同じ釜の飯を食う
音声データ
詩編・聖書日課・特祷
2024年8月18日(日)の詩編・聖書日課
旧 約 箴言 9章1〜6節
詩 編 34編9〜14節
使徒書 エフェソの信徒への手紙 5章15節〜20節
福音書 ヨハネによる福音書 6章53〜59節
特祷(聖霊降臨後第13主日(特定15))
主よ、どうか絶えることのない憐れみをもって主の教会を守ってください。人間ははかないものであり、あなたに頼らなければ倒れてしまうほかありません。み助けによって、害のあるすべてのものからわたしたちを守り、益となるものを与えて常に救いの道に導いてください。主イエス・キリストによってお願いいたします。アーメン
下記のpdfファイルをダウンロードしていただくと、詩編・特祷・聖書日課の全文をお読みいただけます。なお、このファイルは「日本聖公会京都教区 ほっこり宣教プロジェクト資料編」さんが提供しているものをモデルに自作しています。
はじめに
どうも皆さん、「いつくしみ!」
本日8月18日は……「米の日」だそうです。
先週、この日のお話を準備しながら、「今度の奨励は、どんな話から始めようかなぁ」と、いろいろ考えていたのですけれども、残念ながら、これと言った“面白いアイデア”が思いつきませんでした。まぁ、このように毎週、礼拝のお話をしておりますと、今回みたいに全然インスピレーションが降ってこないことも多々あるわけなのですが……。
でも、そういう時のために、僕には“最終手段”があるのですね。「今日は何の日?」というのを調べるようにしているのです。祝日みたいな、そういう特別な日ではなくて、たとえば、有名人の誕生日とか命日、あるいは、企業とか地方自治体とかが(勝手に?)制定した「〜〜記念日」みたいな、そういうマニアックな情報を掲載してくれているインターネットのページがありまして、それを、今回のようにネタに困ったときにはチェックするようにしているのですね。
それで、今日「8月18日」という日は、どういう日なのかなぁ? なにか「〜〜記念日」みたいな感じで名前が付けられていないかなぁ? と思いまして、そのページをチェックしてみましたところ、このように、今日は「米の日」ですと書いていたわけです。皆さん、どうして、8月18日が「米の日」なのか、分かりますか? この「米」という漢字を分解すると、「(ひっくり返った)八」、「十」、「八」という漢数字3つに分けることができるので、8・10・8、「そうだ、8月18日は『米の日』」にしましょう」ということになったそうです。
お米って美味しい!
お米って、皆さん、毎日召し上がっていますか?
僕はですね、実を言いますと、今年に入ってから、ほとんどお米を食べない生活をしています。ダイエットのために“糖質制限”をしているのですね。なので、お米もそうですし、麺類とかも全然食べない生活を続けているわけです。そしたら、これが結構、結果にコミットしていまして、これまでの8ヶ月で、なんと“8kg”も落とすことに成功しました。凄くないですか?しかも、別に無理をしているわけじゃないのです。白ご飯を食べなくても全然“物足りない”とは思わないですし、一応、栄養バランスを考えつつ、食べたいものを食べる(でも、食べすぎない)っていう感じで続けているので、今の食生活が苦しいわけではないのですよね。
しかも、この“糖質制限”を続けている中で、僕は、ある素晴らしいことに気付いてしまったのです。「お米を食べない」ようにはしていますけれども、絶対に、何が何でも食べない!というわけではないのですね。たとえば、教会でお昼ご飯が振る舞われるみたいな、そういう時には、ちゃんと食べます。1ヶ月に1回くらいですかね。そしたらですね……めちゃくちゃ美味しいんですよね!「えっ!お米ってこんなに美味しかったっけ!?」とビックリするくらい、美味しく感じます(笑)。この間の日曜日も、一宮の教会でお昼ご飯にカレーをいただいた時に、(カレー自体ももちろん美味しかったのですけれども、それ以上に)お米がまぁなんて美味しいのかしら!って思いました。今まで、普通にご飯を食べていた時は、ほとんど意識していなかったですね。むしろ、ご飯といっしょに食べる“おかず”のほうばっかりに関心を奪われていた、ということなのだろうと思うのですけれども……、当たり前のように食卓に並んでいた、“白ご飯”のその美味しさに、僕は出会っちゃったのですよね。コンビニのおにぎりとかを食べても、そう思います。うわぁ、お米って実は、こんなに美味しかったんだなぁ……って。
