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ホントに信仰のアツい人

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詩編・聖書日課・特祷

2024年8月25日(日)の詩編・聖書日課
 旧 約 ヨシュア記 24章1〜2節a、14〜18節
 詩 編 34編15〜22節
 使徒書 エフェソの信徒への手紙 6章10節〜20節
 福音書 ヨハネによる福音書 6章56〜69節
特祷(聖霊降臨後第14主日(特定16))
主よ、教会はただ主の助けによってのみ健全に立つことができます。どうか絶えることのない助けをもって主の教会を清め守り、恵みと力によっていつまでも堅く保ってください。主イエス・キリストによってお願いいたします。アーメン

下記のpdfファイルをダウンロードしていただくと、詩編・特祷・聖書日課の全文をお読みいただけます。なお、このファイルは「日本聖公会京都教区 ほっこり宣教プロジェクト資料編」さんが提供しているものをモデルに自作しています。

はじめに

 どうも皆さん、「いつくしみ!」
 マタイの聖餐式でお話をさせていただくのは、およそ2ヶ月ぶりとなります。ホンマは、先月(7月14日)も担当するはずだったのですけどね……、その前の週にコロナになってしまったのでした。
 まだ、それが……ね、月曜日とか火曜日だったら良かったのですけれども、水曜日に陽性だと判明したので、水・木・金・土・日ということで、5日間の待機期間が日曜日までになっちゃったのですね。なので、日曜日のお話は、急遽、大西主教様に担当していただくことになったわけです。
 それにしましても、その日曜日の礼拝が終わったあとの大西主教様が、とってもお優しくてですね、わざわざ僕に電話をしてきてくださったのです。しかも、普通の電話じゃなくて、“ビデオ通話”で。

 それで、「あー、大西先生、この度はありがとうございました。本当に助かりました。でも、なんでビデオ通話なんですか?」ってお伝えしたら、「いやー、ただ、君の顔が見たかっただけだよ」って。ホント、それだけのためだけに、わざわざ“ビデオ通話”で連絡してきてくださったそうなのです。嬉しいですよねぇ。礼拝のお話を代わっていただいて「申し訳ないなぁ」って思っているときに、そんなふうにして体調を気遣っていただけるなんて。その大西主教様の優しさのおかげで、心做しか、回復が早かった……ような気がいたしました(笑)

篤(あつ)い

 コロナもそうですし、熱中症とかもね、まだまだ心配な日々が続いていますよね。特に今年は“暑い”な……と感じます。僕はもう、先月からですけれども、このように「空調服」を着て、祭壇奉仕をするようになりました。これ着てないと、僕の場合は汗だくになっちゃうのですよね。多分、今年買って良かった物ランキングぶっちぎりの1位になると思いますけれども、それでも(これを着ていても)、まぁまぁ暑い……。皆さん、どうぞ礼拝中でも遠慮なく、飲み物飲んでいただいたり、扇子で仰いでいただいたりして結構ですので、頑張って熱中症対策を心がけていただければと思います。
 さて、そのような中ではありますけれども、今回は少し、「アツい」お話をさせていただきたいと思います。「アツい」お話……。でも、この「暑い」ではありません。また、「やかんが熱い」の「熱い」でもないですし、「聖書が分厚い」の「厚い」でもありません。そうではなくて、今日は「篤い」お話をさせていただこうと思っております。

 こちらに書いておりますように、「信仰心がアツい」とか、「信仰のアツい人」とか言うときに使われるのは、この「篤い」という漢字なのですよね。こっちの(右上に書いております)物の分厚さを表すときに使われるほうの「厚い」……、この字を使っても、一応、“間違いではない”らしいのですけれども、でも、どちらかというと、この「篤い」という漢字のほうが、「人情」(人の心)とか、あるいは「信仰」とか、そういう精神的(感覚的?)な“深さ”というものを表す場合に使われることが多いみたいなのですね。

なんじら主にありて強かれ!

 本日の聖書日課は、いずれのテクストも、まさにこの「信仰が篤い/篤い信仰」というものについて語っているように思います。特に、その中でも“使徒書”の箇所ですね。本日の使徒書のテクストは、エフェソの信徒への手紙 6章10節以下という箇所が選ばれていましたけれども、その箇所に書かれている内容を一言で要約してみるならば、「あなたがたは一生懸命、『信仰の篤い』人間になれるよう努力しなさい」というような、そういう教えが述べられていたわけです。
 試しに、6章10節以下、もう一度、読んでみたいと思うのですけれども、まぁせっかくそのような……ね、何と言いますか、“勇ましい”感じの内容が書かれているわけですので、ここはあえて、より“勇ましい”雰囲気を出すために、口語体ではなく文語体で読んでみたいと思います。65年前の、昔の祈祷書に書かれていたものを見つけてきたので、こちらのほうで読んでみますね。皆さんはプリントのほうを見ながら聞いてみてください。

