怒れることは、素敵な才能なのだと思う
「僕は怒りを原動力にできないんです。」
カフェで友人が唐突にそう言った。
「なにか権力のようなものが上から降ってきたときに、それに対して怒りを持って上手く押し返すことができなくて、怒る前に横に流してしまうんですよね。」
彼としては別にそれが悩みなのではなく、押し返す力を持つ人たちをすごく尊敬している、ということだった。それを聞いて、怒るということは単にネガティブなものではなくて、一つの才能なのかもしれないと感じた。
怒りには2種類あると思う。一つは、フラストレーションを解消するためだけで何も新しく生まない発散する怒り。もう一つは、二度とこんなことが起きないように変えてやろうと自分のエネルギーになる前に進める怒りだ。才能と思えるのは、もちろん後者だ。
僕もあまり怒りを原動力にできないタイプなので、どうしてそういったポジティブな怒りを持てるのか長年の不思議だった。そんな折に、まさにその怒りを持つ人と会う機会があり、色々と話を聞いみた。結果、怒りを原動力とするには、今まで怒りとどういう出会い方をしてきたかに依存するのかもしれないと思った。
まず、前に進める怒りには、第三者としては絶対出会えない。例えば、先生に恵まれず、教育に対しての不信感を持ち、自分が変えたいと思うようになったという怒りは、自分が体験しない限り持ち得ない。
そして、その怒りは他人からは見えにくい。なぜなら他の人からすると、教育を変えたい!という部分が表に立っていて、その奥にある怒りには深掘らないとなかなかたどり着けないからだ。
そう考えると、僕は第一人者の怒り(=前に進める怒り)にはあまり出会ってこなかった。家族や環境、付き合う人に恵まれ、あまり権力のようなもの押し付けられる経験を社会人になるまでしたことがなかった。許せない!という気持ちになったことも少ない。
むしろ、僕は第三者の立場として他人の発散する怒りに出会うことが多かった。いわゆる仲裁役として間に入っていたことがほとんどだ。ただ、それに直面して困っている当事者を助けたいと思ったし、そのためには無意味な怒りの根本を解決しなければと考えるようになった。だけど、そもそも怒りは外部にあるもので、僕の中にあるものではなかった。怒りの根本を解決しようと思う気持ちは一緒でも、怒りが自分の中に内在していないから、怒りをエネルギーにするというやり方ではないのだ。
だから怒りを原動力にできること、つまり怒れることは自身の経験に培った素敵な才能じゃないかと思う。
もちろん必ず持っていないといけないというわけじゃないけれども、やはりエネルギーの溢れる人は怒れる哲学を持っていることが多くて、少しその姿や生き様に憧れるのだ。
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