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コロナ時代の地域社会学とまちづくり #03  全てが「歴史」となる? 調査対象の消滅

調査対象の消滅

「祇園祭」が中止との報道を聞いた(注:ヘッドの写真は祇園祭の写真ではありません)。

八坂神社のホームページによると、、、、、、

「豪壮かつ華麗な祇園祭は、千百年の伝統を有する八坂神社の祭礼です。
古くは、祇園御霊会(ごりょうえ)と呼ばれ、貞観11年(869)に京の都をはじめ日本各地に疫病が流行したとき、平安京の広大な庭園であった神泉苑に、当時の国の数66ヶ国にちなんで66本の鉾を立て、祇園の神を祀り、さらに神輿を送って、災厄の除去を祈ったことにはじまります。」

 今こそ、コロナの除去を祈って、現代の祇園祭を開催すべきではないかとも感じるが、、、、、、、 

アマビエは信じても、祇園祭のコロナ除去のパワーより「三密」の恐ろしさを信じる、、、、、

アマビエ

 各地のお祭り ーそれが、疫病の除去を祈ることから始まった、当時のコロナ対策であってもー、次々に中止となっている。儀礼は三密を伴い、加えて、それを見に来る観光客がいれば、それは三密状態になってしまう。三密対策ができない以上は、中止にせざるを得ない。

調査実習ができない 卒論で調査もできない

 教室での講義ではなく、地域に出てのフィールドワークや地域貢献こそが地方大学の役割という流れがあり、私の所属する徳島大学総合科学部地域創成コースでは社会調査実習を重要視しているし、卒論でも、理論研究よりは、フィールドワークをしてまとめる実証研究を推奨している。

 しかしながら、コロナによって、祭りやイベントの中止はもとより、日常生活も制限されるようになった現在、「調査対象」が「消滅」してしまった。調査したくてもその「対象」が消滅してしまった。また、近づくことも許されない

通信教育で「黒帯」取得の状況

 参与観察やフィールドワークは、「三密」が伴いご法度。もちろん、社会調査のやり方は遠隔授業でも講義することはできる。が、それを実践する「場」がなくなってしまった。

 まるで、通信教育で空手の黒帯を得るようなもの。自分の実力を試す実践の場はなく、実践から得られる喜びをもとに、さらなる修行を重ね、実力を高める有段者への途も途絶えている。

「三密」にならない、対面調査ではない、webアンケートなどの量的調査は、「コロナ時代」にあった調査法であると言えるが、肝心の調査対象が消滅したことは同じ。

全ては「歴史」になった

 コロナウイルス対策により、我々の社会経済活動は停滞し、様々な活動が中止になり、今までの生活は「歴史」になってしまった。今から始まる我々の生活の基準(ニューノーマル)では、これまでの人間関係の基本をなしていた「三密」を喜ばしいものではなくて、忌避されるものになる(「新しい生活様式」)。再開された活動は、もはや過去との連続性にあるのではなく、近接性による親しさという感情を捨て去った、断絶の先にしかない。似て非ざる者である。

100年かけての社会史研究が一瞬で起こった

 社会学者は、他の学問に比べると「普遍性」には、距離を持てるというか、相対的に物事を見る傾向がある。社会史研究においては、普遍的にみえる様々な社会現象は、実際にはゆっくりと何かしらの影響は受けていて、10年たてば全く違うものになっていたりする/100年前はまったく違っていたことを示したりしていて、相対的に世の中を見ていて、世の中とはそういったものだと思っていたが、、、、、、、、、

 従来は時間をかけて変わっていたことが一瞬にして起こってしまった。また、産業革命のような技術変革というよりは、我々の「恐怖」への対処という社会的な力、権力によって、強制的に発動されている要素が大きいので、方向性も不安定である。

 「コロナ時代」に突入し、今までの「常識」は通用しなくなり、イベントばかりではなく、全ての行動の変化を求めらられ、我々の今までの日常生活は全て「歴史」となり、ノスタルジーの対象となってしまった。


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