 「なんじら主にありてその大能(たいのう)の勢いによりて強かれ。悪魔のてだてに向かいて立ち得んために、神の武具をもてよろうべし。我らは血肉と戦(たたこ)うにあらず。政(まつりごと)・権威、この世の暗きをつかさどるもの、天のところにある悪の霊と戦うなり。このゆえに神の武具をとれ、なんじら悪しき日に会いてあだに立ち向かい、すべての事を成就して立ち得んためなり。なんじら立つに真理を帯として腰に結び、正義を胸当てとして胸に当て、平和の福音の備えをくつとして足にはけ。このほかなお信仰の盾をとれ、これをもて悪しき者のすべての火矢(ひや)を消すことを得ん。また救いのかぶとおよび御霊(みたま)の剣(つるぎ)、すなわち神の言葉をとれ。」(6:10〜17、1959年版日本聖公会祈祷書より)

 ……とまぁ、こんな感じなのですけれども、やっぱり、このように文語体の文章で読んでみますと、より“勇ましい”印象を受けますね。「信仰は戦いだ!」「悪に立ち向かうために備えをせよ!」というようなことが、この「エフェソの信徒への手紙」では語られているわけでして、そして、それこそが“篤い信仰”を持っているクリスチャンとしての姿なのである(!)と、この手紙の読者たちを鼓舞しているということなのですけれども、やはり、そのような威勢の良さというのは、いまの口語体の文章ではなくて、昔の文語体のほうが表現しやすいなと感じます。

胡散臭さ、きな臭さ漂うエフェソ書

 さて、このエフェソ書の6章10節以下の箇所で、最も印象的なのは、僕はこの部分だと思うのですね。すなわち、「神の武具をとれ!」という部分です。

 神の武具――。これはもちろん、あくまでイメージですけれども、「真理の帯」、「正義の胸当て」を付けて、「平和の福音を告げる備え」という“靴”を履き、そして、「救いの兜」をかぶる。しかし、それだけではなく、両手には、「信仰の盾」と、「霊の剣(すなわち、神の言葉)」をしっかりと握りしめて、そうやって“霊的な武装”をしているつもりで、常に悪との戦いに備えておく必要がある!と、この手紙の著者は語るわけです。
 何度も言いますが、“勇ましい”ですね。勇敢で、力強い言葉であるように感じられます。しかし同時に、このような“勇ましい”エフェソ書の言葉から、なんとなくですが、“胡散臭さ”というものを感じてしまうのは……僕だけでしょうか。
 このエフェソ書の著者は、このような、いわば“兵士たちが着る甲冑”をたとえとして用いながら、いかにも具体的な説明をしているようには装っていますけれども、しかし一方では、(前半の部分ですけれども)「悪魔の策略」(11節)とか、あるいは、「支配、権威、闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊」(12節)などというように、非常に曖昧なことを語っている部分もある。彼らが“戦うべき”とされている、その相手のことを、「悪魔」とか「悪の諸霊」という表現でしか説明していないのですね。
 そうしますと、この手紙を受け取った読者たちにしてみれば、いったい、じゃあ自分たちは、何に対して備えれば良いのか……というのが、具体的には分からないということになってしまいます。そして、その内容が一切示されていないにもかかわらず、只々、読者たちは、その“正体不明の敵”に対する“恐怖心”や“敵対心”というものを煽られている……ということになっているわけです。
 このような“具体性”に欠けるエフェソ書の内容に関して、「なんだか胡散臭いな」、「きな臭いな」という印象を持ってしまうのは、きっと僕だけではないと思うのですが、いかがでしょうか。

イスラエルの弱さを予感するヨシュア

 語弊を恐れずに言えば、“中身が不透明であるにもかかわらず威勢だけは良い”というような、そういう内容になってしまっている、このエフェソ書の言葉ですけれども、これは実は、今回の聖書日課の他の箇所と読み比べてみますと、内容が全く“正反対”だということに気付かされるのですね。すなわち、旧約のテクストであるヨシュア記24章、そして福音書のテクストであるヨハネ福音書6章……、これらの箇所というのは、そういう「威勢だけが良い」人たちに対して、主人公であるヨシュアやイエスが、“不信感を抱く”という内容になっているのですね。

