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ものさしを2つ持っている人たち

この人、知的だなあ

そんなことをその場で思ったりはしないのだけど、振り返ってみて「ああ知的だったな」と実感する、そんな人がいる。

博識だな!と思うのとはまた別の話だ。博識だからと言って知的だとは限らない。知識が豊富にあることは素晴らしいけど、それと「一緒にいて楽しい知的さ」は違うのだ。

ということで、知的であることについて、また自分なりに定義してみると、「ものさしを2本持っている」ということなのだと思う。

ものさしとは情報に対して、それにどんな価値があるのか、どういった意味を持つのかを判断する際の基準のようなものだ。その人の考え方や世界観と言い換えてもいいかもしれない。知的な人は世間的なものさしと自分のものさしの2本を持っているのだ。

その上でどういったことをしているか。

まず、人の話を世間的なもので測りつつ、裏で自分のものさしでも同時に測っている。だからどんな話をしても基本的には理解しようと努めてくれるし、実際に理解もしてくれる。その上で裏ものさしで話を展開してくれるから、話を聞いている人からすると新しい発見になる。

次に、相手の点と自分の点を結んでくれる。知的な人は会話の裏で自分のものさしを常に起動している。その人にとって全く他ジャンルの話をしていても、そこで自分ものさしに反応する話があった時に自分の観点から話を切り出してくる。違う世界でも共通点があるんだよね、という話はそれとは違う世界に住んでいる人からするとわかりやすくて面白い。

そして、話をよく聞いてくれる。これは一番最初にあってもいいくらい大事な要素だ。自分の知識を振り回すことは一切せず、何にでも食らいついて話を聞いてくれる。といってそれを鵜呑みにするわけでもない。一つの話を一つの仮説のような、新しい意見のような感覚で面白がっているような気がする。

こういう要素を持っている人を、僕は「ものさしを2本持っている」と呼んでいて、とても知的だなぁと思う。

ちなみに「頭がキレている」「回転のスピードが早い」ということとは少し違う。潜在的には誰しもが持っている2本のものさしをきちんと使っているかが大事で、いかに面白いことを、キレていることを言うか、とは別世界のお話だ。


最後に。知的な人と過ごした後に感じることがある。それはめちゃくちゃ濃密な時間を過ごせたなぁという充足感だ。楽しかったなあという言葉を、寂しさではなく、満ち足りた気分で言える。それも一つのサインだ。

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