日本の食事の中心には、「お米」がある――。そのありがたみを、図らずも、ダイエットを続ける中で深く味わい知ることができた、というように感じているわけなのですね。
同じ釜の飯を食う
ところで、お米関係のことわざで、「同じ釜の飯を食う」という言葉がありますね。「俺とお前は、同じ釜の飯を食った仲じゃないか!」みたいな、そういう……ちょっと熱苦しい感じの表現ではありますけれども。
それでですね、この「同じ釜の飯を食う」ということわざに関して、いろいろと調べてみたのですが、そうしたら、この「同じ釜の飯を食う」という日本語のことわざを、“英語”で表現したらどういう表現になるのか、というのを紹介してくれているページがあったのですね。で、そこに、非常に面白いことが書かれていたのです。なんと、「同じ釜の飯を食う」という日本語のことわざは、英語で言い換えれば、たったの一単語で、言い表すことができますよ、と書かれていたのですね。それが、ここに書いている“company”という言葉なのです。
“company(カンパニー)”って、「会社」ですよね。「会社」とか「企業」という意味の言葉として、日本でもよく知られている英語の言葉だと思います。でも、“company”には、他にもいろんな意味があるのですね。軍隊とか、消防団、船の乗組員みたいな、会社以外の組織を表すこともありますし、あるいは、複数人のお客さんの集まり(「〜〜御一行様」のような)を表すときにも“company”が使われます。また、「仲の良い友だちのグループ」とか、更には、人間だけじゃなく、「鳥や動物の群れ」という意味もあるそうです。
つまり、なにかが集まって作られている集合体のことを、英語では“company”と呼ぶ、ということなのですけれども、しかし、只々なんとなく雑多な人たちが集まっているだけでは、それは“company”じゃない、みたいなのですね。“company”であるために最も重要なこと、それは、“何らかの共通する目的”みたいなものがあって集まっている集団である、ということなのです。
この“company”という英語は、語源的には、(com- / pan /-y)このように分けることができます。“com-”というのは「一緒に」という意味。一緒に……何なのかと言うと、“pan”。さぁ、皆さん、お手を拝借。よぉー、パンッ。ありがとうございます。でも、その「パンッ」ではありません。これは、実は「(食べる)パン」のことを指しています。あんパン、食パン、カレーパン……の「パン」のことなのですね。広い意味で言えば、パンだけでなく、食事全般を表すこともできると思うのですけれども、そのように、「パン」を「一緒に」食べる「こと/もの(“-y”)」、それが、“company”という言葉が持つ、本来の意味だったのですね。
パンを一緒に食べる――、つまり、「みんなで一つの食卓を囲むために集まり」、そして、「パンをみんなで分け合って食べ」、「みんなで幸せになる」という、キリスト教の大切な精神がその中には含まれているわけです。それはまさに、日本語で言えば、「同じ釜の飯を食う」。みんなで一つのお釜を囲んで、それぞれに炊きたてのご飯をお茶碗によそって、そしてみんなで食事をする……という、そのような“親しい関係性”があってこそ、真の仲間なのであり、まさしく、“company”と呼ばれるに値する集団だということになるのですね。
無分別な者とならず……
今回の聖書日課の中でも、「パン」のお話が出てきていましたね。旧約聖書の箴言、9章5節のところを見てみますと、「わたしのパンを食べ/わたしが調合した酒を飲むがよい」という言葉が書かれています。これは、“知恵”(神の知恵)が擬人化して語っているセリフなのですよね。そして、その擬人化された“知恵”は、次のように続けています。「浅はかさを捨て、命を得るために/分別の道を進むために。」(6節)
知恵によって、人間はその食卓へと招かれているわけですが、その理由は、第一に、「浅はかさを捨てる(つまり、未熟であることから離れる)こと」、第二に、「命を得る(生きる)こと」、そして、「分別の道を進むこと」。これらが、“知恵からの招きに応えるべき理由”であると言うわけです。
