一つの建物でなく、街として美しくある
妻がサボテンの寄せ植えをもらって帰ってきた。大きめのお椀サイズの鉢に、小ぶりの観葉植物が4種類。会社からいただいたとのことで、小林家で育てることになったのだ。
観葉植物は大小ともに10種類くらいあるけれど、いずれも一つの鉢に一つの植物。だから寄せ植えは我が家ではちょっと珍しい。
そんな大した理由はないのだけれど、今までは一つだけの方が、なんとなく育てやすそうだし、鉢に余白もあるし、綺麗に見えそうだなと思っていた。観葉植物屋さんに行くと、そのようにして売られているからというのももちろんある。
だから寄せ植えの鉢が来たときは、「おおおっ詰め込まれてる」と少しうわーっとなったが、最近はだんだんとこれもアリかもしれないなと思い始めた。
なぜなら、いろんな顔を持っているこの鉢が、人間でいうジェネラリストのようにも思えてきて、ちょっと自分と重なるようになってきたからだ。
今まで僕はスペシャリストである方が美しいという概念にずっと囚われてきた。というか、今でもそうではある。一つ何かを明確に持っていて他はない方がわかりやすくもあるし、尖りやすくもある。
そんな気持ちの中で、この鉢植えを見ていると、ジェネラリストでも美しさは持ち得るものなのだということを教えてくれる気がする。
なんというか、一つの建造物ではなく、一つの街として美しいという感じだ。塔のようなサボテンと平屋のようなサボテンたちが絶妙なバランスでそこにいる。つまり、美しさの種類が違う。あり方が違う。
自分もそういう道があるのだと、この鉢植えから少しずつ学んでいる気がする。
だからと言って、油断するとジェネラリストは、下手すると色々が中途半端になってしまうから、今のままでいいかというとそれはまた別の話。自分にとってどれだけの顔を持っていることが良いバランスになるのかを知っていなければいけない。安心はできない。
でも少しでも、人生におけるジェネラリストも悪くないかもと思えたのは、少し進歩した証拠かもしれない。
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