずれそういうことになるかも、の不安はあったが一発でそうなるとは。男として人間としての自信が木っ端微塵に打ち砕かれた。正直数日は何もやる気が起きなかったぐらい。必死に彼がイケメンすぎた、彼と比べたら敵うやつはそうそういない、とか思ったけどそれでも告白して振られた時とは衝撃が違う。人間失格のレッテルを貼られたような気分であった。

その衝撃は高校受験に失敗した比ではない。高校受験は努力不足、実力不足だからある程度諦めがつく。このケース、どうすればいいんだ。

酒は飲めなかったけど、気分は思いっきり荒んだ。大学の授業もサボり、麻雀ばかりやっていく。辛さから逃げるのはわかるけど勉強から逃げるというのは今から思うとどうなのか、の感であるが当時はそれこそ生まれてから一番の衝撃であった。

これだけのせいではないが、大学生活が結構悲惨なものになり卓球サークルはほとんど出なくなり、麻雀のためだけに学校に行くという感じ。上記のショックな出来事のせいばかりではないと思う。麻雀の中毒性も大いにあると思うし、そこまで真面目に生きていた人間が堕ちていくと底無しになってしまうというのもあった。

2年、3年と思い出したくもないぐらい何もしてなかった気がする。細かいこと書けばキリないしそれなりに覚えていることもあるけど、数学科の女性への思いは続いていて、バイトや自動車学校に通っていた時に知り合った女性と仲良くなるチャンスとかあったけど交際を申し込むとかいう気には全くならず。今から思うと何でもいいからそういうこともやっていた方が。

4年になり、単位は1年の時のように全部取れればなんとか卒業できそうという状況。ただ専門は落ちこぼれている上にたくさん残っていてかなりキツイ。それでも何とか頑張り卒業すべき単位は修得した。今でもその時のことは夢に出てきます。太田裕美の「振り向けばイエスタデイ」の歌詞そのまんま。

卒業が不安なので就職活動もままならない感じだったが、当時は就職入れ食い状態だったので二社から内定をもらった。ただ半官半民のようなところを受けて「君成績悪いねえ」と言われて落とされた。当時は行きたくないと思っていたが、その後の人生を考えるとそこに入っているのも一興だったように思うが落とされたものはどうしようもない。

今振り返るに、勉強を小中高時代にもっと頑張って憧れの一橋大学に入っていれば人生変わったかも、というのはさほどない。当時も今はもっと一橋大学って上智大学とは比べ物にならないぐらい難しいから、よほど頑張っても地頭がそこまで無かったから無理だった気がする。

それよりやっぱり上記のような全く面白味がない、というか自堕落な大学生活を大いに悔やんでいる。これは努力次第で変われたから。実際、今でも会う将棋部の同期なんか立派な仕事をしているし、数学科卒の友人も悪くなさそうな人生を送っている。単位が逼迫して数学科=コンピュータソフト関連とかいう安直な考えしか浮かばなかったし、英語その他の教養も人間性も身に付かなかった。

過去は取り返しがつかないが、皮肉にも老後の今、将棋と麻雀にその時と同じぐらいハマっている。これが真面目に勉強して充実したサラリーマン生活を送っていたとすれば将棋も麻雀も今のようなハマり方はしていないだろう。仕事しか取り柄のない人間の困った老後、とかいう可能性もあった。あと何年生きられるかわからないけど、自分の悪かった点、後悔していることを子供達に伝えて幸せな人生を送ってほしいと思う。

上智と聞いた時はがっかりした、という父とは生前あまりうまくいかなかったが、遺産のおかげで割と早めに退職できたというのは感謝でしかない。人生どう転ぶかわからない。

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