ニコラ・プッサン,『アモリ人に勝利するヨシュア』,1624-1626

 たとえば、旧約聖書のヨシュア記のほうを見てみますと、この箇所では、古代イスラエルの人々と、指導者であるヨシュア(モーセの後継者)がともに集まって集会を開いているわけですけれども、その中で、イスラエルの人たちは、指導者ヨシュアに向かって、主なる神への“信仰告白”をしています。16節以下のところですね。「主を捨てて、他の神々に仕えることなど、私たちがするはずがありません。私たちの神、主こそ、私たちと私たちの先祖を、エジプトの地、奴隷の家から導き上ってくださった方であり、(以下略)」というようなことを、堂々とヨシュアの前で宣言しているわけです。
 それで、今回の箇所は、その彼らの語った信仰告白の言葉で終わっているのですけれども、実はこの直後、つまり24章の19節を読んでみますと、ヨシュアは、彼らに対してこんなことを告げているのですね。「あなたがたは主に仕えることができないであろう。」
 ……「私たちはこれからも絶対に、主なる神に従い続けます!」と、そのように“勇ましく”宣言してみせたイスラエルの代表者たち。しかし、そんな彼らの言葉を打ち消すようにして、ヨシュアは、「[いや、]あなたがたは主に仕えることができないであろう」と言い放ったのですね。

十二使徒の不完全性を見抜くイエス


Meister des Perikopenbuches Heinrichs II,『鍵を受け取る聖ペトロ』,11世紀初頭

 ヨハネ福音書のほうでも、同じことが起こっています。イエスの弟子であるペトロは、この時、イエスに対して一種の“信仰告白”のような言葉を語っているわけですが、これもまた、実に威勢よく語られているのですね。最後の部分、68〜69節のところです。「主よ、私たちは誰のところへ行きましょう。永遠の命の言葉を持っておられるのは、あなたです。あなたこそ神の聖者であると、私たちは信じ、また知っています。」
 ところがこの直後、70節のところなのですが、イエスはそんなペトロの言葉をはねのけるように、こんな言葉を言い放っています。「あなたがた十二人は、私が選んだのではないか?ところが、その中の一人は悪魔だ。」(※クエスチョンマークは聖書協会共同訳には無いが、ギリシア語原文は疑問文になっている)
 「私たち十二使徒は、絶対にあなたの傍から離れません!」と威勢よく宣言するペトロに対して、「おーん、そらそうよ。そんなもん、お前な、当たり前のことなのよ。だって私があんたらのこと選んだんやから。でもな、そん中にな、悪魔がおんねん」……というように告げたのですね。その「悪魔」というのは、最終的には「イスカリオテのユダ」のことを指していたわけですけれども、しかし、この箇所ではちょっと違う意味を持っているように読めます。すなわち、ペトロたちのような12人の代表メンバーであったとしても、そこには“不十分さ”、“未熟さ”、“不完全性”というものが内在しているのだ――ということを表す文章になっているのですね。
 イエスは、彼ら十二使徒たちが“弱い存在”であることを見抜いていた。また、旧約聖書のヨシュアも同様に、イスラエルの人々の“不完全性”を予感していた。そして、イエスとヨシュアのそのような予感は、見事に的中することになるのですね。威勢よく“信仰告白”をしていた彼らは、後に、自らの“弱さ”を露呈することになってしまうわけです。

おわりに

 今日のお話のテーマは、「信仰が篤い/篤い信仰」というものでしたね。我々は、このように「信仰の篤い人」と聞きますと、たとえば、心から神さまを信頼しているから、何があってもへこたれない、意思が強い、芯がしっかりしている……、そういう人物像を思い描いてしまうかもしれません。それこそ、「自分は神さまを!イエスさまを!本気で信頼しています!この信仰は絶対に揺らぐことはありません!」というように、威勢よく宣言できる人“こそ”、立派な信仰者だ、篤い信仰を持っている人だと、思ってしまいがちではないでしょうか。
 もちろん、そのように力強く、信仰を宣言できることは悪いことではありません。でも、どうやら、我々のこの『聖書』は、そういう人間を目指せと言ってきているわけではなさそうなのですね。むしろ、自分の“弱さ”や“不完全さ”と真摯に向き合い、それらを「強くしよう」とか、「弱さと戦おう」とするのではなく、その不十分さは、自分ではなく「神」が補ってくださるはずだと信頼して、天にお委ねする人――。そして、今日の特祷の言葉にもありましたように、「ただ主の助けによってのみ健全に立つことが」できるのだと“信じようとし続ける”人――。そのような姿こそ、『聖書』が我々に示してくれている目標であり、まさしく、「ホントに信仰の篤い人」と呼ばれるにふさわしい人物像なのではないかと、僕は思います。

 ……それでは、礼拝を続けてまいりましょう。

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