この二つ目の「命を得るため」に、食事をする……というのは、我々“命あるもの”にとっては当たり前のことですけれども、しかしそれだけではいけないと、この『箴言』という書物は伝えてくれています。そうなのです。ここで想定されているのは、一人の食事ではなく、“多くの人のために用意された食卓に加わる”ことなのですけれども、もしも、そのような場面において、ガツガツと自分勝手に好きなものを好きなだけ食べるようなことをするならば、他の人たちが困ってしまいますよね。
なんか、幼稚園とか保育園の子たちに教えるレベルのことのような気もしますけれども、でもおそらく、この『箴言』という書物が想定している読者というのは、大人たちだったと思われます。“教育”というものが、限られた人たちにしかアクセスできないものだった時代においては、今の我々にとって、いろんな人と一緒に生きていくための“当然のマナー”みたいなものも、学ぶ機会が極めて少なかったのだろうと思います。
しかし、実は意外と、現代の我々も……、いや、むしろ、“個人主義がはびこる”この時代を生きる我々だからこそ、この『箴言』が語るようなことを十分に理解できていない部分があるかもしれません。ガツガツ、ムシャムシャ……、自分が満足するのが第一みたいな、そういう傍若無人な振る舞いをするならば、いつかその人は、その食卓には招かれなくなってしまうかもしれない(食卓を囲む人々の輪から排除されてしまうかもしれない)。そうならないためにも、未熟さや無分別の思いを脇へ置いて、広い視野を持ちつつ、様々な人たちと一緒に一つの食卓を囲んでいることを認識しながら、そこにいる全ての人たちが幸せを感じることのできるよう、食卓の上の食べ物、飲み物を分かち合う心を養い続ける必要性を、この『箴言』の言葉は教えてくれているように思うのですね。
おわりに
先ほどご紹介した“company”という英語もそうですし、「同じ釜の飯を食う」という日本の有名なことわざもそうですけれども、どちらにも共通することは、「一箇所にしかない食べ物を複数の人で囲んでいる」という状況です。イエスが福音書の中で、「パンを食べ、ぶどう酒を飲みなさい」と弟子たちに告げられたとき、彼らもまた、一つのパン、一つの杯を何人かで囲んでいたのですよね。もし、誰かが多めにバクッとパンを食べたり、杯からグビッとぶどう酒をいっぱい飲んだりしたら、当然、周りの人たちは困ったことになったのでしょうけれども、多分そうはならなかった。彼らは互いに配慮し合いながら、食事を終えたのだろうと思います。
今、この2024年という時代にあって、79年前までの戦争の時代と比べると、その頃よりもはるかにこの国は経済的に豊かになって、それこそ、冒頭でお話したように、僕なんかね、“糖質制限”とか言って、白ご飯を“あえて食べない”というような、そういう贅沢なことができているわけですけれども、こういった時代だからこそ……、つまり、今日飢えて死ぬか、明日飢えて死ぬかみたいな、命の危機に瀕しているわけではないからこそ、むしろ、“company”の精神、「同じ釜の飯を食う」という精神を大切にしていきたいと思うのですね。
今日の使徒書のテクストとして選ばれていたエフェソ書、その初めの部分にはこう書かれていました。「愚かな者としてではなく、賢い者として、細かく気を配って歩みなさい。時をよく用いなさい。今は悪い時代なのです。だから、無分別な者とならず、主の御心が何であるかを悟りなさい。」(5:15〜17)
「今は悪い時代」と書かれていますけれども、別に、エフェソ書が書かれたと思われる1世紀末から2世紀初めの頃だけでなく、いつの時代も、「できれば正しく生きたいな」と願っている人々にとっては、いろいろと「悪い時代」なのではないかと思います。だからこそ、このエフェソ書の言葉は、現代の僕らに対しても“生きた言葉”として、直接語りかけてくれているように感じるのですね。「愚かな者としてではなく、賢い者として、細かく気を配って歩みなさい。[……]無分別な者とならず、主の御心が何であるかを悟りなさい。」
自分のためだけでなく、自分の周りにいるたくさんの隣人のためにも、そのような歩みを続けていける一人ひとりでありたいと願います。
……それでは、礼拝を続けてまいりましょう。
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